心に響く聖書の言葉

5.八つのディスペンセーション


 聖書を学んでいくと、神様が時代の区分をされて歴史を御支配(管理)されていることが分かります。一般的なディスペンセーションでは七つの時代区分としていますが、サウロ王から始まった人間による王国時代を区分すべきと考え、ここでは八つの時代区分として学んでいきます。(全体のチャートをダウンロードできます

1.罪のない時代

 最初のディスペンセーションは「罪のない時代」です。無垢の時代とも呼ばれます。アダムとエバが創造されてから罪を犯すまでの時代です。このディスペンセーションではアダムが中心人物であり、聖書箇所は創世記1:27から3:24です。

A.新しい時代の啓示
創世記 2:7 神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。
 まずはじめに、神様はアダムを創造されました。彼を罪が無い状態で創造されましたが、それは罪を犯すことができない性質ではありませんでした。自由意思を持った人間としてアダムは創造されました。それは命じられるまま行動するだけのロボットではなく、感情を持ち、自分の判断と意志によって行動することができる完全な状態でした。アダムとエバにはまったく罪がなかったので死ぬことがなく、創造主と自由に交わりを持つことができました。

B.人に与えられた責任
 神様が彼らに課せられた責任は、エデンの園の維持と、「善悪の知識の木の実を取って食べてはならない」という二つでした。
創世記2章15〜17節
2:15 神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。
2:16 神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」


C.祝福と呪い
 アダムとエバが二つの命令に聞き従うなら、彼らはエデンの園で何不自由なく神と共に永遠の祝福の中で生きることができました。しかし、彼らが神のことばに従わなければ、「あなたは必ず死ぬ」と定められました。

D.人間の失敗
創世記3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
 しかし、アダムとエバは神様のことばに聞き従わず、「善悪の知識の木」から取って食べてしまいました。

E.神のさばき
 その結果、アダムとエバを祖先とする人類すべてに罪と死が入ってしまいました。それは、彼らが犯した罪に対する神様のさばきでした。さらにさばきとしてエデンの園からの追放と、男性には労働の苦しみ、女性には産みの苦しみと男によって支配されることが加えられました。

F.神の備え
 しかし、神様はさばきを与えるその一方で、彼らの罪を贖うために動物をほふり、皮の衣を彼らに与えられました。
創世記3:21 神である【主】は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。
 また、原福音と呼ばれる啓示も神様の人間のための備えと言えます。
創世記3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

2.良心の時代

 アダムとエバが罪を犯し、エデンの園から追放されたので、新しい時代が始まりました。この時代は良心の時代と呼ばれます。全地に人々が増え広がり、ノアの洪水によって八人以外のすべての人が滅ぼされるまでの期間であり、聖書個所は創世記4章1節から8章22節までです。この時代の中心人物はノアです。

A.新しい時代の啓示
 良心の時代というのは、次の聖書箇所から取られました。
ローマ2:15 彼らはこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。
 この時代には明確な神様の統治の仕方が記されておらず、人に与えられた良心だけが人間の行動の規範となりました。

B.人の責任
 このディスペンセーションにおいては、人間の責任も明確にされていません。ただ、アベルが羊の初子の中から最良のものをささげたことや(4:4)、人々が主の御名によって祈ることを始めた(4:26)ことなどから、この時代にあっても正しい信仰心を持って神を礼拝し、受け入れられるいけにえをささげ、神様に祈る信仰生活が求められていたことがわかります。
創世記4:6 そこで、【主】は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。
4:7 あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」

 人に与えられた良心だけがこの時代における神の統治の仕方であり、そして良心に従うことが人の責任でした。

C.祝福と呪い
 良心に従って正しい行いをすれば神様に受け入れられ、そうでなければ罪の奴隷となって堕落してしまう。

D.人間の失敗
 カインによる弟殺害に始まり、堕落という一途をたどりました。
創世記4:8 しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。
創世記 6:5 【主】は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。
創世記6:11 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。
6:12 神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。


E.神のさばき
 神様のさばきは、人の齢を120年にすること(6:3)でした。その後、あまりにも人の堕落状態がひどくなったので、洪水によってすべてのものを滅ぼそうとされました。
創世記6:7 そして【主】は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」

