心に響く聖書の言葉

3.ディスペンセーションの特徴


@文字通りの解釈

 ディスペンセーションの特徴はなんといっても文字通りの解釈を聖書全体にわたって用いるということです。文字通りの解釈を続けていけばディスペンセーション主義になると言ってもよいでしょう。記された御言葉の霊的解釈や比喩的解釈が聖書の中で示されていない限りは文字どおりに解釈するのです。例を挙げて説明したいと思います。

 A.マタイ25章31〜41節
25:31 人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。
25:32 そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、
25:33 羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
(34~40節省略)
25:41それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。
 文字通りの解釈をするなら、この箇所は主イエスが再臨されるときに行われる諸国民のさばきです。羊とされた人々は御国を継ぎ、山羊とされた人々は永遠の火に入ります。霊的解釈をする人たちは、「永遠の火」は警告(もしくは一時的な苦しみ)を意味しているだけで、永遠の地獄は無いと教えます。

 B.黙示録7章4節
それから私が、印を押された人々の数を聞くと、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、十四万四千人であった。
 この節の解釈は、文字通りに受け取るならイスラエル人の144000人です。しかし霊的解釈を用いるなら、「この人々は霊的イスラエルでありイスラエル人とは限らない」という解釈になります。「144000人」という数も象徴として受け取るなら、その人数はいくらでもよいことになります。
 
 C.エレミヤ書31章31-34節
31:31 見よ。その日が来る。──【主】の御告げ──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
31:32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。──【主】の御告げ──
31:33 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──【主】の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
31:34 そのようにして、人々はもはや、『【主】を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。──【主】の御告げ──わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」

 ここではイスラエルとの新しい契約が預言されています。神学者の多くは、この聖書箇所の預言は教会において成就したと解釈します。しかし文字通りの解釈をするなら、この契約はあくまでイスラエルとの契約ですから、イスラエルが回心していない現状では成就したと言うことが出来ません。文字通りの解釈に従えば、この預言の完全な成就はまだ起こっておらず、その成就は将来(千年王国)においてです。現在の教会時代においても救われるイスラエル人がいて彼らの罪は完全に赦されているのですから、一部分は成就したと言えるのですが、それは将来における完全な成就のひな型と見るのです。聖書の預言は50パーセントの部分が成就していても、残りの50パーセントの預言が成就していないなら、「預言は成就した」とは言えません。

 このように文字通りの解釈と霊的解釈では受け取り方が異なり、特に預言の解釈においてはっきりとした違いが生じます。次の黙示録の預言に注目しましょう。

 D.黙示録20章1〜4節
黙示録20:1 また私は、御使いが底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から下って来るのを見た。
20:2 彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕らえ、これを千年の間縛って、
20:3 底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。
20:4 また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行う権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。


 この箇所にはキリストが統治する千年王国の時代が預言されていますが、その解釈は大きく分かれています。文字どおりに解釈する人は、将来、千年間のイエス・キリストが支配する王国が誕生すると信じます。しかし、霊的解釈をする人たちは、それはクリスチャンの心の中に起こる霊的王国のことであり、その祝福を表現したものであると解釈したり、あるいは、今の教会時代のことを指していて、すでに二千年が経っているけれども今が千年王国なのだ、という解釈となります。つまり、この千年の期間を文字通りに解釈するか、しないかによって、前千年王国論者か、無千年王国論者、あるいは後千年王国論者に分かれるのです。

 ディスペンセーションが霊的解釈を否定し、文字通りの解釈にこだわるのには理由があります。それは聖書全体を通して霊的解釈をしていくなら、どのような解釈でも成り立ってしまうからです。なぜなら、霊的な解釈は、「自分の霊的な思いの中で浮かんだ関連する出来事を解釈に結び付けようとする」からです。そうすると、三人が霊的解釈するとき、三人とも異なる解釈になることがありえるのです。それを認めてしまうなら自由神学という領域に入ってしまい、ますます聖書の解釈は混沌となってしまいます。

 このようにディスペンセーションは聖書全体にわたり文字通りの解釈をします。ただし、「文字通りの解釈」について誤解してほしくありません。先に書いたように聖書が霊的解釈や比喩的解釈を認めている場合には、当然、文字通りの解釈を適応しません。また、次の前提条件も重要です。

a.原語についての学び:聖書はヘブル語、ギリシャ語、アラム語で書かれていますから、その原語の意味や、文法、当時における使い方などを考慮します。よく言われることですが、マタ 19:24で、「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」とイエス様が話されたときに、その「針の穴」は当時のエルサレムに「針の穴」という狭い門があって、そのことをイエス様は言われたのだろうとする考え方があります。「針の穴」という門が実際に存在していたのかどうかわかりませんが、もしそうならこの御言葉の受け取り方は大きく変わることになります。
 また、「十字架」はギリシャ語で「スタウロス」ですが、本来は「木」を意味します。しかし、当時のローマ帝国で行なわれていた処刑法は十字架に組んだ木であったので、「十字架」と翻訳されるようになりました。

