心に響く聖書の言葉

「死後のセカンドチャンス」への反論


「死後のセカンドチャンス」と言う教義が多くの方々によって叫ばれています。
福音を信じないまま死んだ人にも死後、陰府(ハデス)において福音を聞いて悔い改め、救われる機会がある、という教えです。私は主張の根拠となっている聖書箇所(おもに8つ)があまりにも曲解されていると感じましたので、ここに反論をまとめておきたいと思います。単なる批判としてではなく、私自身のため、そして聖書をさらに理解したいと願う人々のために、真理が明らかにされるための反論ですので、聖書解釈の参考にしていただければ幸いです。

※セカンド・チャンスを教えているページへのリンクを一番下に載せてあります。※

第一の聖句:死者にも恵みを惜しまれない神
「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれない主」(ルツ記2章20節)


 セカンド・チャンスを提唱するかたが最初にこの言葉を持ってくるだけに、この聖書の言葉は厄介です。「生きている者に恵みを施される」というのは誰にでも理解できます。ただ、「死んだ者にも恵みを惜しまれない」とはどういうことでしょう?
 確かにこの言葉は死んだ者にも神様が憐れみをかけてくださるように受け取れます。しかし、このルツ記2章を読んでいくときに、ナオミは神様のご計画の深さ、その驚くべき導きを感謝してこういっています。彼女が表したい気持ちは『神様の導きはなんとすばらしいのでしょう。なんと神様は私たちに恵み深い方でしょう』です。神を敬わずして死んだ人々に祝福があるとは言っていません。旧約聖書および新約聖書の一貫した教えは、罪びととして死んでしまった人に神の恵みや救いがあるという考えはありません。かえって悪人を呪う言葉を人々は口にしています。

Tサム2: 9主は聖徒たちの足を守られます。悪者どもは、やみの中に滅びうせます。・・・
T列8: 32あなたご自身が天でこれを聞き、あなたのしもべたちにさばきを行なって、悪者にはその生き方への報いとして、その頭上に悪を下し、正しい者にはその正しさにしたがって義を報いてください。
詩1: 5それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに立てない。
詩9: 5あなたは国々をお叱りになり、悪者を滅ぼし、彼らの名を、とこしえに、消し去られました。


 このような言葉は聖書を検索するなら至る所に出てきます。神を信じないまま死んでしまった人々に対して、神の恵みがあるという考えは聖書にはまったくありません。それどころか旧約の聖徒たちも、イエス様も、弟子たちもみな厳しい言葉を連ねているのを見るでしょう。イエス様はマタイ23章で律法学者たち、パリサイ人たちに対して激しい言葉を語っています。ぜひ23章すべて読んでいただきたいのですが、ここではその33節だけ書いておきます。

マタイ23:33おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。

従ってナオミの考えの中には「信仰を持って死んだ人々のこと」しかないと思われます。


 レムナント主筆の久保先生は「わたし(神)を愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す」(出エ20:6)と言うことばを「千代」には、単に子孫だけでなく、先祖も入っていると考えています。その理由として「主は、ただあなたの先祖たちを恋い慕って、彼らを愛された。そのため彼らの後の子孫、あなたがたを、すべての国々の民のうちから選ばれた」(申命10:15)と言う聖句を引用します。

 しかし、ここでもその先祖とはアブラハムを通して神が祝福された先祖のことを言っています。アブラハム、イサク、ヤコブを神様は愛され祝福されました。千代に及ぶ祝福を約束されました。従って彼らのゆえにイスラエルを選び、人々を祝福しようとしておられるのです。ですから申命記10章15節の言葉は、すべての民族に適応できる言葉ではありません。旧約聖書では、イスラエル選民と異邦人に対する区別ははっきりしていますので、これを混同して解釈するとおかしな解釈になってしまいます。

 先祖も救われてほしいという願いは誰でも持ちたい感情です。自分の愛する家族が救われないまま死んだときに、セカンド・チャンスがあると考えたほうが慰めになるでしょう。しかしその感情に従って聖書解釈をすることは危険なことです。バルトをはじめとした自由神学者たちの聖書解釈のわなに陥ることになります。