F.神の備え
 洪水のさばきの中で、神様は恵みを持って介入されました。ノアという正しい人を見出し、彼の家族も含めて洪水から救い出されました。そして再び洪水によって滅ぼさないという「虹の契約」を宣言されました。
創世記6:18 しかし、わたしは、あなたと契約を結ぼう。あなたは、あなたの息子たち、あなたの妻、それにあなたの息子たちの妻といっしょに箱舟に入りなさい。
創世記9:13 わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。
9:14 わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現れる。
9:15 わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。


3.人間統治の時代

 この時代は、ノアの家族から再び人が増え広がり、国々が成立し、支配者や権力者たちが立てられていった時代です。ゆえにこの時代を人間統治の時代と呼びます。
創世記10:5 これらから海沿いの国々が分かれ出て、その地方により、氏族ごとに、それぞれ国々の国語があった。
 このディスペンセーションの中心人物はニムロデで、聖書箇所は創世記9章1節から11章32節までです。
創世記 10:8 クシュはニムロデを生んだ。ニムロデは地上で最初の権力者となった。

A.新しい時代の啓示
創世記 9:19 この三人がノアの息子で、彼らから全世界の民は分かれ出た。
 ノアとその家族から新しい時代が始まりました。
創世記 10:8 クシュはニムロデを生んだ。ニムロデは地上で最初の権力者となった。
 人間は増え広がり、人間による統治、支配が行われるようになりました。

B.人に与えられた責任
 この時代において与えられた責任は、次の三つです。
1.生きて動いているものは何でも食べてよいが、肉は血のあるままで食べてはならない
2.人の血を流してはならない
3.結婚し、子供を産み、ふえ広がること。
創世記 9:4 しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。
9:5 わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。
9:6 人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。
9:7 あなたがたは生めよ。ふえよ。地に群がり、地にふえよ。」


C.祝福と呪い
 神様の祝福によって増え広がり、繁栄の中に生き喜び楽しむことができました。しかし、人の血を流す者は人によって血を流される(死刑制度の導入)ことが定められました。

D.人間の失敗
 この時代における人間の失敗は、大きな社会になるときに生じてくるおごりと高慢でした。権力と繁栄を手に入れた人間はさらに権力と繁栄を追い求め、天にまで届く塔を建てようと計画しました。それがバベルの塔です。
創世記11:4 そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」

E.神のさばき
 言葉を混乱させ(一つの言語ではなくなった)、人々を全地に散らされました。
創世記 11:8 こうして【主】は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。
11:9 それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。【主】が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、【主】が人々をそこから地の全面に散らしたからである。


F.神の備え
 神様のさばきは同時に神様の備えでもありました。言葉を混乱させ、散らされることによって人々が高慢になることを抑制されたのです。また、地の全面に散らされたことにより、諸国ができ、各々独自の国語、文化が栄えるようになりました。人間を滅ぼされなかったこと自体、大きな恵みでした。

4.約束の時代

 このディスペンセーションは、神様がアブラハムと結ばれた約束に始まり、族長時代、そしてエジプトにおける奴隷時代を経て、モーセの律法が与えられるまでの期間です。中心人物はアブラハムであり、創世記12章1節から出エジプト18章27節までです。このディスペンセーションの特徴は、神様がアブラハムを選ばれ、アブラハムとその子孫に対して大いなる祝福を約束されたことです。

A.新しい時代の啓示
 神様は信仰の人アブラハムに目を留められ、彼と契約を結ばれました。それゆえ、新しいディスペンセーションが開始されました。
創世記12:1 【主】はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」


B.人に与えられた責任
 この「約束の時代」のディスペンセーションにおいて人間に与えられた責任は、まずアブラハム個人に対して課せられたものでした。それは神様が指示されたとおりにアブラハムが行動することでした。
1.あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい 12:1
2. 次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい 17:10
3.あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。22:2

 そしてアブラハムの子孫に与えられた責任は、約束の地であるカナンに住むこと、すべての男子が割礼を受けることでした。あとは契約の民として信仰を持って歩みさえすればよかったのです。また、アブラハムの子孫以外の民族に与えられた責任は、「アブラハムを祝福する」ことでした。

C.祝福と呪い
 神様がアブラハムに与えられた祝福の契約は、段階的に啓示されました。それらをまとめると三つの大きな約束があります。
@民族の祝福:大いなる国民の父となる
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
 アブラハムを通して、神様が祝福される大いなる国民が興ることを約束されました。そして事実、彼にイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれました。このヤコブこそイスラエルと呼ばれる人です。そしてヤコブからイスラエル12部族となる息子たちが生まれました。

