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心に響く聖書の言葉


クリスチャンになるということ ルカによる福音書15章1-10節

 今回のタイトルは「クリスチャンになるということ」です。私は18歳のときにイエス・キリストを信じてクリスチャンになりましたが、30年近く経った今もイエス・キリストを信じていることがうれしくてたまりません。また、教会にクリスチャンの皆さんが来られて共に礼拝を持てること、皆さんがイエス・キリストを信じて喜んで仕えられている姿を見ると感謝があふれます。聖書の福音はグッドニュース(良き知らせ)です。どんな罪人をも救い、立ち上がらせ、喜びに満たします。今日の聖書箇所はそのことを教えています。

1.百匹の羊のたとえ
 ルカによる福音書15章には三つのたとえ話が続きます。(百匹の羊、失くした銀貨、放蕩息子)これらは別々のことを教えているのではなく、一つの線で結ばれており、著者ルカがその福音書の中で最も示したかった真理だと言えるでしょう。聖書注解書には、この箇所は「ルカ書の心臓部」だと書いてありました。
15:1 さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。
15:2 すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」
15:3 そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。
15:4 「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
15:5 見つけたら、大喜びでその羊をかついで、
15:6 帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。
15:7 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。

 いなくなった1匹の羊のために危険を冒して見つけるまで捜し歩く羊飼い――それは救い主であるイエス・キリストの姿です。そして道に迷い、さまよう羊は――神様から離れ、罪を犯し続ける人間の姿です。
 羊の群れでは、迷い出るアウトロー的な羊がよくいるそうです。見張っていないと群れから外れてしまい、穴ぼこに足をとられてひっくり返り、穴に落ち込んでしまいます。そうなると羊は立ち上がれません。泥まみれになり、もがき苦しみながら死んでしまいます。その状態はまさに神様から離れた人間と同じです。自分の思いのまま生きようとしても、実は不安で、心配で、孤独です。そのような人をイエス・キリストは懸命になって探し、見つけて救ってくださるのです。

2.十枚の銀貨のたとえ
15:8 また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。
15:9 見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。
15:10 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」

 今度は女性が登場します。なくした銀貨を探す姿が記され、銀貨を見つけると大喜びです。
 私も最近よく探し物をします。昨日、デジカメを使おうと思い、探すとすぐに見つかったのですが、充電用アダプタが見つかりません。どこへ置いたか見当も付かず、部屋のかたっ端から探したのですがそれでも見つかりません。次第に自分自身が情けなくなってきました。――半ば諦めつつ探し続けて、やっと見つけたときは大喜びでした。しかし探すのに疲れて、デジカメの充電どころじゃなく私のほうが充電しなければなりませんでした。

 どうしても必要なものなら私たちは諦めず探します。一つしかない家の鍵、車の鍵、高価な電化製品が壊れたときの保証書、子どもの入学願書、年金手帳やパスポート等。懸命になって探します。けれど100個同じ鍵があったらどうでしょう?一個なくしても諦めがつきます。10台余っているテレビがあれば一台壊れても気になりません。それどころか壊れかけたもの、駄目なもの、役に立たないものは処分したほうがいいと思います。では人間もそうでしょうか?
 1−2節を読むと、当時の宗教指導者たちは、罪を犯している人間には神様の祝福や救いは与えられないと考えました。神様に祝福されるのは律法を守っている者だけ、品行方正な者だけであり、犯罪者は論外だと。壊れかけた人間、駄目な人間、役に立たない人間は要らないと考えたのです。その考えが誤りであることを示すためにイエス・キリストは3つのたとえ話をされたのです。
 神様の御心は、100匹のうちの1匹であっても、10枚のうちの1枚であっても、失くしたら懸命になって探す――それは失われた人のことです。イエス・キリストは言われました。「人の子は、失われた人を探して救うために来たのです。」ルカ19章10節
 もしも世界中で罪びとがあなただけだったとしても、イエス・キリストはあなたのために十字架に架かり、あなたの罪の身代わりとして死んでくださったでしょう。なぜなら、 「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」ヨハネ 10:11、とイエス様自身が語られたからです。一人の罪びとが悔い改めて神様のもとに立ち返ることを神様は切に願っておられるのです。

 あなたは今、イエス・キリストの救いを受けて神様の祝福をいただいているでしょうか?それとも福音を拒み、自分の思いのまま歩まれているでしょうか?もし後者なら、ぜひ知っていただきたいことがあります。人はおのおの自分の行いに応じてさばかれると聖書は警告しています。罪びとには逃れられない地獄の苦しみが定められています。ですから私たちには罪の赦しが必要です。その罪の赦しを与えるためにイエス・キリストが十字架に架かり、身代わりの死を遂げてくださいました。イエス・キリストは一度も罪を犯されなかったのに、人の罪を背負って十字架の上で神のさばきを受けられたのです。このキリストの犠牲の死を受け取るならあなたの罪は赦されます。神様は約束した救いの確証のためにイエス・キリストを墓の中より三日目によみがえらせてくださいました。キリストの救いは、良い人にも悪い人にも、富んでいる人にも貧しい人にも、大人にも小人にもすべての人に与えられています。その救いの条件はただ信仰によるのであって、行いによるのではありません。それは、どんな人でも神様の救いと祝福を受けることができるためです。

 クリスチャンになるということは、神様に背を向け、自分勝手な道を歩んでいたあなたが、神様に向き直り、神様の元に返ることです。放蕩息子が自分の情けない歩みを悔い改めて父の家に帰ったように、神様に立ち返ってください。イエス・キリストは、失われた人を探して救うために来られたのです。