心に響く聖書の言葉

6.ディスペンセーションの救い


 ディスペンセーションは時代を区分するので、いくつもの救いを教えているという誤解がありますが、ディスペンセーションでは救いの方法が時代ごとに異なっているとは考えません。聖書が示す救いの方法は、常に信仰によるのです。ただし、神の存在を信じるだけでは不十分であり、神のことばを信じる信仰が必要です。その救いの基礎は常に血による贖いであり、救いの条件は信仰です。これはすべての時代を通して変わらない真理であり、神様の救いの御計画です。では、各時代において永遠のいのちに至る救いはどのように示され、人々は救われたのかを見ていきましょう。

@罪のない時代における救い
 アダムに命じられたのは、
「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。」創 2:16-17
でした。神様はただ命じられただけでなく、その理由も説明されました。
「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」
 神様がアダムに求められたのは「善悪の知識の木から取って食べるなら死ぬ」と語られたことばを信じることでした。しかし、結果は誰もが知っている通りです。エバがまず木の実を食べてしまいました。「あなたがたは決して死にません」と言う蛇の言葉に惑わされてしまったのです。
Tテモテ2:14 また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました。
 エバは木の実を食べるとアダムにも取って与えました。「アダム、私が取って食べても大丈夫だったわよ。神様は私たちが死ぬとおっしゃったけど御覧の通り。あなたも食べなさいよ!」このような会話があったのでしょう。もしもこの時にアダムが毅然とした態度で「善悪の知識の木から取って食べるときに私たちは死ぬと神様がおっしゃったのだから食べてはいけない」とエバの差し出した木の実を振り払ったなら、彼は死ぬことはなかったでしょう。しかし、アダムはエバから受け取り、木の実を食べてしまいました。アダムは神様に敵対しようとか、反抗しようと考えたのではありません。罪がない状態だったのですから、肉の欲におびき寄せられたのでもありません。疑うということがなかったのかもしれません。彼の犯した失敗は、神様のことばを信じる以上に蛇の言葉とエバの言葉を信じたのです。ここに罪が入ってきた原因があります。そして歴史の中で人間が犯してきた失敗は、神様のことばより、人間の言葉や自分の考えを優先してきたことなのです。

 罪人となったアダムとエバに対する神様の備えは「皮の衣」でした。そこには動物がほふられ血が流されました。明記されてはいませんが、アダムとエバは自分たちの罪を贖うために血が流されたと理解したはずです。その信仰は彼らの息子のアベルに受け継がれ、アベルは羊の初子の最良のものを神様にささげています。罪の赦しのためには血が流されなければならない、という理解が彼らの信仰だったのです。

 ※罪のない時代に限って言えば、この時代には血による贖いと救いはありませんでした。それは人間に罪がなく、さばかれることがなかったからです。アダムとエバは全く無垢であり、神と顔と顔を合わせて交わることができました。その状態は彼らが神様のことばを信じ、従っている間は保たれていたのです。

A良心の時代における救い
 ヘブル11:4 信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。
 ヘブル 11:7 信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。

 良心の時代におけるアベルとノアについて、へブル人への手紙の著者はこのように記しました。ノアの洪水がさばきとして下されたとき、人々の生死を分けたのは神のことばを信じるか信じないかでした。
Uペテロ2:5 また、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えたノアたち八人の者を保護し、不敬虔な世界に洪水を起こされました。
 洪水のさばきについて神が語られたとき、ノアは神のことばを信じて箱船を造りました。そしてその神のことばを周りの人々にも宣べ伝えました。しかし信じてノアと共に箱船に入ったのはノアの妻と三人の息子たち夫婦だけでした。信仰によって彼らは神様のさばきから救われたのです。厳密に言うなら、彼らの地上でのいのちが救われたのですが、へブル人への手紙では「信仰による義を相続する者となりました。」と記されており、ノアは永遠の救いを受けたと理解できます。
 ノアとその家族が洪水から守られ、彼らが箱船から出た時、まずノアが最初に行なったことは次のことでした。
創世記8:20 ノアは、【主】のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。
 ノアはすぐに祭壇を築き、全焼のいけにえをささげました。この事はアダムの時から受け継がれてきた信仰だったのでしょう。罪の赦しのために血が流されなければならないという事をノアも理解していました。ノアの時代には律法はまだ制定されていませんでしたが、彼は全焼のいけにえを自発的にささげたのです。