A領土の所有:カナンの土地を与える。
17:8 「わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」
 カナンの土地は現在ではパレスチナと呼ばれています。アブラハム自身は、その生涯において領土を所有することがありませんでしたが、彼の子孫は約束の土地の一部を領土としました。ソロモン王の時代にその領土は最大でした。

B救い主の約束:彼の子孫によって全世界の人が祝福を受ける
22:18 「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」
 アブラハムの子孫によって全世界の人が祝福されると約束されました。そして新約聖書「へブル人への手紙」の著者は「一人の子孫によって全世界の人が祝福される」と解き明かしています。その方こそイエス・キリストです。キリストはアブラハムの子孫から生まれ、全世界の人が彼によって祝福を受けることが預言されていたのです。マタイによる福音書の書き出しは、「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図・・」ですが、それはイエス・キリストが間違いなくアブラハムの子孫であり、約束の子孫であることを示すためです。

 この時代に与えられた呪いは、神様がアブラハムに約束された一言に尽きます。「あなたをのろう者をわたしはのろう。」--つまりアブラハムとその子孫に敵対するなら、神様ののろいにより、災いや死が降りかかるのです。

D.人間の失敗
 @ソドムとゴモラの町民はアブラハムの甥のロトが警告したにも関わらず、非道な行為に走ったため、神様は天から硫黄の火を降らせて彼らを滅ぼされました。創世記19章
 Aヤコブの息子たちは父親をだまし、弟のヨセフをエジプトに売り飛ばしました。ヨセフは神様の恵みによってエジプトにおいて権力者となりますが、結果的にはイスラエルはヨセフの招きに応じてエジプトへ下っていきました。

E.神のさばき
 イスラエルは長くエジプトに留まっていたため、祝福を失い、エジプトの奴隷となりました。
出エジプト1:13 それでエジプトはイスラエル人に過酷な労働を課し、
1:14 粘土やれんがの激しい労働や、畑のあらゆる労働など、すべて、彼らに課する過酷な労働で、彼らの生活を苦しめた。


 イスラエル人を奴隷として利用していたエジプトのパロは、モーセの再三にわたる申し出を断り、イスラエル人を解放しなかったため、さばかれて災害を被り、最期は海の下に沈みました。
出エジプト14:27 モーセが手を海の上に差し伸べたとき、夜明け前に、海がもとの状態に戻った。エジプト人は水が迫って来るので逃げたが、【主】はエジプト人を海の真ん中に投げ込まれた。

F.神の備え
 この時代における神様の備えは、モーセを指導者として立てられ、苦しみあえぐイスラエルの民をエジプトから引き出された(モーセという名前の意味)ことです。
出エジプト 12:51 ちょうどその日に、【主】はイスラエル人を、集団ごとに、エジプトの国から連れ出された。

 ※このディスペンセーションの特徴である神がアブラハムと結ばれた約束(契約)は、モーセの律法によって取り消されることがありませんでした。
ガラテヤ 3:17 私の言おうとすることはこうです。先に神によって結ばれた契約は、その後四百三十年たってできた律法によって取り消されたり、その約束が無効とされたりすることがないということです。
 神様がアブラハムと交わされた契約(約束)は、律法の時代に入っても破棄されず、その約束は教会時代を越え千年王国時代まで続きます。

5.律法の時代
   
 このディスペンセーションは、神様がモーセを通してイスラエルに律法を与え、導かれた時代です。この時代の中心人物はモーセであり、出エジプト記19章1節からTサムエル記7章17節までです。神様は契約の民であるイスラエルに律法を与え、ご自分の民としてイスラエルを正しく導こうとされました。

A.新しい時代の啓示
 神様はモーセを選び、彼に次のように語られました。
出エジプト19:5 今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。
19:6 あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」


B.人に与えられた責任
 イスラエルに与えられた責任は、神様の声に聞き従い、契約を守る事でした。その契約は律法という具体的な形でイスラエルに与えられました。

C.祝福と呪い
申命記11:26 見よ。私は、きょう、あなたがたの前に、祝福とのろいを置く。
11:27 もし、私が、きょう、あなたがたに命じる、あなたがたの神、【主】の命令に聞き従うなら、祝福を、
11:28 もし、あなたがたの神、【主】の命令に聞き従わず、私が、きょう、あなたがたに命じる道から離れ、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行くなら、のろいを与える。


