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心に響く聖書の言葉


死を覚悟した行動 エステル記4章



1.プリムの日

 プリムの日(プーリムの日)はユダヤ人教会(ユダヤ教)で現在でも盛大に祝われている祭りの日です。聖書のエステル記に登場する悪大臣ハマンの陰謀により、ユダヤ人たちは危うく絶滅されかけたのですが、王宮に仕えていたモルデカイと王妃エステルの死を覚悟した行動により奇跡的に救われ、災いが喜びに変わった日として祝われています。



 この日にはユダヤ人教会シナゴグにて必ずエステル記朗読があります。シナゴグでは音の出るオモチャを持ち、朗読中に悪大臣「ハマン」の名前が出てくる都度、全員が音を出してその名前をかき消します。また、この日には男が女の服装を着たりして仮装しても良いとされていたり、エステル記を題材とした寸劇も行われます。子供達は様々な仮装をして楽しみ、普段あまり酒を飲まない大人も大酒を飲んでも良いことになっています。このほか、ハマンタッシェンと呼ばれる三角のお菓子を食べる風習や、貧しい人にプレゼントや施しをする風習もあります。

2.神様の導き

 エステル記を読んで示されることは、神様がイスラエル選民を特別な導きを持って守られて来たことです。
@孤児であったエステルが、王妃に選ばれたこと。
Aユダヤ人殺害計画が進められる中で、王は眠れず年代記を読み返し、モルデカイに褒美を与えたいと思ったこと。
Bその褒美を与えられるのは自分だとハマンが勘違いをしたこと。
C当時、女性が王国の政治や法律に口出しすることは認めらず、王の許可無く王の前に出ることでさえ死刑となりました。それなのに、エステルの願い(ユダヤ人を救ってほしいという)を王が聞き入れたこと。

 このように不思議な導きが幾重にも重なっていました。古代民族であるイスラエル選民が滅びずに現在まで存続しているのはまさに神様の不思議によることです。同様に、神様は全世界の人々に導きを与えられており、罪人を救われる方法も不思議な導きによるのです。

3.人間の応答

 この神様の導きは、運命とは異なります。人間は神様が作られたベルトコンベアーに乗せられて、選別されるのを待っているのではありません。常にあなた自身での決心と決意が必要です。次のモルデカイに対するエステルの返事は私たちがしなければならないことを教えています。

4:13 モルデカイはエステルに返事を送って言った。「あなたはすべてのユダヤ人から離れて王宮にいるから助かるだろうと考えてはならない。
4:14 もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」
4:15 エステルはモルデカイに返事を送って言った。
4:16
「行って、シュシャンにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食をしてください。三日三晩、食べたり飲んだりしないように。私も、私の侍女たちも、同じように断食をしましょう。たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」

@断食の要請
 エステルはユダヤ人に三日三晩の断食を要請しました。断食は特別な祈りがあるときに行うもので、新約聖書においても実践が勧められています。エステルは窮地に立たされたユダヤ人たちに祈りの要請をしたのです。神様の導きは私たちの祈りとともに働くことをエステルは知っていました。


※「
三日三晩」は聖書中、重要な数字となっています。それはイエス様が十字架上で死なれ、墓に葬られていた期間を啓示しているからです。また、三日三晩は信仰者の生活においても適応できるものでしょう。ひとりのクリスチャンの婦人が次のように話されました。「私は大きな困難や問題が起きたときに対処する秘訣を心得ています。それは聖書が示すように三日間考えてから行動することです」
 もちろん三日間で解決しないこともあるでしょうが、三日という日数を置くことで、多くの誤った判断から救われることは確かです。
 聖書中に登場する「三日三晩」は、他にもヨナが大魚のおなかにいた日数や、パウロが復活の主に会った後、目が見えなくなった日数などがあります。三日三晩は信仰者にとっては、試練の期間、苦難の期間、考える期間、準備する期間となっていることがわかります。それは祈るための期間とも言えるでしょう。

A 犠牲となって死ぬ覚悟
 エステルの返事には、犠牲となって死ぬ覚悟が記されています。これは聖書全体の福音の原点をなすものです。人々を救うために死を覚悟すること。自分が犠牲となって人を救うという覚悟。これがイエス・キリストの十字架のメッセージなのです。罪深い人間のために罪を一度も犯さなかったイエス様が、ご自分の身を犠牲にして救いを提供されたのです。

 この「犠牲となって死ぬ覚悟」は旧約聖書においても啓示されています。モーセは罪を犯したイスラエル人の救いを願って次のように神様に懇願しました。

出エジプト記32:31 そこでモーセは【主】のところに戻って、申し上げた。「ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。
32:32 今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら──。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」


 また新約聖書でも、使徒パウロが次のように神様に祈っています。
ローマ9:2 私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。
9:3 もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。




 犠牲の死と言えば、日本では塩狩峠(北海道和寒町わっさむ)で起こった出来事が知られています。塩狩峠は天塩(てしお)と石狩の境にある険しく大きな峠です。明治42年2月28日の夜、急坂を登りつめた列車の最後尾の連結器が外れ、客車が後退をはじめました。乗り合わせていた鉄道職員・長野政雄さん(クリスチャン)がとっさの判断で、線路に身を投げ出し自分の体で客車を停止させました。長野さんは殉職、乗客は救われたのです。

 人のいのちを救うために犠牲を払って苦しむ人は、本当に賞賛されるべき愛の人です。イエス・キリストの福音の真理もここにあります。もしあなたが隣人を永遠のいのちに導くために苦しむなら、それは神の御心にかなった尊い働きです。