第二の聖句:思い直す神
 「わたし(神)がわざわいを予告した民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す」(エレ18:8)

 神様はたしかに「思い直される神様」です。「たとえ、わざわいを予告され、滅びを宣告された者であっても、悔い改めるなら、神は思い直してくださる」・・・そのとおりです。

ヨエ2:13あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ。

 しかし、神が思い直されるのには条件があります。それは悔い改めて主に立ち返ることです。そしてすべての箇所で語られているのは、そのときに生きている人たちに対して語られています。死んでしまった人々に対して悔い改めなさいと言う言葉はありません。私たちの神様は『思いなおされる神』ですが、悔い改めない者に対しては『思い直されない神』なのです。次の聖書箇所は的を得ているでしょう。

エゼ24: 14主であるわたしは言った。それは必ず起こる。わたしはそれを行なって、なおざりにせず、惜しまず、思い直しもしない。あなたの行ないや、わざにしたがって、あなたをさばく。――神である主の御告げ。――」

 セカンドチャンスがあると考える人たちは、ヨブの言葉も引用してセカンド・チャンスを示します。
ヨブ14:13 どうぞ、わたしを陰府にかくし、あなたの怒りのやむまで、潜ませ、わたしのために時を定めて、わたしを覚えてください。
14:14 人がもし死ねば、また生きるでしょうか。わたしはわが服役の諸日の間、わが解放の来るまで待つでしょう。
14:15 あなたがお呼びになるとき、わたしは答えるでしょう。あなたはみ手のわざを顧みられるでしょう。
14:16 その時あなたはわたしの歩みを数え、わたしの罪を見のがされるでしょう。
14:17 わたしのとがは袋の中に封じられ、あなたはわたしの罪を塗りかくされるでしょう。 (口語訳)


 この章を注意深く読むときに、ヨブがかなり自虐的に言葉を重ねています。全能者なる神に対するわずかな反抗と、自分の罪の対する嘆きです。自分は陰府に捨て置かれて当然の者であるという気持ちを込めて語っています。ですからすべてのヨブの言葉を文字通りに真理の言葉として受け取れません。ヨブ記全体を通してこのことは誰もが認めることです。この箇所でのヨブの心境は、イエス様とともに十字架にかけられたあの強盗と同じです。

ルカ  23: 42「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」

彼は自分の罪が赦されるとは思わなかったでしょう。ただイエスさまに頼るしかなく、「思い出してください」と語ったのです。ヨブの言葉と似ているのではないでしょうか。ルカの福音書を続けて読むなら、イエス様は、その強盗に言われました。
「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と悔い改めた強盗に永遠のいのちを約束されました。しかし悔い改めるどころか、ののしり続けた左の強盗には一言も語られませんでした。もしセカンド・チャンスがあるとしたら何か一言あってもよいのではないでしょうか。


第三の聖句:死人が神の声を聞き、生きる
 「死人が神の子(キリスト)の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます」(ヨハネの福音書5章25、28節)

 この箇所からセカンド・チャンスは生まれません。聖書の解釈は前後関係を無視して言葉をとらえてはいけません。24節では「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」

 ここでは永遠の命を受ける方法について書かれています。「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち」と語られています。信仰を持っていない人々の状態は『死』の状態であると語られています。信じる者だけが命に移るのです。そして信じない者はさばかれるのです。その言葉を受けて25節で「死人がキリストの声を聞くときは今です」と語られています。ここでの「死人」とは明らかに、霊的に死んだ人々のことであって、すでに肉体的に死んだ人々のことではありません。

そして将来、行なわれるさばきのことについてさらにイエス様は説明を加えておられます。

5:27 また、父はさばきを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです。
5:28 このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。


ここでの『子の声を聞いて出て来る時』は明らかに将来の御座のさばきについてです。そのさばきはどのように行われるでしょう?続けて語られた御言葉の通りです。
5:29 善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。

 ここでも善を行なった者はいのちを受け、悪を行なった者はさばかれると、断言されています。その行ないは生きている間の行ないであって、死んだ後の行ないではない事はいうまでもありません。なぜなら死後の行ないや悔い改めという説明は何もないからです。


