心に響く聖書の言葉

九章 永遠の住まい




 聖書には数多くの預言があり、すでに成就した預言と、これから起こるはずの預言に分けることが出来ます。そして神様が私たちに示してくださった将来に起こる出来事の最終章は、新しい天と新しい地です。

1.新しい天と新しい地


 聖書中、新しい天と新しい地について預言されているのは次の四箇所です。

イザヤ65章
65:17 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。先のことは思い出されず、心に上ることもない。
65:18 だから、わたしが創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。
65:19 わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこではもう、泣き声も叫び声も聞かれない。
65:20 そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命を全うしない老人もいない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。
65:21 彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。
65:22 彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者たちは、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。
65:23 彼らは無駄に労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。彼らは【主】に祝福された者の末裔であり、その子孫たちは彼らとともにいるからだ。
65:24 彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。
65:25 狼と子羊はともに草をはみ、獅子は牛のように藁を食べ、蛇はちりを食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼすこともない。──【主】は言われる。」

イザヤ66章
66:22 わたしが造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くのと同じように、──【主】のことば──あなたがたの子孫とあなたがたの名もいつまでも続く。
66:23 新月の祭りごとに、安息日ごとに、すべての肉なる者がわたしの前に来て礼拝する。──【主】は言われる──

Uペテロ3章
3:13 しかし私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。

黙示録21章
21:1 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
21:2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。
21:3 私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
21:4 神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」
21:5 すると、御座に座っておられる方が言われた。「見よ、わたしはすべてを新しくする。」また言われた。「書き記せ。これらのことばは真実であり、信頼できる。」

※この四箇所において議論されているのは、旧約聖書のイザヤの預言です。イザヤ65章20節以降の記述は千年王国の憧憬に似ているため、イザヤの預言は千年王国のことだと指摘されます。黙示録21:4では「もはや死はなく」とあり、イザヤ書の預言では人は長寿で死ぬとされており、明らかな違いがあるからです。ただし、黙示録が栄光の体を持つ人々について記し、イザヤは新しい地において生まれる人々の寿命を預言していると解釈するなら、問題は解決できます。


2.新エルサレム


 新天新地については黙示録21章、22章に詳しく記されていますが、新しい天についての記述はほとんどなく、新しい地について預言されています。その中で特に新しいエルサレムについて詳しく描写されています。



黙示録21:9 また、最後の七つの災害で満ちた、あの七つの鉢を持っていた七人の御使いの一人がやって来て、私に語りかけた。「ここに来なさい。あなたに子羊の妻である花嫁を見せましょう。」
21:10 そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のみもとから、天から降って来るのを見せた。
21:11 都には神の栄光があった。その輝きは最高の宝石に似ていて、透き通った碧玉のようであった。
21:12 都には、大きな高い城壁があり、十二の門があった。門の上には十二人の御使いがいた。また、名前が刻まれていたが、それはイスラエルの子らの十二部族の名前であった。
21:13 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
21:14 都の城壁には十二の土台石があり、それには、子羊の十二使徒の、十二の名が刻まれていた。
21:15 また、私に語りかけた御使いは、都とその門と城壁を測るために金の測り竿を持っていた。
21:16 都は四角形で、長さと幅は同じである。御使いが都をその竿で測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。
21:17 また城壁を測ると、百四十四ペキスあった。これは人間の尺度であるが、御使いの尺度も同じであった。
21:18 都の城壁は碧玉で造られ、都は透き通ったガラスに似た純金でできていた。
21:19 都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイア、第三はめのう、第四はエメラルド、
21:20 第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九はトパーズ、第十はひすい、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。
21:21 十二の門は十二の真珠であり、どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは純金で、透明なガラスのようであった。
21:22 私は、この都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである。
21:23 都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。
21:24 諸国の民は都の光によって歩み、地の王たちは自分たちの栄光を都に携えて来る。
21:25 都の門は一日中、決して閉じられない。そこには夜がないからである。
21:26 こうして人々は、諸国の民の栄光と誉れを都に携えて来ることになる。
21:27 しかし、すべての汚れたもの、また忌まわしいことや偽りを行う者は、決して都に入れない。入ることができるのは、子羊のいのちの書に記されている者たちだけである。

22:1 御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、
22:2 都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。
22:3 もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、
22:4 御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名が記されている。
22:5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める。

@新エルサレムの造り
 都の大きさは縦も横も高さも一万二千スタディオン(約2220km)で、箱型と考えるなら日本列島がすっぽり入るサイズです。それは父なる神様がアブラハムに約束された領土のフルサイズだと思われます。

創世記 15:18 その日、【主】はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。エジプトの川から、あの大河ユーフラテス川まで。

 川が流れているところから察するなら、都の形は立方形でなくピラミッド形の可能性が高いでしょう。また、「都は透き通ったガラスに似た純金でできていた」とあり、現世の物とは違う、はるかに美しく豪華な純金製です。そして何より「都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである」と、父なる神と主イエス・キリストが共に住まれ、その栄光が満ちている場所なのです。キリスト者にとってこれほど心躍る場所は他にありません。

