心に響く聖書の言葉

十戒・第七戒      


出エジプト記20章14節
「姦淫してはならない」

 モーセの十戒、第7番目の戒めは「姦淫してはならない」です。この戒めを聞くたびに、後ろめたさを感じられる方もおられるでしょう。しかし、この戒めには神さまの大きな愛とあわれみが示されています。「殺してはならない」と命じられたおかたは、さばくためだけに「殺してはならない」と語られたのではなく、人のいのちを愛され、それがどれほど尊いものかを示されました。同じように、「姦淫してはならない」という戒めにも、神様の深い御心が含まれているのです。

1.それは家庭を守るためです

 姦淫という言葉は、聖書では既婚者に対して用いられる言葉です。妻がありながら、夫がありながら、他の女性や男性と交わることです。当然そこには夫婦という関係の崩壊、家庭の崩壊が起こります。


 結婚は神様の祝福であることを私達は知るべきです。創世記の中で、神様がアダムのために助け手としてエバを創造された時から、結婚は神様の祝福なのです。結婚は神様の導きであり、二人の男女が出会い、結婚をし、ひとつに結ばれることは素晴らしい奇跡です。聖書では「もはや二人ではなく一人である」と記されています。ですから夫婦という絆を誰も壊してはいけないのです。

マルコ10:2 すると、パリサイ人たちがみもとにやって来て、夫が妻を離別することは許されるかどうかと質問した。イエスをためそうとしたのである。
10:3 イエスは答えて言われた。「モーセはあなたがたに、何と命じていますか。」
10:4 彼らは言った。「モーセは、離婚状を書いて妻を離別することを許しました。」
10:5 イエスは言われた。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、この命令をあなたがたに書いたのです。
10:6 しかし、創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。
10:7 それゆえ、人はその父と母を離れ、
10:8 ふたりは一体となるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。
10:9 こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」
10:10 家に戻った弟子たちが、この問題についてイエスに尋ねた。
10:11 そこで、イエスは彼らに言われた。「だれでも、妻を離別して別の女を妻にするなら、前の妻に対して姦淫を犯すのです。
10:12 妻も、夫を離別して別の男にとつぐなら、姦淫を犯しているのです。」


 イエス様は離婚することは神の御心ではないと語られました。ただし、離婚したい人の中にはどうしようもない事情がある人もいます。相手の不倫であったり、暴力であったりです。モーセが離婚を認めたのはそういう理由からでした。しかし決して離婚は勧められることではありません。
 10〜12節では再婚も認められていません。再婚は「姦淫をするための都合のよい言い方」であって、神様の御心ではありません。(例外があるとすれば死別の場合のみです。1コリント7章参照)
 イエス様のことばは、私たちを「結婚」という壁で取り囲み、苦しめようとしているのではありません。神様は家庭という祝福の場所を守ろうとされているのです。姦淫が許されるなら家庭は成り立ちません。姦淫が堂々と行なわれるなら、人は尊厳を失い、獣と等しいものになってしまいます。神様の御心は、夫婦が生涯愛し合い、子どもを育て、死が二人を分かつまで支えあい、家庭を築き守ることです。そのために「姦淫してはならない」という戒めは重要な大原則なのです。


2.それは身体を清く保つためです

 「姦淫してはならない」という戒めのもう一つの目的は、私たちが身体を清く保つためです。それは私たちが罪の中を歩まず、神さまの祝福の中を歩むようになるためです。

ローマ6:12 ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。
1コリント6:9 あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、
6:10 盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。
6:15 あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。
6:16 遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりは一体となる」と言われているからです。
6:17 しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。
6:18 不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。
6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。


 神さまの願いは、私たちが主イエス・キリストの福音によって救われ、神の子供となり、地の塩となることです。そのために魂だけでなく、聖霊の宮である身体をも神さまのために清く保つことです。ですから不品行によって身体を汚してはならないのです。

 イエス様がエルサレムの神殿に入られたときに、驚くべき行動をとられました。

マタイ21:12 それから、イエスは宮に入って、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。
21:13 そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」

 神の宮が商売の場として利用され、汚されていることに対して主イエスは激しい怒りを表されました。その思いは聖霊の宮である信仰者が身体を汚すことに対しても同じです。「姦淫してはならない」と命じられた神さまは、あなたの身体と霊を汚れから守りたいと願っておられるのです。

3.備えられている赦し

 私たちは弱い人間であることもまた真理です。情欲を持って異性を見たり、誘惑に負けて罪を犯してしまうのは、人間が罪の中に生まれてきたからです。では、犯した姦淫の罪のために、私たちは生涯、汚れた者として後悔しながら生き続けなければならないのでしょうか?肉の弱さを持ち続けている間は、汚れた者として神様の祝福に預かれないのでしょうか?――この質問に対する答えとなる聖書の箇所があります。ヨハネによる福音書8章です。姦淫の現場で捕らえられた女性が引きずり出され、イエス様の元へ連れてこられた記事です。律法によれば、この女性は石打ちの刑による死刑は当然でした。しかし彼女に石を投げつけることができる罪のない人はいませんでした。ただ一人石を投げることができる人がいました。それはイエス・キリストです。しかし、イエス様は彼女に「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい、今からは決して罪を犯してはなりません」と言われました。イエス様は憐みから彼女の罪を見逃したのではありません。彼女の罪を贖うために、ご自分のいのちをささげようとしておられたのです。それゆえ彼女を罪と定められなかったのです。
 同じように、イエス・キリストは私たちが犯した罪を赦すために十字架に架かり、血を流して下さったのですから、私たちは罪赦されたことを感謝しつつ、胸を張って歩むことができるのです。



 私たちが犯した罪の暗さを知れば知るほど、12節のことばが心に響きます。
ヨハネ8:12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
 この時代は「姦淫の時代」だとイエス様は言われました。不品行が当たり前のように行なわれている時代です。周りは穢れた世界、サタンの支配する世界です。そして自分自身を見ても罪で汚れて真っ黒です。その私たちのためにイエス・キリストは世の光として来てくださいました。周りを照らし、そして罪の中を歩んでいるあなたを照らす光です。どうか救い主イエス・キリストを信じ、真っ暗な罪の中を歩み続けることを止め、光の中を歩んでください。

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