B人間政治の時代における救い
 洪水後に神様がノアを通して語られたことは、
創世記9:3 生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。
9:4 しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。
9:5 わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。

と言うものでした。罪の赦しのために「血の価を要求する」と言われています。アダムの時代からこのことは「いけにえ」と言う形で既に行われていたのですが、神様のことばとして語られたのはこの時が初めてです。罪の赦しのためには血による贖いが必要であることが明示されました。

 この人間政治の時代はバベルの塔に象徴されます。洪水後、人間は増え広がり、町々を建設し、権力を持ち、高慢になりました。
「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」創世記11:4と言ってバベルの塔建設に着工しました。ここに示されているのは人間の不信仰です。「もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない」と言われた神様の約束に安住し続けるうちに、神様に信頼することを忘れ、自分たちの力に頼り、その力を誇示しようとしました。人々は信仰を捨て去ったのです。もしも彼らが主なる神に対する信仰を持って町々を建設したのであれば、それは神様の祝福として喜ばしい繁栄であったはずです。

C約束の時代における救い
 創世記15:5 そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」
15:6 彼は【主】を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

 アブラハムに語られた御言葉によって「信仰による救い」が明確にされました。使徒パウロはアブラハムが律法によってではなく信仰によって義とされたと記しています。
ローマ 4:11 彼(アブラハム)は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となりーー

 「血による贖い」も約束の時代において啓示されました。それは真っ二つに引き裂かれた動物(創世記15章9節〜)、割礼の儀式(創世記17章9節〜割礼には他に意味が含まれます)において見ることができます。そこでは必ず血が流されました。また、モリヤの山における犠牲の雄羊も血による贖いを啓示していました。
創世記22:13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。

 さらにイスラエルがエジプトへ下り、モーセに率いられてエジプトを脱出する際における過越の出来事の中に、血による贖いの啓示をはっきりと見ることができます。出エジプト12章参照

D律法の時代における救い
 律法の時代における神様の規定は「律法を守り行え」ですが、それはイスラエルに対して正しい生き方を教えられたものでした。エジプトを脱出したイスラエルの民の霊的状態は、長い奴隷生活とエジプトの偶像の習慣によってひどく乱れた状態でした。モーセがシナイ山に登っている間にも彼らはすぐに金の子牛を造って拝んだほどです。そのようなイスラエルに必要なものは正しい生活の規範でした。したがって十戒が与えられたことはイスラエルにとって恵みであったと言えます。もし人が律法を破り、罪を犯したときには罪の赦しが備えられていました。それはいけにえをささげることによって罪は赦されたのです。このいけにえはイエス・キリストの十字架による贖いを予表するものでした。動物のいけにえをささげさせることによって、罪の赦しのためには血が流されなければならないことを人々に教えたのです。レビ記には次のように命じられています。
レビ4:32 もしその人が罪のためのいけにえのために、ささげ物として子羊を連れて来る場合には、傷のない雌羊を連れて来なければならない。
4:33 その罪のためのいけにえの頭の上に手を置き、全焼のいけにえをほふる場所で、罪のためのいけにえとしてほふりなさい。
4:34 祭司は指で、罪のためのいけにえの血を取り、それを全焼のいけにえの祭壇の角に塗りなさい。その血は全部、祭壇の土台に注がなければならない。
4:35 また、和解のいけにえの子羊の脂肪が取り除かれる場合と同様に、その脂肪全部を取り除かなければならない。祭司はそれを祭壇の上で、【主】への火によるささげ物の上に載せて焼いて煙にしなさい。祭司は、その人のために、その人が犯した罪の贖いをしなさい。その人は赦される。

 
 律法は彼らの生活を正しい方向へ導くためのものでしたが、この律法の時代にあっても神様が人々に真実に求められていたものは「信仰」でした。次の御言葉はそのことを証明しています。
申命記8:18 あなたの神、【主】を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである。
 ヨシュアはイスラエルの部族の中に疑惑が生じたときに次のように言いました。
ヨシュア 22:15 彼らはギルアデの地のルベン族、ガド族、およびマナセの半部族のところに行き、彼らに告げて言った。
22:16 「【主】の全会衆はこう言っている。『この不信の罪は何か。あなたがたはきょう、【主】に従うことをやめて、イスラエルの神に不信の罪を犯し、自分のために祭壇を築いて、きょう、【主】に反逆している。