第四の聖句:キリストの陰府での福音宣教
 「キリストも一度罪のために死なれました。 その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行って、みことばを宣べられたのです。昔ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、それはその人々が肉体においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした。」ペテロの第一の手紙3章18節〜4章6節)

 第一ペテロの聖句からセカンド・チャンスが説明されています。
「ここで語られていることは、読んで字のごとく、死後、陰府に下られたキリストが、死者に福音宣教をなさった、ということ」であると説明がなされます。もしそうなら私の頭の中には疑問符???がいっぱい浮かんできます。イエス様がハデスに福音宣教のために行ったのに、なぜノアの時代の人たちしかいないのでしょう? 宣教が十字架で死なれた後の三日間だとすると、そのときにはノアの時代だけでなく、ダビデの時代の人々、イザヤの時代の人々・・・たくさんいるはずです。また、宣教の期間はたったの三日間だけなら短すぎるではないでしょうか?・・・・そのような疑問の解決方法は、イエス様が霊において宣教されたのは十字架後の三日間ではなく、ノアの時代であったと考えるほうが自然であると思います。受肉前のキリストがノアの時代に霊において福音宣教へ行かれ、その結果、8人が救われたと解釈したほうがよいでしょう。旧約聖書には受肉以前のキリストが何度か出てきますから無理な解釈ではありません。

 ただ、4章6節の聖書箇所だけを取り上げるならセカンド・チャンスを提唱する人たちに分があるように思えます。
Tペテ 4:6 というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、それはその人々が肉体においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした。

 ただ、注意深く読んでほしいのです。「死んだ人にも福音が宣べ伝えられていた・・」と言うのはいつの時でしょう?死後でしょうか?・・いいえ、違います。彼らが生きているときのことです。なぜなら宣べ伝えられた結果として、彼らは肉体の死のさばきを受け、霊においては神によって生きるようになる、とあるからです。死後であるなら、すでに肉体は滅んでいるのですから、文章が成り立ちません。またここがセカンド・チャンスを教えている箇所であるなら、「死んだ人にも福音が宣べ伝えられます。」と現在形か、未来形で書かれるべきですが、読んでわかるとおり過去(完了形)のこととして書かれています。ですから、福音が宣べ伝えられたのは彼らが生きている間のことです。

※ノアの時代のすべての人が神に対する信仰を持っていなかったのでなく、信仰を持っていたが御言葉に対する不信仰のゆえに滅ぼされた人たちもいたと解釈できます。

※ひとつの言葉を、過去のことと取るか、未来のことと取るかでこれほど大きな教理の違いになるですから、聖書解釈は大変な作業です。


第五の聖句:福音は陰府の人々のためにも存在する
 「それはイエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです」(ピリピ人への手紙2章10〜11節)


 私はこの聖句がセカンド・チャンスの証明に使われているのが全くもって理解出来ません。「地の下」とは陰府のことと解釈しても問題はないでしょう。他にも考えられないわけではありませんが。後の考察を参考にしてください。

 私たちの信じている神は天地万物を創られ、すべての生けるものに命を与えられた神様です。その神様が、十字架を耐え忍ばれた御子イエス・キリストを高く上げて、すべての名にまさる名を与えられたのです。それはすべての被造物が彼と父なる神を褒め称えるためであるのは当然です。この聖句からセカンド・チャンスを説くとなると大変なことになります。ハデスに投げ込まれた人々も「すべての口が、イエス・キリストを主と告白して父なる神をほめたたえるようになる」・・つまり救われる、と考えるなら、さばかれて永遠の地獄であるゲヘナへ行く人は一人もいなくなるのです。つまり、すべての人々が救われるという救済論になってしまうのです。

「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません」(Tコリ12:3)という聖句から、ハデスの中にいる人でも『イエスは主である』と告白する人がいるなら救われるのではないかという考え方も出来るでしょう。しかし、ここでよく用いられるラザロの話を見ましょう。

ルカ16:19ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
16:20ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、
16:21金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。
16:22さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
16:23その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。
16:24 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』
16:25アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。
16:26そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』
16:27彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。
16:28私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
16:29しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』
16:30彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』
16:31アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」