b.文脈、前後関係の理解:聖書の御言葉を解釈するとき、文脈を把握することはとても重要です。文章の前後関係を無視して一節だけを取り上げて解釈するなら、聖書が言おうとしていることを汲み取れなくなってしまいます。たとえばよく知られた次の御言葉です。
使徒 16:31 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言った。
 文字通りに解釈すれば、「私が主イエスを信じるなら、私の家族も必ず救われる」ことになります。しかし、パウロの主張は違います。この節の前節を読むなら、救いを求めた看守がパウロとシラスに向かって質問しています。「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか?」ーー質問の中心は「何をすれば救われるのか?」という事です。それに対する答えが「主イエスを信じなさい」です。つまり、「あなたもあなたの家族も主イエスを信じるなら救われるのです」とパウロは答えているのです。このように文脈や前後関係をしっかり把握しなければ、文字通りの解釈は的外れの方向に向かってしまいます。

Aイスラエルと教会の区別

 ディスペンセーションの特徴の第二番目はイスラエルと教会を区別することです。このことも文字通りの解釈を行なっていくときに必ず理解されていくことです。
 「旧約聖書を新約聖書の光に照らして解釈する」ということがしばしば語られます。それは確かに大切な聖書解釈の原則です。しかし、問題は新約の教えを旧約聖書に読み込みすぎることです。すなわち、新約聖書で教えられている教会こそ神様の最終目的であるはずという視点に立って旧約聖書の預言をすべて解釈するのです。そのためイスラエルについて語られている預言の多くを、教会がすべて成就したという解釈に陥ってしまいます。神様の御計画のすべてを教会中心、つまり教会の救いと祝福のための御計画だったとし、イスラエルと教会の区別に失敗しています。このことを御言葉の例を挙げて説明します。

 A.エゼキエル36:24〜28
36:24 わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。
36:25 わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、
36:26 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。
36:27 わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。
36:28 あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。

 この聖書箇所を読むときに新約聖書の中のペンテコステの記事を多くの人は思い起こすでしょう。「新しい心、新しい霊」はまさに聖霊が内住される事であり、この預言は教会において完全に成就したと解釈しがちです。しかしそのように解釈するなら28節の「先祖に与えた地に住みーー」をどう解釈したらよいのか問題が残ります。「先祖に与えた地」とは「カナンの地・パレスチナ」ですから、異邦人クリスチャンにとっては全く関係がありません。「天国」だと解釈するのでは、あまりにも飛躍のしすぎです。したがって唯一納得できる解釈は文字通りの解釈です。この約束は文字通りイスラエルに向けて語られており、まだ実現していない預言だと受け取ります。「将来、イスラエルは主の民として回復し、イスラエルの地に再び住むようになる」と解釈します。つまり、この聖書箇所はイスラエルについての預言であり、教会に対しての預言ではないということです。ペンテコステ(聖霊降臨)の時にはこの預言の一部が成就しましたが、それは後にイスラエルに起こる完全成就のひな型である、と解釈するのです。

 B.エゼキエル18章30〜32節
同じエゼキエル書の18章には次の御言葉があります。
18:30 それゆえ、イスラエルの家よ、わたしはあなたがたをそれぞれその態度にしたがってさばく。──神である主の御告げ──悔い改めて、あなたがたのすべてのそむきの罪を振り捨てよ。不義に引き込まれることがないようにせよ。
18:31 あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして、新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。
18:32 わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。──神である主の御告げ──だから、悔い改めて、生きよ。

 新しい心と新しい霊を得るためにはイスラエルの家の悔い改めが必須条件となっています。父なる神が選ばれ愛されているイスラエル民族に対する熱心がこの御言葉に感じられます。従って預言が教会について語られたのではないのは明らかです。

 C.エゼキエル37章14節
 また、エゼキエル37章ではイスラエルの人々の骨が呼び集められ、生き返るという預言が記されています。
37:14 わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。わたしは、あなたがたをあなたがたの地に住みつかせる。このとき、あなたがたは、【主】であるわたしがこれを語り、これを成し遂げたことを知ろう。──【主】の御告げ──」
 これらの預言はどう考えてもイスラエルについて語られている預言であり、教会に対する預言ではありません。

 これらの考察からわかるように、ディスペンセーションは文字通りの解釈をしていくので、イスラエルと教会をはっきり区別します。多くの神学者が「教会は霊的イスラエルである」と主張しますが、ディスペンセーションはそれを否定します。教会は信仰によって「霊的なアブラハムの子孫」(ガラテヤ3章7節)ですが、「霊的イスラエル」ではありません。

