心に響く聖書の言葉

新しい啓示の問題



三、新しい啓示の問題

「神様が私に〜〜しなさいと言われた」と証しすることがカリスマ派の人々の専売特許のようになっています。「神様が夢で現れてくださって、今日Aさんに会って伝道しなさいと言われました。」「神様が啓示を与えてくださって、来年、新会堂を建てよと命じられました。」等々。本当に神様がそのような事を啓示されるのでしょうか?夢と啓示を同じだと考えてはいないでしょうか?また、次のような証しを聞くことがあります。「聖霊が私に〜するように語りかけてくださいました。」「この計画は聖霊の導きです」等々。これらは自分の判断や行動が神様の導きだという主張です。そう言われると誰も反対意見を言うことが出来ません。すべての議論を終わらせ、神様の権威をその人の言葉に持たせることになるのです。

 この様な啓示を神様は今でも与えられるのでしょうか?神様が直接的に信仰者に語りかけ、導きを与えられるのでしょうか?・・それは、現在でも神様からの啓示を取り次ぐ預言者がいるのか?という問題と同じです。もし、預言者が現在もいるのであれば、聖書の啓示はまだ閉じられてはいないことになってしまいます。
 カリスマ派の人たちの考えは、「聖書の真理は変わらないが、霊的な啓示や現代の時代に合った霊的解釈が常に必要です」と言います。しかし、聖書はそのように教えてはいません。聖書は六十六巻がそろった時点で閉じられています。新しい啓示や霊的教訓を付け加える必要がないことは次の聖句で明らかです。

黙示録22:18-19 私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。
Uテモテ3:16-17 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。


 聖書は霊感された書物であり、完全です。ですから、六十六巻以外の啓示は必要ありません。神様の御心をすべて示し、クリスチャン生活に必要な啓示、教えがすべて含まれています。聖書は私達に「福音を宣べ伝えなさい」と命じています。しかし、「いつ、どこで、誰に、どのように」伝道するのかは私たちにゆだねられています。どこで、どのように伝道すべきかをいちいちイエス様や御使いが現れて教える必要はありません。未信者のいる所はどこでも伝道地だからです。

「神様が私に夢で語られました」という人は次の聖書の御言葉をよく読むべきです。

申命記 18:20-22 「ただし、わたしが告げよと命じていないことを、不遜にもわたしの名によって告げたり、あるいは、ほかの神々の名によって告げたりする預言者があるなら、その預言者は死ななければならない。」あなたが心の中で、「私たちは、【主】が言われたのでないことばを、どうして見分けることができようか」と言うような場合は、預言者が【主】の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは【主】が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。」

 あるカリスマ派セミナーの宣伝に次のように書かれていました。「一日、24時間、神様と親しく会話をする方法を教えます!」・・本当でしょうか?もし神様の御声をいつも聞くことが出来るとしたなら、私たちはもう聖書を開く必要がありません。聖書は用済みの過去の本となってしまいます。ですから、「聖書は閉じられた神の言葉であり、神様の新しい啓示は今の時代には与えられない」と信じていただきたいのです。イスラム教をはじめとして、モルモン教、エホバの証人、統一教会は聖書が閉じられたことを認めず、別の啓示を認めてしまったため異端となってしまいました。なぜ、聖書以外の啓示を求めるのでしょうか?・・・理由は簡単です。聖書だけでは不十分だと考えるからです。聖書だけで満足できないからです。イエス・キリストの十字架の福音だけでは満足できないからです。そこにサタンの落とし穴があります。ヘブル人への手紙の次の言葉をよく理解しましょう。
ヘブル 1:1-3 「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」

 御子キリストが語られた言葉に従ってキリスト者は歩みます。神様が直接啓示を与えられて導かれるのではありません。毎日の生活の中で必要な啓示と教えは、聖書の中にすべて記されているのです。