D.人間の失敗
 この律法の時代における民の失敗は、律法に従わず、偶像礼拝に陥った事です。次の聖書箇所はヌンの子ヨシュアの死後すぐの箇所です。
士師記2:11 それで、イスラエル人は【主】の目の前に悪を行い、バアルに仕えた。
2:12 彼らは、エジプトの地から自分たちを連れ出した父祖の神、【主】を捨てて、ほかの神々、彼らの回りにいる国々の民の神々に従い、それらを拝み、【主】を怒らせた。


E.神のさばき
 神様のさばきは、まわりの国々がイスラエルを侵略し、略奪するというものでした。
士師記2:13 彼らが【主】を捨てて、バアルとアシュタロテに仕えたので、
2:14 【主】の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らを略奪者の手に渡して、彼らを略奪させた。主は回りの敵の手に彼らを売り渡した。それで、彼らはもはや、敵の前に立ち向かうことができなかった。
2:15 彼らがどこへ出て行っても、【主】の手が彼らにわざわいをもたらした。【主】が告げ、【主】が彼らに誓われたとおりであった。それで、彼らは非常に苦しんだ。


F.神の備え
 神様は備えとして、まず、さばきつかさを立てて彼らを立ちなおらせようと望まれましたが、それでもイスラエルは悔い改めず、偶像礼拝へと道を逸れていってしまいました。
士師記2:16 そのとき、【主】はさばきつかさを起こして、彼らを略奪する者の手から救われた。
2:17 ところが、彼らはそのさばきつかさにも聞き従わず、ほかの神々を慕って淫行を行い、それを拝み、彼らの先祖たちが【主】の命令に聞き従って歩んだ道から、またたくまにそれて、先祖たちのようには行わなかった。
2:18 【主】が彼らのためにさばきつかさを起こされる場合は、【主】はさばきつかさとともにおられ、そのさばきつかさの生きている間は、敵の手から彼らを救われた。これは、圧迫し、苦しめる者のために彼らがうめいたので、【主】があわれまれたからである。
2:19 しかし、さばきつかさが死ぬと、彼らはいつも逆戻りして、先祖たちよりも、いっそう堕落して、ほかの神々に従い、それに仕え、それを拝んだ。彼らはその行いや、頑迷な生き方を捨てなかった。
2:20 それで、【主】の怒りがイスラエルに向かって燃え上がった。主は仰せられた。「この民は、わたしが彼らの先祖たちに命じたわたしの契約を破り、わたしの声に聞き従わなかったから、
2:21 わたしもまた、ヨシュアが死んだとき残していた国民を、彼らの前から一つも追い払わない。
2:22 彼らの先祖たちが【主】の道を守って歩んだように、彼らもそれを守って歩むかどうか、これらの国民によってイスラエルを試みるためである。」
2:23 こうして、【主】はこれらの国民をただちに追い出さないで、残しておき、ヨシュアの手に渡されなかったのである。

 ここで注目すべきは、22節で神様はイスラエルを試みられたという事です。すべてのディスペンセーションに共通することは、神様は常に私たち人間が神様の御言葉に忠実に歩むかどうかをテストされているということです。それが人間に責任が与えられる理由でもあり、信仰者をなまりけのない純粋な者として成長させるための神様の御計画なのです。

 しかし、律法の時代におけるテストにも人間は失敗しました。この時代を通して理解されることは、「人間は規則や法律で縛りつけても、決して良い人間、正しい人間になることはできない」という事です。律法の時代の結末は次のことばによって表わされています。
士師記21:25 そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。
 神様のこの時代における最後の備えは、イスラエルに王を立てられることでした。これにより次の王政時代が開始されました。

6.王政の時代

 このディスペンセーションではイスラエルの民の願いによって神様が彼らの上に王を立てられ、王によってこの時代を統治させられました。最初の王となったのはサウル、次王はダビデでした。神様はダビデと特別な契約を結ばれました。その契約は永遠の王国の約束です。
 このディスペンセーションの中心人物はダビデであり、聖書箇所はTサムエル記8章1節から使徒の働き1章26節までです。

A.新しい時代の啓示
Tサムエル 8:4 そこでイスラエルの長老たちはみな集まり、ラマのサムエルのところに来て、
8:5 彼に言った。「今や、あなたはお年を召され、あなたのご子息たちは、あなたの道を歩みません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」