 ここにはハデスに行った人の状況が明確に記されているので、必ず取り扱われる箇所です。ハデスの苦しみの場所へ行った金持ちの言葉を注意深く見ていただきたいのです。彼はアブラハムに対して、『父アブラハムさま』と叫んでいます。彼は生きている間、アブラハムを見たことはなく、どんな顔か知らなかったはずです。しかしハデスに落とされた後は、彼はアブラハムを理解しています。アブラハムには大きな権威があることも知っていて慈悲を願っています。つまり悪人として死んだ者も苦しみの場所では霊的な目が開かれて・・・というよりもすべてのことが理解出来ているのです。ハデスでは人々は完全な理解があるのです。アブラハムに乞い願うほどですから、もしそこにイエス・キリストがおられたなら、『自分の罪を嘆き、悔い改め、主と告白し、祈り願う』のは当然なことでしょう。

 もし私たちがこの金持ちの味わっているハデスの苦しみがいかに苦しいものであるか知るなら、どのような罪人であっても、この金持と同じように主の前に涙し、悔い改め、助けを乞うのではないでしょうか?この地上にいる間、人間は聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできませんが、死んだ後にはすべての人々がイエス・キリストのことを理解し、「主よ」というようになると考えたほうが聖書の記事とあっています。

またこのラザロのたとえは次のことも示します。

◎陰府(ハデス)は苦しみの場所と慰めの場所(パラダイス)に分かれている。そしてハデスとパラダイスには大きな淵があり、行き来することは絶対不可能である。

◎金持ちは苦しみの中にあり、悔い改めている。・・・彼が悔い改めているかどうかは30節の言葉から理解できるでしょう。

◎金持ちだった人の願い、とりなしの祈りに対してアブラハムの態度は全くもって冷たい態度である。水一滴の憐れみもない。その後、金持ちは二つのお願いをするが、それすら完全に拒否されている。このようなハデスで、セカンド・チャンスがあるとは考えられない。

また次の聖書箇所も同様のことを教えます。

マタイ25:31人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。
25:32そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け
25:33羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
25:34そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
25:35あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、
25:36わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
25:37すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
25:38いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。
25:39また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
25:40すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
25:41それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。
25:42おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、
25:43わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』
25:44 そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』
25:45すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』
25:46こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」


 この聖書箇所では、世の終わりのさばきについてイエス様が教えられました。さばかれて地獄へ行く者も、さばき主であるイエス様に対して「主よ。」と言っています。しかし、彼らに対してセカンド・チャンスがないのは明らかです。彼らは生きている間の行ないによってさばかれています。ハデスにおいて福音を聞く機会があったなどと一言も触れられていません。それでもセカンド・チャンスがあるというのでしょうか?


第六の聖句:陰府からの讃美礼拝
 「私(ヨハネ)は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。『御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように』」(ヨハネの黙示録5章13節)

 セカンド・チャンスを提唱するかたはこの箇所から、賛美するのは救われた信仰者であり、悪霊や、地獄行きの人間が神を讃美することはない。つまり地の下のハデスにいる罪人も悔い改めて救われる人々がいると理論付けます。これに対する反論の可能性は四つあります。

1.五番目の聖句と同様、すべての人は死後、霊界のことについてすべての理解を得るので、彼らが賛美の言葉を発したからといって彼らが救われたと断定出来ない。

2.陰府が「地の下」にあるとするなら患難期に殉教死する人々もそこにいるのだから、彼らの賛美と考えることも出来る。(ただパラダイスは上にあるという考えが他の聖書箇所にはあるので、あえて陰府のなかとするなら)

3.すべての死んだ人々を眠っている人々と考えるなら、そこにクリスチャンとして死んで眠っている人々もいるのだから彼らのこととも受け取れる。

4.地の下の被造物すべてのことを言っている。地の下に生きうごめいている生物、あるいは土や石やマグマも主を賛美する。このことは聖書の他の箇所でも教えられています。

イエス様の言葉では、
ルカ  19: 40イエスは答えて言われた。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」

パウロの言葉では
ローマ8:19被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。
8:20それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
8:21被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
8:22私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。




