心に響く聖書の言葉

十戒・第四戒     礼拝音声ファイル


出エジプト記20章8-11節
「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」

 モーセの十戒の第1戒は礼拝の対象者を教え、第2戒は礼拝方法を教え、第3戒は礼拝する態度を教えています。そして第4戒は、礼拝する日を定めることにより、私たちの行動、生活の仕方、生き方を規定しています。

1.安息日規定の意味

20:8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
20:9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
20:10 しかし七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。──あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も──
20:11 それは【主】が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、【主】は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。


 第4戒は「六日間は仕事をしなければならない。」と規定し、「仕事をしてもよい」ではありません。この戒めは特に男性に対して命じられており、労働は創世記の中でアダムが罪を犯したことに対して男性に課せられたさばきでした。男は汗を流して労働をしなければならないのです。ですから男性が仕事に就いて働くことは神の御心であり、怠惰な生活、安眠をむさぼる生活をしてはならないと戒めています。
Uテサロニケ 3:10 私たちは、あなたがたのところにいたときにも、働きたくない者は食べるなと命じました。・・働かざる者、食うべからず!です。

 次に、「七日目はどんな仕事もしてはならない」と命じています。人は休みを取らなければ、肉体的にも精神的にも疾患が生じることは、周知の事実です。勤勉で休みを取らずに働き続けるなら、必ずその人は病気になり、まとめて休みを取ることになり、周りの人々にも大きな迷惑をかけることになります。週に一日しっかり休みを取ったほうが労働効率が上がることも知られています。ですから安息日の規定は神様の都合ではなく、人間のために与えられた規定なのです。

マルコ2:27 また言われた。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。
 もしクリスチャンが労働を続け、休みを取らなかったら、肉体的にはもちろんですが、霊的な瀕死状態になるでしょう。働くことと休みを取ることは神様の御心であり、人間にとって大切な生活の基本であることは旧約時代も新約時代も変わりません。

 安息日は金曜の日没から土曜日の日没までです。イスラエルでは現在でも安息日の規定に従い、金曜日の夕方からほとんどの公共の施設は閉まってしまいます。電車、バス、タクシーなど交通機関も止まってしまうので、ほとんどの学校や会社は金曜日には半ドンで帰宅します。金曜日に忙しいのは誰かというと主婦の人たちです。安息日には火を使ってはいけないので、金曜日の夕食と土曜日の朝食、昼食、夕食の四食分を家族全員分、安息日突入までに準備しなければなりません。朝から食品の買出しに行くので、金曜のスーパーマーケットは大混雑するそうです。安息日には外食すればいいのでは?と私たちは考えますが、テルアビブなど繁華街を除いてレストランもすべて閉まってしまうので、外食というわけにもいきません。安息日が始まる前に掃除洗濯も済ませ、入浴も済ませておかなければなりません。これが毎週ですから大変なことです。電気をつけたり消したりもほとんどの家庭ではしません。テレビを安息日に見たい人はつけっぱなし。最近は24時間タイマーを電化製品に取り付け、自動でオンオフする設定をしているそうです。エレベーターもボタンを押せないため、安息日には自動運転に切り替わり、各階に止まる設定になっています。日本人には考えられないことですが、多くのイスラエル人はこのような規定を当然の事として守っています。これらの細かな規定は聖書に命じられていませんが、ユダヤ教の中で教えられてきたことです。彼らはいまだに救い主を見いだすことが出来ず、旧約の律法と彼ら自身の宗教心の中で生活を束縛し、奴隷状態のまま歩んでいるのです。


2.安息日規定の目的

 安息日の規定が設けられた目的を挙げるなら、次の三つのことが言えるでしょう。
 @人間のために設けられた。(すでに説明しました)
 A神様の創造のわざを覚えるため。

出エジプト20:11 それは【主】が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。
 B神様がイスラエルを救われたことを記念して覚えるため。
申命記 5:15 あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、【主】が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、【主】は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。
 安息日が定められた目的をまとめるなら、「私たちの身体と霊を養い育てるため」と言えます。

3.教会はなぜ安息日(土曜)ではなく日曜日?

 キリストが律法を終わらせたので、現在私たちは古い律法の下にではなく、キリストの新しい契約のもとにいます。キリストが命じられた新しい戒めは律法を成就し、さらにすぐれた律法として与えられています。それゆえ私達には安息日を記念するよりもっと大切な記念日があります。それは救い主イエス・キリストが墓よりよみがえられた日曜日です。
ヨハネ 20:1 さて、週の初めの日(日曜日)に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
 イスラエル人にとってエジプトの奴隷生活から救われたことは重要な出来事でした。しかしキリスト者にとってはキリストがよみがえられた日はそれよりはるかに大切な日です。また、教会時代の奥義である聖霊が与えられたのも、50日後の五旬節の日曜日でした。それは教会が始まった日でもあります。

使徒2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
2:3 また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。
2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

 新約聖書では献金を日曜日に献げることや、礼典である聖餐式のために日曜日に弟子たちが集まったことが記録されています。「日曜日に礼拝を持ちなさい」という規定はありませんが、使徒たちをはじめ、初代教会のクリスチャンたちが主の日として日曜日に集まり礼拝をささげるようになったのは、日曜日こそ私たちが記念すべき日だと認識されていったからでしょう。
 聖書の中には「日曜日が安息日に取って代わった」という箇所はありません。しかしそれは「キリストにある恵み」だと言えるでしょう。もし「日曜日にクリスチャンは主のよみがえりを記念して教会に集まりなさい」と聖書に明記されていたとしたらどうでしょう?それは旧約の律法と変わらないものとなってしまいます。日曜日には何が何でも仕事を休み、礼拝に出席しなければならない――そういう規定に私たちは縛られてしまうことになります。それは書かれた文字に仕えることです。しかし聖書は次のように教えています。

ローマ 7:6 しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。
Uコリント 3:6 神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。

 キリスト者が日曜日に教会に集う理由は、全能の父なる神と、救い主イエス・キリストを誉め称えるためです。イエス・キリストの十字架とよみがえりを信じ、罪赦されたことを感謝して集います。御言葉の説き明かしを聞き、心から賛美をささげ、交わりを持って励まし合います。そういう人たちが集まるところがエクレシア――教会です。

 事情があって日曜日に礼拝に出席できないクリスチャンもいます。医者であったり、病気であったり、体が動かない人であったり、いろいろな事情の人がいます。その人が日曜日に教会の礼拝を休んでもそれを罪と責めることは誰にもできません。しかし日曜礼拝が文字で規定されていたなら、罪と宣告されるのです。これが律法と恵みの違いです。私たちはキリストの恵みの中に生きているのです。
 しかし、恵みだからと言って、教会に集うことをしないならその人は愚かと言うしかありません。私たちは自分の霊的な状態によく気をつけるべきです。週に一日、礼拝日を持つことは、神に形造られた人間として大切なことです。それはあなたの身体と霊の健康のためにも必要なことです。元気に働くことができるように、自分の信仰がなくならないように、私たちは祈るべきです。教会に集えない状況にある人は教会に集えるように熱心に祈ることが必要です。それまでは家庭礼拝を持ったり、個人ディボーションを欠かさないことで大きな助けになるでしょう。しかし、神様の御心は私たちが教会に集うことです。熱心になって教会に集えるように祈るべきです。そして教会の兄弟姉妹は礼拝に出席できない人たちのためにとりなし祈ることも大切です。機会を作って交わりを持つことも素晴らしいでしょう。主にある兄弟、姉妹です。キリストの祝福と恵みに共にあずかる者として励まし合いましょう。


Tコリント 13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。

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