心に響く聖書の言葉

異言の問題




五、異言の問題

 カリスマ運動の影響で、日本の多くの教会が異言の賜物を認めるようになりました。現在でも異言の賜物が与えられると教える人たちは次のように言います。
 @異言は、霊で祈る祈りである。そのため異言で祈るなら霊性が高められる。
 A異言は神の賜物である。御心に従って私たちに与えられる。
 B異言は神様の祝福である。悪魔の支配から解放され、力を与えられ、強められる。
 では、聖書は異言についてどのように教えているでしょう

使徒 2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
Tコリント 12:10 ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。

 異言は確かに神様が信者に与えられるしるしであり、賜物です。

Tコリント 14:39 それゆえ、私の兄弟たち。預言することを熱心に求めなさい。異言を話すことも禁じてはいけません。
 カリスマ派の人々は上記の御言葉によって、異言を否定する教会を非聖書的と決めつけています。しかしカリスマ派が教える異言の賜物は現在でも本当に与えられているのでしょうか?彼らが口から発する言葉は本当に異言なのでしょうか?

 異言について最も多く記されているのは第一コリント人への手紙です。14章を読むとパウロは人々が教会で異言を話すことを明らかに喜んでいません。

Tコリント 14:4-9 異言を話す者は自分の徳を高めますが、預言する者は教会の徳を高めます。私はあなたがたがみな異言を話すことを望んでいますが、それよりも、あなたがたが預言することを望みます。もし異言を話す者がその解き明かしをして教会の徳を高めるのでないなら、異言を語る者よりも、預言する者のほうがまさっています。ですから、兄弟たち。私があなたがたのところへ行って異言を話すとしても、黙示や知識や預言や教えなどによって話さないなら、あなたがたに何の益となるでしょう。笛や琴などいのちのない楽器でも、はっきりした音を出さなければ、何を吹いているのか、何をひいているのか、どうしてわかりましょう。また、ラッパがもし、はっきりしない音を出したら、だれが戦闘の準備をするでしょう。それと同じように、あなたがたも、舌で明瞭なことばを語るのでなければ、言っている事をどうして知ってもらえるでしょう。それは空気に向かって話しているのです。
 さらにパウロは言葉を続けています。
14:19-23 教会では、異言で一万語話すよりは、ほかの人を教えるために、私の知性を用いて五つのことばを話したいのです。兄弟たち。物の考え方において子どもであってはなりません。悪事においては幼子でありなさい。しかし考え方においてはおとなになりなさい。律法にこう書いてあります。「『わたしは、異なった舌により、異国の人のくちびるによってこの民に語るが、彼らはなおわたしの言うことを聞き入れない』と主は言われる。」それで、異言は信者のためのしるしではなく、不信者のためのしるしです。けれども、預言は不信者でなく、信者のためのしるしです。ですから、もし教会全体が一か所に集まって、みなが異言を話すとしたら、初心の者とか信者でない者とかが入って来たとき、彼らはあなたがたを、気が狂っていると言わないでしょうか。
14:26 -28 兄弟たち。では、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれの人が賛美したり、教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします。そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい。もし異言を話すのならば、ふたりか、多くても三人で順番に話すべきで、ひとりは解き明かしをしなさい。もし解き明かす者がだれもいなければ、教会では黙っていなさい。自分だけで、神に向かって話しなさい。

 パウロは異言の賜物を認めながらも、教会で異言をしゃべることに好意的ではありません。このパウロの言葉を理解するにはコリント教会の背景を知らなければなりません。
 コリントの教会は、とても混乱した教会でした。指導者に従わない人たちや、不道徳を行っている人たちがいました。聖餐式用のパンとぶどう酒を我先にと食べ、飲んで酔っぱらっている人たちがいました。偶像礼拝をしている人たちもいました。そして、教会員は異言の賜物ばかり求めて、集会では多くの人が一斉に異言で話し出して誰が何を言っているのか分からないような錯乱状態でした。その理由は、異言で話す人は誰からも霊的な人と見られるため、得意げになって誰もが異言の賜物を求め、誰もが集会中に異言で話しだしたからです。パウロはそういうコリント教会の状況を知り、異言の賜物についての彼らの理解を改めさせようとしています。
@異言は自分だけの徳を高めるが教会のためにはならないこと。
A異言で話すなら、必ず解き明かす人が立てられるべき事。
B順番に話すべき事。
 パウロはこれらを命じています。パウロはおそらく、彼らが語る異言が本当に神様から与えられたものかどうか疑っているのだと思います。もし、彼らの語っていた異言が神様から与えられた賜物であり、しるしであるなら、教会が錯乱状態になるはずがありません。本物の異言なら必ず解き明かすことが出来るので、その証明ができないような偽異言を教会で語るなと言っているかのようです。もしも彼らの異言が本物の異言であったとしても、異言の賜物ばかり求める教会の結末はコリント教会と同じになってしまうでしょう。