 イスラエルは周りの諸国のように王政を望みました。その要求に応える形で神様は新しい時代、王政の時代を開始されました。

B.人に与えられた責任
 このディスペンセーションにおいて与えられた新しい人間の責任は、「立てられた王に従う」という事でした。ただし以前のディスペンセーションにおけるアブラハムとの契約、律法の契約は継続していて、王に対する規定が新たに加えられました。
Tサムエル8:10 そこでサムエルは、彼に王を求めるこの民に、【主】のことばを残らず話した。
8:11 そして言った。「あなたがたを治める王の権利はこうだ。王はあなたがたの息子をとり、彼らを自分の戦車や馬に乗せ、自分の戦車の前を走らせる。
8:12 自分のために彼らを千人隊の長、五十人隊の長として、自分の耕地を耕させ、自分の刈り入れに従事させ、武具や、戦車の部品を作らせる。
8:13 あなたがたの娘をとり、香料作りとし、料理女とし、パン焼き女とする。
8:14 あなたがたの畑や、ぶどう畑や、オリーブ畑の良い所を取り上げて、自分の家来たちに与える。
8:15 あなたがたの穀物とぶどうの十分の一を取り、それを自分の宦官や家来たちに与える。
8:16 あなたがたの奴隷や、女奴隷、それに最もすぐれた若者や、ろばを取り、自分の仕事をさせる。
8:17 あなたがたの羊の群れの十分の一を取り、あなたがたは王の奴隷となる。
8:18 その日になって、あなたがたが、自分たちに選んだ王ゆえに、助けを求めて叫んでも、その日、【主】はあなたがたに答えてくださらない。」
8:19 それでもこの民は、サムエルの言うことを聞こうとしなかった。そして言った。「いや。どうしても、私たちの上には王がいなくてはなりません。
8:20 私たちも、ほかのすべての国民のようになり、私たちの王が私たちをさばき、王が私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう。」


 また、王に与えられた責任は、神様から与えられた命令に従うことでした。(Tサムエル13:13-14参照)

C.祝福と呪い
Tサムエル12:13 今、見なさい。あなたがたが選び、あなたがたが求めた王を。見なさい。【主】はあなたがたの上に王を置かれた。
12:14 もし、あなたがたが【主】を恐れ、主に仕え、主の御声に聞き従い、【主】の命令に逆らわず、また、あなたがたも、あなたがたを治める王も、あなたがたの神、【主】のあとに従うなら、それで良い。
12:15 もし、あなたがたが【主】の御声に聞き従わず、【主】の命令に逆らうなら、【主】の手があなたがたの先祖たちに下ったように、あなたがたの上にも下る。

 王政の祝福は、王が民の先頭に立って導き、周りの国々と戦ってくれるので、勝利が与えられ、民が平和に暮らせることでした。(Tサムエル8:20、12:2参照)
 呪いとしては、神様のさばきが啓示されています。
Tサムエル 12:25 あなたがたが悪を重ねるなら、あなたがたも、あなたがたの王も滅ぼし尽くされる。

D.人間の失敗
 しかし、この時代においても人間は失敗を繰り返しました。その理由はおもに歴代の王の堕落でした。初代の王サウルが失敗した時に預言者サムエルが語ったことは、
Tサムエル13:13 サムエルはサウルに言った。「あなたは愚かなことをしたものだ。あなたの神、【主】が命じた命令を守らなかった。【主】は今、イスラエルにあなたの王国を永遠に確立されたであろうに。 13:14 今は、あなたの王国は立たない。
と言うものでした。

E.神のさばき
 次王となったダビデは姦淫の罪を犯し、ソロモン王は偶像礼拝に陥りました。それゆえ神様はさばきとしてイスラエルを北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂させました。しばらくの間、両王国は続くのですが、列王記に記されている歴代の王たちも不信仰や偶像礼拝の罪を重ね、その罪を責められています。よって神様はこの時代にもさばきを下されました。アッシリア帝国によって北イスラエル王国の人々は捕囚され(BC721)、南ユダ王国の人々はバビロン帝国によって捕囚されてしまい(BC586)、イスラエル人は離散の民となりました。それ以降、神様から御言葉が啓示されない暗黒の時代が続きました。

F.神の備え
 このディスペンセーションにおける神様の備えの一つは、バビロン捕囚からの帰還でした。(※アッシリアへ捕囚された北イスラエル10部族の足取りははっきり分かっていません。)そして捕囚から帰還したユダヤ人に対しては、さらに大いなる備えがありました。ユダヤ人の王としてイエス・キリストが来臨されたのです。イエス・キリストこそ王政時代のさばきに苦しんでいたユダヤ人に対する神様の備えでした。

