心に響く聖書の言葉

聖霊のバプテスマの問題




六、聖霊のバプテスマの問題

マタイ3:11 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。
 カリスマ運動では、クリスチャンになった後にも聖霊のバプテスマを受けると教えます。(油注ぎを受ける、聖霊に打たれる、と言う人たちもいます)聖霊のバプテスマを受けるとどうなるのかと言うと、人によって異なり、異言で話したり、喜びに包まれたり、完全に清められて罪を犯さなくなったりと様々です。飛び跳ねたり、転げまわったり、泣き出したり、意識が無くなる人もいます。その様な特別な体験をするとき、それは聖霊のバプテスマだと教えます。そして聖霊のバプテスマは霊的なクリスチャンになる大切な通過点だと言い、繰り返し経験することが出来ると教えます。

 では聖書が教える聖霊のバプテスマとはどういうものでしょう?
バプテスマという言葉は本来、「浸す,浸かる」ことをあらわす言葉です。従って聖霊のバプテスマは、私達が聖霊に浸かることを表します。それは聖霊が私たちの内側に入ってきてくださることにより実現されます。つまり、聖霊が内住されることが聖霊のバプテスマです。

Tコリント 6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
ローマ8:9 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

 新約聖書は「キリストを信じた人には聖霊が内住する」とはっきり教えています。カリスマ派が言うように、聖霊のバプテスマによってクリスチャンが信仰成長するという教えは聖書にありません。

 使徒たちによって福音の扉が開かれていった後は、福音を信じた瞬間に人々に聖霊のバプテスマが与えられました。そして聖霊のバプテスマを受けた後にバプテスマが繰り返されることはありません。聖霊は私達に対する救いの証印であり、聖霊に満たされることはあっても、聖霊が取り去られたり、再び与えられたりすることはありません。

 私達が信仰成長するために必要なことは聖霊のバプテスマではありません。御霊に満たされることです。

エペソ 5:18 また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。
 そして、御霊に満たされた生活のためには、御言葉の学びが必要不可欠です。
コロサイ 3:16 キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。

 カリスマ運動は、落ち着いた信仰生活から遠ざかり、コリント教会の人たちにように、特別なしるしや、特別な経験、特別な啓示を求める信仰に人々を陥れてしまいます。そのため彼らは常に不思議な体験を探し求めています。
 使徒パウロはその書簡の中で、イエス様がすぐに帰って来ると信じた人たちに次のように書き送っています。

Tテサロニケ4:11 また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。
 また使徒ペテロは次のように教えています。
Uペテロ1:5-8 こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。
 信仰の成長は、日々の御言葉と祈り、そして忍耐と従順によって育てられるものです。そこに近道はありません。

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