A都に住む人々
 21章9節では、「ここに来なさい。あなたに子羊の妻である花嫁を見せましょう。」と言われ、新しいエルサレムが紹介されています。つまり、都自体が「花嫁となった教会」であるようなイメージを受けます。しかし、十二の門にはイスラエル十二部族の名が書かれ、城壁の十二の土台石には十二使徒の名が刻まれてあるということは、教会だけでなく、旧約の聖徒たち等も都に存在すると考えられます。教会は都の中心にキリストと共に住むことになるのでしょう。

 21章27節では、「すべての汚れたもの、また忌まわしいことや偽りを行う者は、決して都に入れない」とされ、新しい地においても罪人が存在すると思われます。また、22章2節では「その木の葉は諸国の民を癒やした」とあるので、病気も存在する様です。22章でも同じ内容の預言があります。

22:14 自分の衣を洗う者たちは幸いである。彼らはいのちの木の実を食べる特権が与えられ、門を通って都に入れるようになる。
22:15 犬ども、魔術を行う者、淫らなことを行う者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は、外にとどめられる。

 したがって字義通りに解釈するなら、21章4節の「もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。」は、都に住む人々に対して語られていて、都の外に住む人々には病気があり、寿命があると考えられます。都の外の人々にとって新エルサレムは、完全な聖所として存在し、その都へ人々は礼拝に集うようになるのです。都を一歩出るなら、それは今の世界と同じような国々があり、犯罪があり、人々の生活があるようです。



3.新しい創造


 旧約聖書には、安息日、安息年の規定がありましたが、それとは別にヨベルの年という規定がありました。

レビ 25:10 あなたがたは五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰る。

 七年目の安息年を七回巡った後の五十年目がヨベルの年になります。ヨベルの年には安息年の規定に加え、所有地の返還が定められています。(レビ記25章参照) 所有地を不幸にも失った人にはその所有地が返還されます。安息年とヨベルの年の基本概念は、人も土地も本来は神様の所有であり、人はそのいのちと土地を神様から頂いて所有しているのです。ヨベルの年はそのすべてを原状に回復するという意味があります。

 しかし、イスラエル史を見ていく時に、このヨベルの年が守られたという記事は一度もなく、この規定はかなりなおざりにされていたと思われます。それゆえ現在のイスラエルでもヨベルの年の実行はされていません。神様はご自身で規定されたヨベルの年を、新天新地において完全に実現されるのです。したがって新エルサレムは「エデンの園」の回復と言えるでしょう。(22章2節はエデンの園を彷彿させます)

※教会がペンテコステの日(五旬節)に始まったことはとても意義深いことです。五旬節は過越の祭りの五十日目に行われ、新しい収穫を祝う刈り入れの祭りでもありました。教会は選民イスラエルとは別に、神に受け入れられる新しい契約による新しい民として立てられたと言えます。(ガラテヤ6;15参照)

 新天新地は、現在の人たちのために備えられた楽園という側面がありますが、これは神様の新しい創造であり、新しい世界の始まりです。つまり新しい歴史が始まり、新しい人々が住むのです。

 私たちが住むこの世界は六日間の創造によって始まりました。しかしそれ以前にもう一つの歴史があったことを聖書は教えています。それは御使いの創造です。地球の歴史以前に、御使いが創造され、一部の御使いたちの堕落により悪魔と悪霊が誕生したという歴史がありました。したがって新天新地は父なる神様の第三の創造の始まりだと言えるでしょう。

 現在、御使いには信仰者に仕えるという使命が与えられています。御使いには千年王国においても使命が与えられています。救われた人間は将来、御使いのようになると聖書は教えているので、千年王国においても新天新地においても、御使いと同じように使命が与えられるでしょう。キリスト者は主イエス・キリストの花嫁として特別な立場でその栄光の中に住むようになります。私たちはこの祝福と特権を、ただ福音を信じることにより与えられました。主イエスの十字架の贖いに心から感謝いたします。



 「聖書が預言する将来」の学びを終えるにあたり

 聖書の預言は神様の存在を証明するだけでなく、信仰者にとって喜びと希望を与えるものだとあらためて教えられました。聖書自体、私たちに次の目標を達成していく様に勧めています。

Uペテロ3:14 ですから、愛する者たち。これらのことを待ち望んでいるのなら、しみも傷もない者として平安のうちに神に見出していただけるように努力しなさい。

Tテサロニケ4:18 ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。

テトス 2:13 祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。

 預言の学びによって知識を増やすだけならもったいないことです。それを神様のことばとして聞き、信じ、待ち望むようになるなら、信仰が生きて働くのです。

 この預言の学びに最後まで目を通してくださり、ありがとうございました。
次の聖書のことばを最後に掲げたいと思います。


これらのことを証しする方が言われる。

「しかり、わたしはすぐに来る。」

アーメン。主イエスよ、来てください。

主イエスの恵みが、

すべての者とともにありますように。

       黙示録20章20−21節


聖書が預言する将来