 教会が「霊的イスラエル」だと信じる人たちの考え方は次の聖書箇所から来ています。
ガラテヤ 6:16 どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。
 しかしこれは誤訳であって、本来は「どうか、この基準に従って進む人々、そして神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。」と訳されるべき個所です。英語の訳ではほとんどがこのように教会とイスラエルを区別して訳されているのですが、どういうわけか日本語訳の聖書ではほとんどが新改訳のように訳されています。そこには教会=霊的イスラエル、という解釈が先行しているためでしょう。文法的なことを詳しく述べるなら、ギリシャ語では「カイ」という語が用いられていて、普通通り接続詞として取るなら「そして」、説明的にとるなら「すなわち」、強調ととるなら「そして特に」という訳が可能です。ですから原語でも文法的な解決を見ることはできませんが、前後関係と聖書全体の主張を考えるなら、接続詞、または強調と捉えるべきでしょう。なぜなら「教会」を「イスラエル」と呼んでいる聖書個所は他に一つもありません。

 イスラエルと教会の区別に関して言うなら、イエス様が「わたしの血による新しい契約」と言われたときに、それは事実上イスラエルと結ばれた契約です。というのは、「新しい契約」という時に「古い契約」が前提条件となるはずです。神様は異邦人と古い契約を結ばれたことは一度もありません。イエス様が新しい契約について話されたのは最後の晩餐の席でした。その時にいたのはあの12人の弟子たちでした。彼らはみなユダヤ人です。12はイスラエル部族の数でイスラエルを表します。このことから新しい契約もイスラエルの民と結ばれたことがわかります。そして12弟子のうち、ユダがイエス様を裏切り脱落したため、新たに加えられたマッテヤもユダヤ人でした。そして彼らは教会時代においてイスラエルのための使徒として働いたのです。パウロはその12人の使徒の中に入ることができませんでした。それでパウロは「異邦人のための使徒」という別くくりの使徒となったのです。
ガラテヤ2:8 ペテロにみわざをなして、割礼を受けた者への使徒となさった方が、私にもみわざをなして、異邦人への使徒としてくださったのです。
2:9 そして、私に与えられたこの恵みを認め、柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネが、私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し伸べました。それは、私たちが異邦人のところへ行き、彼らが割礼を受けた人々のところへ行くためです。


 ですから、教会時代においてもイスラエルと教会(異邦人)の区別がされていることがわかります。次の12弟子に語られたイエス様のことばを参照してください。
マタイ19:28 そこで、イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。

 では、異邦人の教会にとって新しい契約は全く意味がないのでしょうか?「イエス様の血による新しい契約」を記念して聖餐式を持つことは意味がないのでしょうか?ーーそうではありません。教会もこのイスラエルと結ばれた新しい契約の中に加えられているからです。次の御言葉はそのことを示唆しています。
エペソ 3:6 その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。
ローマ15:9 また異邦人も、あわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。こう書かれているとおりです。「それゆえ、私は異邦人の中で、あなたをほめたたえ、あなたの御名をほめ歌おう。」
15:10 また、こうも言われています。「異邦人よ。主の民とともに喜べ。」

 これらの御言葉からわかるように、異邦人は新しい契約の中に加えていただいたという立場です。それまでの古い契約に関してはまったく蚊帳の外であった異邦人が、その蚊帳を取り去られて、神様がイスラエルと結ばれた新しい契約の中に加えられたのです。このことは奥義であり、恵みなのです。ローマ人への手紙では、異邦人は接木された野生種のオリーブとして譬えられています。そこではイスラエルに対する神様の御計画と、異邦人(教会)に対する神様の御計画の違いについて詳しくパウロが教えていますので、取り上げたいと思います。
 D.ローマ11章17〜31節
11:17 もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、
11:18 あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。
11:19 枝が折られたのは、私がつぎ合わされるためだ、とあなたは言うでしょう。
11:20 そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。
11:21 もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。
11:22 見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。
11:23 彼らであっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです。
11:24 もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につがれたのであれば、これらの栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につがれるはずです。
11:25 兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、
11:26 こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。
11:27 これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」
11:28 彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、父祖たちのゆえに、愛されている者なのです。
11:29 神の賜物と召命とは変わることがありません。
11:30 ちょうどあなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は、彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、
11:31 彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。

 この聖書箇所で分かることは、神様は決してイスラエルを捨てられたのではなく、将来もう一度彼らを継ぎなおされるということです。これは先ほど参照したエゼキエル書の預言とも一致します。そして異邦人教会に対して語られていることは、本来イスラエルに与えられるべき恩恵を異邦人が受けているのだから、イスラエルに対して高ぶらないようにと警告されています。ここでも神様の御計画の中心はイスラエルなのです。29節の「神の賜物と召命とは変わることがありません」という言葉はイスラエルに与えられた賜物と召命の事を指し示しながら語られた言葉なのです。つまり、新約の教会時代にあっても、イスラエルと異邦人(教会)は区別されていることを理解することは聖書解釈の上で重要な点であると言えます。

 ディスペンセーションの特徴は「文字通りの解釈」と「イスラエルと教会の区別」です。この事を聖書全体に適応していくとき、新約聖書のなかでイエス様が教えられた山上の垂訓もまたイスラエル民族に語られた教えである事がわかります。
次へ   神様のディスペンセーションTOPへ