第七の聖句:陰府の人々の裁判に「いのちの書」
 「私(ヨハネ)は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死もハデス(陰府)も、その中にいる死者を出した。
 そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池(地獄=ゲヘナ)に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」(ヨハネの黙示録20章11〜15節)



 この聖書箇所の問題点は、白い御座のさばきの時に、いのちの書が提出されていることにあります。いのちの書が提出されていると言うことは、ハデスにいる人々の中に「回心者」がいると言うことだと説明されています。ただ彼らが忘れているのは千年王国時代にも人間は結婚をし、子供を産み、死に、陰府へ行くのです。信仰を持ったからと言って千年間ずっと生き続けるのではないのです。(第一のよみがえりにあずかった人々は別ですが)

イザヤ書65章には千年王国での状況が描かれています。
65:19わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。
65:20そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。
65:21彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。
65:22彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。
65:23彼らはむだに労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。彼らは主に祝福された者のすえであり、その子孫たちは彼らとともにいるからだ。
65:24彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。
65:25狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食べ、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、そこなわれることなく、滅ぼされることもない。」と主は仰せられる。


 ですから千年王国で生まれ、死んだ信仰者たちの名前は「いのちの書」に書いてあります。当然、命の書が開かれることになります。千年王国は主が支配される時代ですが、それでも人々は「主を信じることによって」救われるのです。と言うのも千年王国の終わりには縛られていたサタンが解き放たれます。そしてその誘惑に負け、サタンに従う人々が大勢になるからです。

黙示20:7しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、
20:8地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海べの砂のようである。
20:9彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。


 ですから、白き御座の裁きの時には、千年王国で救われる人々と救われない人々の両方がいるわけですから、当然、いのちの書が開かれることになります。


 陰府に回心者が一人もいないのなら、全員がはじめから地獄(ゲヘナ) へ行けばよいのではないか、陰府自体必要ないではないか、という疑問もあります。確かに私たちの合理的な考えではそうかもしれません。しかし、主のなさることは私たちにはすべて理解出来ないことは皆さん分かっておられると思います。神様が時を定めて白き御座のさばきを行なわれることは永遠の計画の中で定められています。もし反論されるなら、なぜ神様はサタンを千年王国のときに縛ったままにされないのか?なぜ信仰をもって死んだ人に対してすぐにキリストのさばきが行なわれないのかも答えなければなりません。神様は死んだ者たちをさばく「時」を定めておられるのです。


第八の聖句:死者にとっても「主」となるために
 「キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです」(ローマ14章9節)

 この御言葉も今まで述べてきた反論を理解していただけるなら、解決は簡単です。キリストはよみがえりによってすべてのものの上に立たれる、すべてのものの主として神によって高く上げられたお方です。死んだ人々にとっても彼は主であり、彼らもイエス・キリストに対して「主よ」と叫ぶのです。

次の聖書箇所はまさのそのことを表しています。
マタイ7:22その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
7:23しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』


 ただ、このローマ14章9節の御言葉は、キリストにあって死んだ人たちのことが前提として語られているふしがあります。14章7-8節には信仰者として死ぬことについて書いています。
14:7私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。
14:8もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。


その続きで書かれた言葉ですから、「死んだキリスト者」のことを言っている可能性のほうが大きいでしょう。

次の聖書箇所を読んでください。
ピリピ3:18 というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
3:19 彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。
3:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。


 パウロはここで十字架の敵として歩んでいる人々の最後は滅びであると宣言します。セカンド・チャンスの可能性はパウロの書簡には一つも出てきません。しかしイエス・キリストを信じて歩んでいる私たちの国籍は天にあると信じています。この信仰は正しいのです。

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以上、セカンドチャンス論に対する反論をまとめました。
以下のリンクは久保有政先生が書かれた「死後のセカンド・チャンス」論を掲載しているページです。
両方の意見を読まれて、読者のかたが判断してほしいと思います。
なお、この反論の文章は久保先生に読んでいただき、ホームページにて掲載の許可をいただいております。
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/seiseco.htm
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/secoch03.htm
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/yomema02.htm