心に響く聖書の言葉

病気のいやしの問題




四、病気のいやしの問題

ヤコブ 5:14 あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。
 私たちは人々が病気で苦しんでいる時、その人を神様がいやしてくださるように祈ります。しかし、祈ればどんな病気でも直ちに治ると信じてはいません。神様の御心なら治ると信じて祈ります。

 カリスマ運動では、イエス様や使徒たちが行なったような即座の病気のいやしが出来ると信じて、いやしの集会を開いたり、病人に手を当てて祈ります。そして病気であった多くの人々が「いやされた!」と証言しています。しかし、それらのいやしは、詳しく調べてみると実際には一時的であり、精神的なことによってもたらされる回復ばかりです。痛みを一時的に感じなくなりますが、痛みは再発し、病院に通うのが遅れてしまうため、かえって悪い結果になることが多いようです。このように書くと、反論を招くと思いますが、カリスマ派牧師が行なういやしは神様のしるしではないことは明らかです。それらは単なる暗示療法と同じです。たとえば、医者が患者に対して、薬を処方し、「この薬を飲んだら、二、三日で治りますよ!」と言うのと、「いつ治るか分からないけど、この薬を飲んでみてください」と言うのでは、治り方は歴然と違います。ある意味、医者は患者に希望を持たせ、暗示をかけるのです。「治るかどうかわかりません」と言いつつ薬を処方するだけなら、患者は不安になり病状が悪化してしまうものです。「この病気は必ず治りますよ!」と言われると、人は希望を持ち、良い結果が出ます。カリスマ派の牧師がしている事はまさにそれです。多くの新興宗教の教祖様と同じように人々に病気がいやされるという暗示をかけているのです。いやしの集会では、まず「神様の偉大な力を信じよ!」と説教します。そしてどれだけ多くの人が信仰によって病気がいやされたかを実例を挙げて話します。そして「聖霊の力で必ず治る!信じろ!私は癒されたと喜び叫べ!ハレルヤ!」と大きな声で繰り返し迫ります。まさに暗示療法です。

 しかし、聖書が教えるしるしとしてのいやしは、精神的ないやしではなく、通常では治らない病気ばかりです。不治の病に侵されたやもめがいやされました。生まれつき目の見えない人が見えるようになりました。足のなえた人の足がいやされただけでなく、リハビリなしに健常者の足と同じようになって歩き出しました。超自然のいやしこそ、神様が与えられるしるしなのです。

 ところで、人はなぜ病気にかかるのでしょうか?その答えは人が罪人だからです。アダムとエバが罪を犯した時から、人は病気にかかり苦しむようになりました。つまり、罪のさばきとして病気にかかるようになったのです。ですから誰も病気から逃れることは出来ません。死もまた同じことです。さらに病気にかかる原因として聖書は次の事を挙げています。
@犯した罪のさばきとして

U列王記5:27 ナアマンのツァラアトは、いつまでもあなた(ゲハジ)とあなたの子孫とにまといつく。」彼はツァラアトに冒され、雪のようになって、エリシャの前から出て来た。
Aサタン、悪霊から来る病気 
ルカ13:11 すると、そこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女がいた。
13:16 この女はアブラハムの娘なのです。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。」

B神様のご計画
出エジプト4:11 【主】は彼に仰せられた。「だれが人に口をつけたのか。だれが口をきけなくし、耳を聞こえなくし、あるいは、目を開いたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、【主】ではないか。
 ですから、人が病気にかかることには意味があり、病気を通して知る神様の御心があります。病気にかかることにより、自分が罪人であること、弱い者であることを認め、神様に信頼するよう計画されていると言えます。病気にかかることは「悪、不幸だ」と決めつけ、「信じて祈れば必ず治る」という暗示説教は神様の御心ではありません。神様が病気を用いてその人を霊的に導いておられるのなら、神様のご計画の邪魔をしていることにさえなるのです。

 病院についてはどうでしょう。病院へ行くことは不信仰でしょうか?そう信じるカリスマ信仰の方もおられます。では、聖書を見ましょう。

イザヤ 38:21 イザヤは言った。「ひとかたまりの干しいちじくを持って来させ、腫物の上に塗りつけなさい。そうすれば直ります。」(ヒゼキヤ王が大病にかかった時)
ヤコブ 5:14 あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。
Tテモ5:23 これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いなさい。

 三つの記事に共通することは、祈りと医療行為が必要とされている点です。また、次のイエス様の言葉も重要です。
マタイ9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
 この言葉は、イエス様が罪人を救うために来られたことを教えるための例話として用いられています。誰もが当然だと理解している事を例話として用いられました。つまり、病人が医者にかかることは当然のことだとイエス様も認めておられます。キリスト者は病気になったら病院へ行くべきです。それは決して不信仰ではありません。ただし、次の聖書箇所に示されている神様の御心を忘れてはいけません。
U歴代誌 16:12 それから、アサはその治世の第三十九年に、両足とも病気にかかった。彼の病は重かった。ところが、その病の中でさえ、彼は【主】を求めることをしないで、逆に医者を求めた
 病気にかかった時、優先順位を間違えてはいけないのです。まず病院ではなく、まず神様に頼り、祈ることが大切です。そして病院へ行くのです。すべてのことにおいて神様を第一として信頼することが御心です。そして更に祈りが必要な時には、牧師や兄弟姉妹に来ていただき祈ってもらいなさいと聖書は教えています。