 カリスマ派のある教師は、異言を「御使いの言葉」と呼びます。そしてそれは誰にもわからない言葉だと教えています。

Tコリント14:2 異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。
 また、異言は聖霊が私の代わりに祈ってくださる祈りだと教えます。
ローマ8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
 異言は御霊の祈りだから、誰にもわからない言葉であり、その祈りの祝福は大きいのだと教えます。
 確かにこれらの聖句だけを取り出して学ぶなら、そういう解釈に導かれるでしょう。しかし、異言が誰にもわからない言葉であるとはどこにも記されていません。また異言は聖霊の祈りだとも聖書のどこを読んでも教えられていません。使徒2章、1コリント14章では、異言ははっきりと理解される外国語だと記されています。

使徒2:6 この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。
Tコリント 14:21 律法にこう書いてあります。「『わたしは、異なった舌により、異国の人のくちびるによってこの民に語るが、彼らはなおわたしの言うことを聞き入れない』と主は言われる。」

 異言を話している本人はその言葉の意味が分かりませんが、外国人が聞くなら理解できる言葉が異言なのです。

 もう一つ解決しなければならない事は、現在も異言の賜物が与えられるのかという問題です。その答えは次の聖書箇所にあります。

Tコリント13:8-10 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。
 「異言は止みます」という動詞は、「永久に止む」の意味です。では、いつ止むのでしょうか?「完全なものが現われたら」です。完全なものとは私たちが知る限り、聖書以外に考えられません。異言は初代教会時代における特別啓示です。それは聖書が完成するまでの間、与えられたしるしです。福音が世界中の人々に広められるために用いられた特別なしるしです。そのしるしがずっと続くことはありえません。
 現在では多くの宣教団体が設立され、宣教師たちが世界中に遣わされています。宣教師がすべきことはまず、遣わされた国の言葉を覚えることです。そして覚えた外国語で福音を伝え、聖書を教えるのです。もし、現在でも神様が御心によって異言の賜物を与えられるのなら、宣教師は外国語を覚える必要はありません。しかし、神様が現在では異言の賜物を与えられないから、懸命になって外国語を覚えるのです。
 もし神様が現在でも特別啓示を与え続けておられるなら、クリスチャンは異言を話せるだけでなく、死人は行き返り、毒を飲んでも死なず、障害者は完全にいやされます。牢獄に捕らえられても鎖は解け、地震が起きても安全です。異言を信じる人たちはすべてのしるしが今も起きると信じなければなりません。しかし、今はそのような特別啓示は与えられない時代です。

 では、なぜ今でも多くのカリスマ派の人たちが「異言を語ることが出来る」と主張するのでしょうか?この現象をどう説明できるでしょうか?
@サタン的、悪霊的 オカルト的現象に近い

Tテモテ4:1 しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。
A習得した現象  
 カリスマ派の教師は、異言の祈りを人々に聞かせてイメージを与えます。そして異言で祈る練習をさせます。それは言葉を自分の意思に関係なく発声するという方法です。自分の意識を解放して声を出しなさいと教えます。そして賛美や説教で興奮した精神状態に置くことによって発声させるやり方です。聞いて、練習し、意識を高めることにより、誰でも意味不明の言葉を出すことが出来ます。しかし、これでは神様の賜物と言えるはずがありません。
B心理学的な誘発  
 集団催眠に近い、連鎖反応だと考えられます。例えば、過呼吸になった友人を見て、自分も過呼吸になってしまう人がいます。無意識に友人のまねをしてしまうのです。集団意識が強ければ強いほど、連鎖は起こりやすいのです。教会という集まりはまさに集団催眠にうってつけの場所です。祝福されるためには異言を語るべきだという脅迫観念が働くなら、かなりの確率で異言体験をしてしまうと心理学の専門家は述べています。

最後に、なぜ人々は異言の賜物を求めるのでしょうか?
@霊的な飢え
 自分の信仰生活にはもっと何かが必要と感じているからです。そのため霊的体験による興奮や情熱を求めるのです。
A慣習的な教会の礼拝式に対する非難
 人々は形式だけの冷たい礼拝式に飽き飽きしているからです。御言葉がとくとくと解説される説教よりも、活気にあふれる礼拝を欲するからです。このことは聖書根本主義教会にとって襟を正すべきことです。私達は形式主義や繰り返される礼拝式の中で慣習化された信仰にならないように気をつけなければなりません。常にみことばに信頼し、熱い信仰を持って歩みたいものです。
 聖書の中で、信仰者が霊的に燃やされる要因はただ一つです。それは御言葉です。エマオ途上の弟子たちが霊的に燃やされたのは御言葉を理解したからです。マルタの妹マリヤが主イエスに誉められたのは御言葉をじっと座って聞いたからです。ベレヤの町でクリスチャンが増えたのは、御言葉を熱心に調べたからです。奇跡を体験したからではありません。