 律法の時代においても神様が求められたのは人々の信仰でした。律法が与えられた目的についてパウロは、イスラエルをキリストに導くためであったと記しています。
ガラテヤ 3:24 こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。
 次の御言葉は律法の時代においても恵みの時代においても救いの条件は信仰であることを教えています。
ローマ 3:30 神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。
ローマ 4:11 彼(アブラハム)は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、
ガラテヤ 2:16 しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。


E王国の時代における救い
T歴代 9:1 全イスラエルは系図に載せられた。それはイスラエルの王たちの書にまさしくしるされている。ユダは、不信の罪のために、バビロンに捕らえ移されていた。
 不信の罪によって王国は分裂し、イスラエルは捕囚の民として引きずられていったと聖書は何度も言葉を重ねています。
 ダビデ王がバテ・シェバと姦淫の罪を犯したとき、彼は罪を責められ、こう告白しました。
詩篇51:16 たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを望まれません。
51:17 神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

 ダビデは神様の御心を知っていました。罪を赦していただくためにはいけにえをささげて血が流されなければならないが、神様が真実に求められているのは私たちの悔いた心であるという事を。その信仰心がなければ、いけにえの血だけでは赦しは与えられない。だからダビデは続けてこう言っています。
詩篇51:19 そのとき、あなたは、全焼のいけにえと全焼のささげ物との、義のいけにえを喜ばれるでしょう。そのとき、雄の子牛があなたの祭壇にささげられましょう。
 ダビデの告白は次の事を教えます。「信仰があるときに血の贖いは有効となる」のです。つまり信仰がなければ「いけにえの血」は何の役にも立たないのです。

F恵みの時代における救い
 恵みの時代においては多くの聖書箇所において信仰による救いが示されています。
ローマ 5:1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
ガラテヤ 3:8 聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される」と前もって福音を告げたのです。
エペソ 2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。


 そして血による贖いについての真理は深く言及され、動物の血は不完全であり、キリストが流された血こそ完全で、すべての人の罪の赦しのために流されたと証明されています。
ヘブル9:11 しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、
9:12 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。
9:13 もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、
9:14 まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。
Tヨハ 1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。



G千年王国時代における救い
 千年王国のスタートは信仰者のみであり、地上再臨された義なる王キリストが支配されるのですから、人間社会は多くの問題から解放されます。人々は義と平安を楽しみ、寿命も長くされ、自然界もその束縛から解放されて生き生きとします。しかし、次第にこの千年王国においても信仰を持たない次世代が生まれてきます。彼らに与えられる責任は、王の王であるキリストを認めて従うことです。王キリストがかつて架けられた十字架によって私の罪を贖ってくださったことを学び、キリストが自分の贖い主であることを信じて歩むことが彼らの責任です。ですから千年王国の時代にあっても信仰が救いの条件であり、イエス様の十字架の血による贖いが救いの基礎です。 

※すべての時代においての救い
 パウロがハバクク書から引用した次の御言葉はすべての時代において共通した真理として語られています。
ガラテヤ 3:11 ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」のだからです。
 またへブル人への手紙の中では律法の規定に触れて次のように述べられていますが、この御言葉も神様の真理として永遠に変わらないものです。
ヘブル9:22 それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。
 したがって信仰による救いと、血による贖いは神様のディスペンセーションすべてにおいて有効であり、そこにイスラエル人と異邦人の区別はないのです。
-------------------------------------------------
 律法時代における救いについてもう少し説明を加えたいと思います。律法時代において、人々はどのように救われたのでしょうか?モーセの律法の規定によるなら、いけにえをささげることによって人々の罪は赦されたことが明記されています。
 レビ 1:4 その人は、全焼のいけにえの頭の上に手を置く。それが彼を贖うため、彼の代わりに受け入れられるためである。参照レビ4章
 しかし新約聖書では、いけにえは罪を取り除くことができなかったと断言しています。
 ヘブル 10:4 雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。
 ローマ 3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

