心に響く聖書の言葉

不思議なしるしの問題



二、不思議なしるしの問題


 不思議なしるし(奇跡)の問題について明らかにしていくために、まず聖書が記すしるし(奇跡)がどういう目的のために起こったのかを知る必要があります。イエス様は次のように言われました。
マルコ 8:12 イエスは、心の中で深く嘆息して、こう言われた。「なぜ、今の時代はしるしを求めるのか。まことに、あなたがたに告げます。今の時代には、しるしは絶対に与えられません。」
 この聖書箇所の解釈は難解ですが、しるしを求める信仰は神様の御心でないことがはっきりしています。そして、しるしは時代によって与えられたり、与えられなかったりすることが明らかです。では、しるしが与えられた時代とはいつでしょうか?・・それはおもにモーセの時代、預言者たちの時代(エリヤ、エリシャ、ダニエルなど)、そしてキリストの時代です。それらの時代に共通していることは、聖書が執筆された時代だという事です。つまり、しるしが与えられた目的は、預言者や使徒たちを通して記された言葉が、確かに「神の言葉」であることを証明するためです。このことを次の聖書箇所は教えています。
使徒 14:3 それでも、ふたりは長らく滞在し、主によって大胆に語った。主は、彼らの手にしるしと不思議なわざを行わせ、御恵みのことばの証明をされた。
マルコ 16:20 そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた

 また、神の御言葉を伝えた使徒たちが真理の証人であることを証明するためにしるしが用いられました。
Uコリント 12:12 使徒としてのしるしは、忍耐を尽くしてあなたがたの間で行われた、しるしと不思議と力あるわざです。
 注目すべき点は、信仰者なら誰にでもしるしが与えられたのではなく、初代教会では使徒たちとその同労者たちに限られていました。
使徒 2:43 そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われた。
使徒 5:12 また、使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが人々の間で行われた。みなは一つ心になってソロモンの廊にいた。
使徒 6:8 さて、ステパノは恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行っていた。
使徒 8:6 群衆はピリポの話を聞き、その行っていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。
使徒 15:12 すると、全会衆は沈黙してしまった。そして、バルナバとパウロが、彼らを通して神が異邦人の間で行われたしるしと不思議なわざについて話すのに、耳を傾けた。


 これらのことから言える事は、しるしは御言葉の確証のために与えられたのであり、特定の時代の特定の人々にだけ与えられたものだという事です。従って、聖書が既に完成している現在においては、御言葉の確証のために繰り返ししるしが与えられる必要はありません。ですからクリスチャンがしるしを求めることは神様の御心ではありません。私達は今がどんな時代かをよく理解しなければならないのです。
 一例を挙げるなら、使徒1章では、自死を選んだイスカリオテ・ユダの代わりに使徒を決めようとします。その方法はくじ引きでした。もし、使徒時代と同じように神のしるし、特別な啓示が現在でも与えられるなら、教会の牧師、役員を決めるのに私たちはくじを引かなければならないでしょう。しかし、現実にはあり得ないことです。今の時代は使徒の時代と明らかに違うことを認めるべきです。これは神様の力を信じないのではなく、神様のご計画を正しく理解することなのです。

 2011年にタンザニア国からガジマという牧師が来日して各地で講演しました。7万人の教会の牧師だそうです。驚くべきは彼は死者400人をよみがえらせたというのです。彼の集会に参加した人たちがネット上でいろいろな書き込みをしていました。「信じれば死人を生き返らせることが出来ると確信した」という書き込みがありました。その一方で、「彼はただの新興宗教の教祖様のように、地獄、悪魔、さばき、を繰り返し、脅迫的に説教し、信じれば必ず奇跡は起こると繰り返す。まさに洗脳だ!」という書き込みもありました。ガジマ牧師は日本滞在中、結局一人も死者をよみがえらせませんでした。タンザニアで400人をよみがえらせたというのは誰が確認したのでしょう?医師による死亡診断と復活診断があるのでしょうか?牧師の言葉なら何でも信じるというのは、問題があるでしょう。
 よく考えてみてください。もし、私たちが祈りによって死人をよみがえらせることが出来ると信じるなら、私達は誰も葬ることが出来なくなってしまいます。火葬場で遺体が焼かれている間にその人が生き返ったなら、私達は人殺しになってしまうでしょう。
 カリスマ派の人々は今がどのような時代かを知ることに失敗しています。使徒の時代と今の時代は明らかに違います。使徒たちには特別な権威としるしが与えられましたが、今日では使徒と同じ権威を持つ人は一人もいません。不思議なしるしや病人のいやしを行ったのは、使徒たちと使徒たちの同労者に限られていました。そのしるしの目的は、使徒たちの権威を証明して聖書を書かせるためだと説明しました。その使徒たちでさえ晩年になるにつれ、しるしが与えられなくなりました。使徒パウロはUコリント12章で、痛む肉体のとげを取り除いてほしいと三度も願いましたが、いやされなかったと告白しています。また、パウロが晩年にテモテに書き送った時、病気をいやす方法について記しています。それは当時の病気治療の方法の一つであった少量の葡萄酒を勧めることでした。

Tテモテ5:23 これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いなさい。
 パウロは「手を置いて、祈っていやせ」と命じていないのです。また、「使徒の働き」を注意して読んでいくなら、ペンテコステの日以降、異言やいやし、不思議な奇跡が次々起こるのですが、後半になるにつれ、しるしは少なくなっていることに気付くでしょう。聖書の完成とともに、神様がしるしを与える必要がなくなったからだと理解できます。

 使徒に与えられた啓示、しるし、奇跡、権威を特別だと認めるからこそ、彼らの書いた手紙が霊感された神の言葉だと信じることが出来るのです。誰でもしるしを行うことが出来るなら、使徒としての権威は保たれず、その書いた書簡も疑わしいものとなります。
 もし、今の時代に使徒と同じような権威を持つ人が現われ、しるしを行うなら、彼が語る言葉は聖書と同じ権威を持つことになります。当然、福音が変えられ、異端が生まれてくることになります。聖書には偽キリスト、偽預言者が出現することが預言されています。偽キリストたちは聖書の言葉を語り、聖書に記されている奇跡を行います。だから偽キリストと呼ばれるのです。しかし、彼らのしるしに惑わされてはいけません。

Uコリント 11:13 -15こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。ですから、サタンの手下どもが義のしもべに変装したとしても、格別なことはありません。彼らの最後はそのしわざにふさわしいものとなります。

 カリスマ運動ではしるしが与えられることによってクリスチャンが強められて伝道に立ち上がることが出来ると教えます。しかし聖書を学ぶとそうではありません。しるしを見ているのにほとんどの人が信仰に導かれていません。イエス様がしるしを行ったのに、カペナウム、コラジン、ベツサイダの人々は信じませんでした。盲人がいやされ、病人がたちどころに治り、死人が生き返っても信じませんでした。祭司長やパリサイ人、エルサレムに住む人々も同じでした。彼らはしるしを見ていたのにイエス・キリストを十字架に架けたのです。出エジプト記では、エジプト人たちは10の驚くべきしるしを経験したのに信じませんでした。また、救い出されたイスラエルの民も不信仰に陥り、荒野で滅ぼされました。聖書はこれらの事を通して私たちに大切な事を教えています。しるしによって人は信仰に導かれず、信仰者の信仰を強くしないということです。しるしの役目は、語られた御言葉が神からのものであることの証明です。その御言葉こそ、人を救いに導き、信仰者を強めるのです。
ローマ10:14-17 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか」とイザヤは言っています。そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。