7.恵みの時代

 このディスペンセーションは「教会の時代」または「聖霊の時代」とも呼ばれますが、このテキストでは次の御言葉により「恵みの時代」としています。
Uコリント 6:2 神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。
 この「恵みの時代」は、ペンテコステの日に聖霊が降臨して教会が誕生した日から始まり、七年間の患難期が終わるまでの期間です。聖書箇所は使徒2章1節から黙示録19章21節までで、使徒パウロがこのディスペンセーションの中心人物です。

A.新しい時代の啓示
使徒2:33 ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。
 五旬節の日に聖霊が降臨し、信仰者に内住するようになりました。このことが新しい時代の幕開けとなりました。

B.人に与えられた責任
 このディスペンセーションにおける人間の責任は、イエス・キリストの十字架の贖いと復活によって完成された福音を信じるという事です。それまでの律法は廃棄され、新しい契約が結ばれました。それはキリストの血による新しい契約です。(ただし、イスラエルに対するアブラハムとの契約、王に対する責任は廃棄されたわけではありません。恵みの時代においてそれらはほとんど機能していませんが、後の時代にはその実現を見ることになります。)

C.祝福と呪い
 イエス・キリストが十字架に架けられ血を流し、体を刺し通されたのは私たちに罪の赦しを与えるためでした。信仰によって私たちはキリストと一つになり、復活のいのち、永遠のいのちをいただけるのです。福音を信じない者には、永遠のさばき(地獄)が定められています。
ヨハネ 3:36 御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

D.人間の失敗
 恵みの時代においても人間は失敗をします。それはイエス・キリストの福音を信じないことです。次の聖書箇所はイエス様が語られた預言のことばです。
マタイ24:10 また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。
24:11 また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。
24:12 不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。
24:13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。
24:14 この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。
24:37 人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。
24:38 洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。
24:39 そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。

 この時代の終わりはノアの日と同じようだとイエス様は預言されました。ノアの時代の人々は道徳的に全く堕落し、ノアが語った洪水の警告にだれも耳を傾けなかったのです。神様を全く無視した時代でした。同じように恵みの時代も終末が近づくにつれ、増々世の中は乱れていくはずです。

E.神のさばき
 人々の不信仰に対する神様のさばきは、患難期と言う七年間の苦しみの時代です。そして患難期の終わりにイエス・キリストは天から地上に再臨され、すべての悪と不品行を行った者たちへのさばきを下されます。
Uテサロニケ1:8 そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。
1:9 そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。


F.神の備え 
 このディスペンセーションにおける神様の備えは、クリスチャンを患難期の前に救い出されることです。イエス・キリストが空中まで降りてこられ、クリスチャンを一挙に引き上げ天に戻られるのです。これを空中携挙と呼びます。
 Tテサロニケ 4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
  4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

 空中携挙が患難期の前に起こる事を示す御言葉は次の個所です。
 @Tテサロニケ1:10 また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。
 Aヨハネ 14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです
 BUテサロニケ2:6-7 あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現れるようにと、いま引き止めているものがあるのです。不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。
 ※引き止めるものとは、聖霊のことです。聖霊が取り除かれるときとは教会が携挙されるときです。そのあとに反キリスト(彼と呼ばれている)が登場することになります。
 Cまた、黙示録では、教会に対する啓示(3章まで)と患難期における災害の啓示(4章以降)ははっきり区別されています。この区別も教会が患難期において存在しないことの証明と言えるでしょう。
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 これまで述べてきたことは「恵みの時代」における教会に対しての神様のお取り扱いですが、それとは別にこの時代におけるイスラエルに対する神様のお取り扱いを理解しなければなりません。
 
A.与えられた責任
 この恵みの時代において、イスラエルに与えられた責任は「悔い改めて神様に立ち返る」ことでした。勿論、そこには福音を信じることも含まれるのですが、彼らはまず神様に立ち返ることが求められています。ペンテコステの日にペテロがイスラエルの人々を前にして語った説教はこの事をよく示しています。
 使徒2:36 ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
  2:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
  2:38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
  2:39 なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」
  2:40 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。

 ペテロの説教は悔い改めることに重点が置かれています。異邦人にパウロが伝えた「信じること」に重点が置かれた福音メッセージとは明らかに異なることに気づかれるでしょう。

