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心に響く聖書の言葉


宣教の熱意 ローマ人への手紙10章1-15節



1.宣教は熱意から

10:1 兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。

 使徒パウロはかつてはクリスチャンを激しく迫害し、神の敵として歩んでいた人でした。そのときパウロの前に復活されたイエス様が現れて彼を救いに導き、異邦人に福音を宣べ伝える使徒として任命されました。パウロはその罪をイエス様の十字架によって赦されたことを心から感謝し、このことがパウロを福音宣教へと駆り立てました。一人でも多くの人々にイエス・キリストの福音を伝えたいという熱意。宣教はこの熱意から始まるのです。

 現在の日本は目覚ましい経済発展を遂げたため、唯物論国、物質主義国に傾いています。人々は流行を追い求め、新しいものを見聞きすることを楽しみとして生活しています。そのため既存の古い宗教に対しては冷めた感情しか持てません。それゆえ日本での福音宣教は難しい状況です。

 では日本人はもう救われないのでしょうか?リバイバルは起こらないのでしょうか?――そうではありません。物であふれた世の中にあって、心が満たされず苦しんでいる人が大勢いるからです。渡る世間は鬼ばかりでも、鬼におびえている人がいます。いやその鬼の仮面をかぶった人自身、鬼の面の下で泣いている人がいるのです。罪が蔓延した社会だからこそ、罪の赦しが必要なのです。
 イエス・キリストは「罪人を救うために来られた」ということばは本当です。

2. 宣教は正しい知識によって

10:2 私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。
10:3 というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。

 宣教は熱意から始めるのですが、熱意だけの宣教であってはいけません。正しい知識を身に着けなければなりません。ユダヤ人はモーセの律法を与えられたことに安住し、ただ表面的に善い行いをするだけで救われると勘違いしました。律法に書かれてあることを守ってさえいれば永遠のいのちをいただけると考えたのです。しかしそれが誤りであることを聖書は教えています。『人は信仰によって救われる』のです。

 その信仰についても間違った考えを持つ人が多いのです。
「信仰することが大切だから、何でも信じて拝んでさえいれば良いんだよ!」と言う人がいたり、「私は自分を信じて生きています。私の人生では私が主人公ですから。」と答える人もいます。自分があたかも神であるかのように、自分の人生は自分ですべてコントロールできると考えるのです。

 しかし事実はそうではありません。人は自分の寿命を一日でも伸ばすことが出来ないし、死の時がいつなのかもわかりません。神がいのちを与えておられることに気付かず、死後について全くの無知です。そんな無知の時代を神はさばかれると聖書は警告しています。

使徒17:30 神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。
17:31 なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。


 神様の存在とその御計画を知らずに自分の理解や判断だけで生きることはとても恐ろしいことなのです。従って福音を宣教する人は、真理の御言葉である聖書の教えを深く学び、よく理解しなければなりません。罪について、義について、さばきについて理解し、救いの知識を身に着けなければなりません。宣教者は真理の御言葉の証人として立たなければならないのです。

3.宣教は福音を伝えること

10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
10:11 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
10:12 ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。
10:13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。


 宣教者は福音を伝えることが最大の使命です。宣教者が世間話や自分の体験談ばかり話すなら、がっかりさせられます。宣教とはイエス・キリストの福音を伝えることです。十字架と復活の福音こそ人々に罪の赦しと永遠のいのちを与え、人々を罪の奴隷から解放し、神の子どもとし、平安と希望と喜びに満たすことができるのです。

「いまの社会を良くしていこう!」と言うのは福音ではありません。福音が語られない伝道集会はむなしいとしか言えません。せっかく求道者が集会に来られても、楽器の演奏と説教者の楽しい話を聞くだけなら、聖書朗読だけのほうがまだましです。福音が語られない教会の玄関には、イエス様が悲しい顔をして立っておられ、「この教会に私は入れてもらえないのです」と嘆いておられます。

4.宣教には宣べ伝える人が必要

10:14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。
10:15 遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」


 宣教のためには宣べ伝える人が必要であることは言うまでもありません。しかし、前述したように宣教する人はだれでも良いのではなく、熱意を持ち、聖書を学んで真理の知識を持つ人でなければなりません。その人はイエス様が遣わされた使節であり、尊い働きを委ねられるからです。

Uコリント5:18神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
5:19 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。
5:20 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。


 イエス様がエルサレムへ入城されるとき、子ロバを必要とされました。それで弟子たちに命じて子ロバを探させに遣わされました。弟子たちが、つながれた子ロバを見つけて綱を解いたとき、子ロバの持ち主が現れて「綱を解いてどうするつもりだ?」と問うと、弟子たちは「主がお入用なのです」と答えました。――主イエス様がこのロバの子を必要としておられる!――その言葉はあなたにかけられた言葉だと感じませんか?



 預言者イザヤが神殿において神の栄光を見たとき、自分が罪深い人間であることを示され、死を覚悟しました。しかし炭火を持ったセラフィムが飛んできてイザヤの口に触れたとき、罪が赦されたことを知りました。その時、イザヤは主の御声を聞きました。
イザヤ6:8「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」

 イザヤは主に答えました。
「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」
――神様はイザヤのように応答する人を探しておられます。

 使徒パウロは次のように告白して、福音のことば自体に救いを与える力があることを示しました。
ローマ 1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。

――ですから自分の能力や才能によって宣教するのではありません。

 宣教は、難しい理論や哲学について話せと言うのではありません。あなたが信じているイエス様について話せばよいのです。成功か失敗かを問われることもありません。

 確かに宣教には準備が必要ですし、試練と困難ばかりの働きです。いのちがけの任務です。しかし私たちの人生は永遠の前ではほんのわずかな時間です。そのわずかな生涯を主の福音のためにささげる熱意ある人が必要です。主イエス様が宣教者を必要としておられます。

 あなたはこの招きに何と答えられるでしょうか?