 この矛盾の解決は次の通りです。
 いけにえをささげることは、律法に反する罪を犯した時にささげることが規定されています。人々は罪を犯した時にいけにえをささげさえすれば、自動的に犯罪は赦され、神様の選民であるイスラエルの民として受け入れられたのです。明確に言えば、彼らの霊的状態に全く関わらず、信仰を持っていてもいなくても彼らが犯した律法における罪は赦されたのです。しかし永遠のいのちに至る霊的救いについては、動物のいけにえは何の効力もありませんでした。霊的救いに必要なものは「信仰」に他なりません。
 ヘブル 11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。
 ですから、いけにえをささげる人が神様に対する信仰を持って歩んでいることが永遠のいのちに至る救いの唯一の条件でした。しかし信仰を持っている人もいけにえをささげなければなりませんでした。それは神様が律法時代に命じられたことであり、罪を犯した時には必ずささげなければなりませんでした。これは矛盾ではありません。なぜなら信仰を持っている人であるなら、神が定められた律法の規定に従おうとするはずだからです。

 ここで一つ、問題となるのは契約神学者が言うように、「彼らはいけにえをささげるときにキリストの贖いを信じてささげたので彼らは救われた」とし、すべての時代の人は「同じ約束、同じ救い主、同じ条件、同じ救い」によって救われるという解釈です。つまり「すべての時代において、人は救い主イエス・キリストを信じることによって救われる」という救いの定義ですす。この考えは次の聖句等から導かれました。
@ヘブル 11:26 彼(モーセ)は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。
Aヨハネ 8:56 あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」
B詩篇 16:10 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。
Cヨブ19:25-26 私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。

 モーセ、アバラハム、ダビデ、そしてヨブも、キリストを信じて救われたとし、旧約時代の人々はメシア預言を通してはっきりとキリストの来臨と贖いを知ることができたはずである、と考えています。つまり、旧約時代の人々もキリストを信じる信仰によって救いを得たのだとするのです。しかし、それはあまりにも新約聖書を旧約聖書に読み込みすぎであり、今の恵みの時代を中心に考える人たちが陥りやすい点です。
 旧約時代における人々が皆、モーセたちのように霊的洞察を持つことができたでしょうか?それは不可能と言えるでしょう。では、キリストについての十分な霊的洞察を持てなかった信仰者たちは救われなかったのでしょうか?ーーいいえ、聖書はそのように教えていません。次の御言葉を参照します。
Tペテロ1:10 この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。
1:11 彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。

 旧約聖書の預言者たちですら自分たちが語った預言が誰を指して何を示しているのか、分からなかったので熱心に調べたのです。それで理解できた預言者もいたでしょうし、理解できなかった預言者もいたはずです。まして一般の信仰者たちが皆そのような理解を得ることは不可能に近いことです。またメシア預言を語ったダビデやイザヤは王国の時代でしたから、それ以前の時代の人たちはメシア預言を聞くこともできませんでした。それなのにキリストの贖いについて十分に知っていたとするなら、飛躍のし過ぎだと言えるでしょう。
 いけにえをささげる人にはある程度の霊的洞察はあったでしょう。それは自分の罪を赦されるために血が流されなければならないということです。血を流すことなしに罪の赦しはないという真理を理解できたでしょう。しかし、それ以上の理解は困難でした。ですから、彼らが救われたのは、ただ神様に対する信仰であったと言えます。神様は彼らが信仰を持ってささげたいけにえの中に、後に来られるキリストの十字架による贖いの効力を認めて、旧約時代の聖徒たちの罪を赦し、永遠のいのちを与えられたのです。

 律法時代より前の時代についてさらに言うなら、それらの時代には神様の言葉の啓示や書簡が不足していたため、動物のいけにえをささげることがなかった信仰者もいたでしょう。肝心なのはどの時代においても、神の存在を信じ(神様の存在を信じるだけでは救われません。なぜなら悪魔や悪霊でも神の存在を信じているのですから)、自分の罪を認めて神様に罪を赦していただくという信仰を持つことです。

 救いについてのディスペンセーションの立場をまとめると次のようになります。
@すべての時代において救いの基礎(源)は、キリストの十字架による贖いです。
Aすべての時代において救いの条件は、神様に対する信仰のみです。
Bその信仰の内容は時代ごとに示された神様の啓示によって異なります。
次へ   神様のディスペンセーションTOPへ