B.人の失敗
 イエス様の初臨における宣教の目的は、イスラエルの滅びた羊を探して救うためでした。しかしユダヤ人が犯した失敗は、このイエス・キリストを王、メシアと認めず、十字架に架けて殺したことです。必然的に彼らは神様のさばきを受けることになりました。(本来ならこの部分は「王政の時代」における人間の失敗と神のさばきとして見ることがふさわしいのかもしれませんが、教会誕生に深く関わっていますので、あえて恵みの時代に加えています。)
マタイ27:24-25 そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」すると、民衆はみな答えて言った。「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」

C.神のさばき
 @彼らに対する神様のさばきは第一にエルサレム陥落です。イエス様はエルサレムに起こる悲劇を知り、涙されました。
 ルカ19:41-44 エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」
 事実、AD70年にエルサレムはローマ軍に攻め入られ、エルサレム神殿は焼け崩れ、エルサレムは陥落しました。
 
 A第二に、神様のさばきはユダヤ人から選民としての祝福を取り去り、異邦人に祝福が向けられたことです。パウロの言葉で言うならイスラエルはイエス・キリストにつまずき、かたくなになったのです。
 ローマ 9:32 なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。
 ローマ11:25 兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、

 ペンテコステの時には三千人ほどが弟子に加えられたと記録されていますが、イスラエルの歴史を見ていくなら、彼らはいまだにつまずきの石につまずいている状態です。

 B第三の神様のさばきは、患難期です。この期間はヤコブにとって「苦難の時」であるとエレミヤは預言していました。
エレミヤ30:7 ああ。その日は大いなる日、比べるものもない日だ。それはヤコブにも苦難の時だ。しかし彼はそれから救われる。
 イエス様も患難期を次のように預言されました。
マタイ24:21 そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。

D.神の備え
 患難期はイスラエルにとって最終的なさばきの時となるのですが、その中でさえ神様の備えがあります。不信仰を続けていた彼らが患難期において再び信仰復帰するという預言です。黙示録7章で神のしもべとして立てられるイスラエル人144000人がその代表です。そして生き残ったイスラエルの民の救いのためにイエス様が天から降りて来られ、地上再臨され彼らの王となられます。
ローマ11:25 兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、
11:26 こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。

 25節の「異邦人の完成の時」とは、教会が空中携挙されるときを指しています。その空中携挙の後にイスラエルの人々のかたくなな思いは取り除かれ、信仰復帰するとパウロは預言しています。それが患難期において起こることです。イスラエルは神の選民として再び信仰に立ち返り、イエス様が地上再臨されるときにはっきりと信仰を告白する者となるのです。聖書の中では「残りの民・レムナント」と呼ばれ、いつの時代においても「残りの民」がいると教えられています。 次のイザヤの預言は患難期においても残りの民(信仰に立つイスラエル人)がいることを明確に預言しています。
イザヤ10:20 その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家ののがれた者は、もう再び、自分を打つ者にたよらず、イスラエルの聖なる方、【主】に、まことをもって、たよる。
10:21 残りの者、ヤコブの残りの者は、力ある神に立ち返る。
10:22 たとい、あなたの民イスラエルが海辺の砂のようであっても、その中の残りの者だけが立ち返る。壊滅は定められており、義があふれようとしている。
10:23 すでに定められた全滅を、万軍の神、主が、全世界のただ中で行おうとしておられるからだ。

 また、この患難期はダニエル9章で天使ガブリエルがダニエルに示した七十週の預言の最後の一週に当たります。この七十週(1週は7年と計算すると490年になります)はイスラエルのために神様が定められた特別な期間です。
ダニエル9:21 すなわち、私がまだ祈って語っているとき、私が初めに幻の中で見たあの人、ガブリエルが、夕方のささげ物をささげるころ、すばやく飛んで来て、私に近づき、
9:22 私に告げて言った。「ダニエルよ。私は今、あなたに悟りを授けるために出て来た。
9:23 あなたが願いの祈りを始めたとき、一つのみことばが述べられたので、私はそれを伝えに来た。あなたは、神に愛されている人だからだ。そのみことばを聞き分け、幻を悟れ。
9:24 あなたの民とあなたの聖なる都(イスラエル)については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。
9:25 それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。(君主の来るまでが七週と六十二週、と訳した方が良い)
9:26 その六十二週の後、油そそがれた者(キリスト)は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主(反キリスト)の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。(その六十二週の後とは、七週と六十二週のうちの六十二週という事でつまり、六十九週の後と解釈します)
9:27 彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現れる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」

