心に響く聖書の言葉

聖書的シンプルライフ第三章


第 三 章  要らない物を捨てる



箴言15:16-17 わずかな物を持っていて【主】を恐れるのは、多くの財宝を持っていて恐慌があるのにまさる。野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。

 一般的なシンプルライフに欠かせない事は、要らない物を捨てることです。かつて断捨離(だんしゃり)と言う言葉が流行しましたが覚えておられるでしょうか?ヨガの「断行(だんぎょう)」、「捨行(しゃぎょう)」、「離行(りぎょう)」という考え方を応用して、日常生活に不要な物を断つ、また捨てることで、物への執着から解放され、身軽で快適な人生を手に入れようとする考え方です。ですから断捨離は単なる片づけではありません。詳しく説明すると、 断=入ってくる要らない物を断つ。 捨=家にずっとある要らない物を捨てる。 離=物への執着から離れる。・・・考えると、これらは聖書の教えに通じるところがあります。聖書では目に見える「物」ではなく、間違った「考え方、生き方」を断捨離しなさいと教えています。


ピリピ人への手紙3:4-8 ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

 この箇所にはパウロのかつての誇りについて書いてあります。彼は自分の生まれた家柄や受けた教育、自分の宗教に対する熱心さなどを誇っていました。しかし、「それらは今では損と思っている。それらを捨てている。ちりあくたと思っている。」と語ります。つまりクリスチャンとなり、真理を知った今は、かつての間違った生き方、考え方を捨てて、それから離れているというのです。


ピリピ人への手紙3:13-15 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。

 「この一事に励んでいます」「一心に」と言う言葉が重要です。第一章で学びましたが「神にも仕え、富にも仕え」たり、あれもこれもしようとすると疲れますし、複雑な生活になります。それは二つの心を持っている事と同じです。神の栄冠とこの世の栄冠の両方を求める生き方です。二兎を追う者は一兎も得ず、と言われるように、二つを追いかける生き方は、結局は何事もなしえません。どちらをあなたは追い求めますか?神の栄冠ですか?世の栄冠ですか?・・聖書の正しい答えはもちろん神の栄冠です。不思議なことに神様の栄冠を求めて生きるときに、この世の栄冠も与えられる人がいます。黒人差別廃絶のために尽くしたキング牧師や炎のランナーの主人公、エリック・リデル選手、三浦綾子さんや星野富弘さんなど、多くのクリスチャンの方々が神の栄冠を求めて生きていて、その上で世の栄冠も与えられています。しかし、その反対はありません。世の栄冠を求めて生きて神の栄冠を受けることは決してありません。クリスチャンは神様によって生まれ変わったのですから、神様が与えてくださる栄冠を求めて生きることを選びましょう。一つの目標で、一つの心で十分です。あれもこれも求めるなら疲れるうえ、失敗は目に見えているのですから。


 聖書的シンプルライフの基本も、要らないものは捨てることです。取っておいても役に立ちません。かえって身動きが取れなくなってしまいます。キリストにある信仰生活はシンプルです。要らない物を取っておくと誘惑されます。要らない物を持ってくると混乱します。要らない考え方、要らない生き方、要らない目標、要らない思想、など、捨て去ってしまいましょう。そして一心に神の栄冠のために走り続けましょう。


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