「恵みの時代」は六十九週と七十週目の間にあって、預言者の目には奥義として隠されていました。ですからダニエルは、キリストが断たれる時と反キリストが出現する時(患難期)を連続した出来事として預言していたことになります。

※恵みの時代のディスペンセーションでも、イスラエルと教会(異邦人)とは区別されていますが、この時代に救われるユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンに区別は全くありません。キリストを信じる瞬間に誰もが聖霊を与えられて新しく生まれ変わり、神の家族の一員、キリストの体(教会)の一部となるのです。そこには人種の違いも身分の違いもありません。キリストにあって私たちは一つとなるのです。このことを使徒パウロは何度も強調して伝えています。そしてイスラエル人と異邦人との区別が取り除かれることは神様の奥義だと述べています。
ガラテヤ 3:28 ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。
エペソ 3:6 その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。


8.千年王国の時代 

 このディスペンセーションはイエス・キリストが地上再臨されてから、千年間の支配の後、新天新地に更新されるまでの期間です。この時代の中心人物は王として統治される主イエス・キリストであり、聖書箇所は黙示録20章1節から15節までです。

A.新しい時代の啓示
 千年王国が打ち立てられる意義は大いにあります。
@聖書の預言の成就として
イザヤ 2:1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて示された先見のことば。
2:2 終わりの日に、【主】の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。
2:3 多くの民が来て言う。「さあ、【主】の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから【主】のことばが出るからだ。
2:4 主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。

Aアブラハムとの契約の完全な成就として(大いなる国民となる。約束の地に住む。アブラハムの子孫イエスによってすべての国々は祝福を受ける)
Bダビデとの契約の成就として(ダビデの王座が永遠に続く)
Uサムエル 7:16 「あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」

B.人に与えられた責任
 この時代における人間の責任は、王の王であるキリストに忠実に仕えることです。これは王政時代に人々に与えられた責任がずっと続いていることを示します。

C.祝福と呪い
 千年王国の時代において王に仕えることは難しいことではありません。なぜなら千年の間、サタンは封じ込められ、キリストが王の王として統治されるので世界には義と平和が満ちあふれ、不従順はすぐに裁かれるからです。
 呪いは記されていません。ただ、イザヤ書65章の預言を千年王国の状況と解釈するなら、次の事が記されています。
イザヤ65:20 そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。

D.人間の失敗
 この時代においても人間は失敗をします。千年王国の終わりに再びサタンは解き放たれ、人々を惑わすからです。反乱軍が組織され、聖徒たちの陣営に対して攻撃を仕掛けます。

E.神のさばき
 しかし反乱軍は天からの火によって焼き尽くされて反乱は失敗に終わります。そして父なる神が白き御座に座り、罪あるすべての人々に対する最後のさばきを行われます。

F.神の備え
 この時代における神様の備えは、新しい天と新しい地であり、万物が更新されることになります。
(黙示録20-21章参照)
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 各ディスペンセーションでは、人間に責任が与えられるのですが、すべての時代において人間は失敗を繰り返します。律法を守れと命じられても、王に従えと命じられても、人間は失敗しました。『恵みの時代』においては、人は何の行いも責任として要求されません。ただ福音を信じることだけが求められます。しかしそのことさえ人々は受け入れず、神の福音を拒否してしまうのです。エデンの園においても人間は失敗し、また千年王国時代のように輝かしい時代、義の支配する回復された環境、平和の満ち溢れた中で生活したとしても最終的に人間は惑わされ、神に背を向けてしまいます。だから「人は自分の内側にまったく善いものがない」ことを私たちは教えられます。神様からどれほど恵みをいただいても罪を犯してしまう弱い者であることを認めなければなりません。パウロが記した「律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」(ガラテヤ 2:16)という御言葉は真理です。だから私たちは目を天に向け、神の救いとその恵みを待ち望むのです。

 各ディスペンセーションにおいて神様はさばきを下されますが、同時に必ず人々の救いのために備えを与えられています。アダムとエバには罪の赦しの象徴である皮の衣が与えられました。大洪水のさばきの中で、神様は人類の永続のために箱船を造らせ、ノアとその家族を救われました。教会時代においては教会を天に携さえ挙げられます。これらの備えはその時代だけにとどまらず次の時代への基礎となっています。次のディスペンセーションに進みながら神様の御計画はますます明らかにされ、深みを増し、また次のディスペンセーションへと進んでいくのです。
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