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心に響く聖書の言葉


存在する神 イザヤ書45章

1.存在する神
45:5 わたしが【主】である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。
45:6 それは、日の上る方からも、西からも、わたしのほかには、だれもいないことを、人々が知るためだ。わたしが【主】である。ほかにはいない。
45:7 わたしは光を造り出し、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは【主】、これらすべてを造る者。」
45:18 天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方、すなわちこれを堅く立てた方、これを茫漠としたものに創造せず、人の住みかにこれを形造った方、まことに、この【主】がこう仰せられる。「わたしが【主】である。ほかにはいない。
45:19 わたしは隠れた所、やみの地の場所で語らなかった。荒地で、ヤコブの子らにわたしを尋ね求めよと言わなかった。わたしは【主】、正義を語り、公正を告げる者。
45:20 諸国からの逃亡者たちよ。集まって来て、共に近づけ。木の偶像をになう者、救えもしない神に祈る者らは、何も知らない。
45:21 告げよ。証拠を出せ。共に相談せよ。だれが、これを昔から聞かせ、以前からこれを告げたのか。わたし、【主】ではなかったか。わたしのほかに神はいない。正義の神、救い主、わたしをおいてほかにはいない。
45:22 地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。

 イザヤ書45章には『
わたしが主(神)である。ほかにはいない』と、父なる神様のことばが5節、6節、18節、21節、22節に記されています。同じことばが繰り返されているのは、神様が私たちに何としても知ってもらいたいことだからです。神様の切なる願いなのです。

 親元を離れて住んでいる一人の男性が、久しぶりに故郷に帰りました。故郷の駅に降りると、ばったり幼なじみに出会いました。『やあ、久しぶり!僕だよ。なつかしいな〜。』と声をかけると、その幼なじみは戸惑った顔で「すいません。人違いだと思います。」と言いながらそそくさと離れていきました。「なんだ、僕のことを忘れてしまったのかな〜?」とがっかりしながら実家に帰りました。『ただいま、久しぶりに帰ってきたよ』と玄関で叫ぶと、奥から母親が出てきて言いました。『どちらさんでしょうか?』「僕だよ、何を言っているの?冗談はやめてよ!」母親は困ったような顔で「悪ふざけはやめてください。私にはあなたのような子どもはいません。早く出て行ってください。警察を呼びますよ!」と言いながら玄関をぴしゃりと閉めてしまいました。ーーーもしあなたがそのような経験をしたならどうでしょう?きっと必死になって自分のことを分かってもらおうとするに違いありません。忘れられたり、自分の存在を認めてもらえないことほど惨めなことはないからです。
 ましてや、天と地の創り主であり、人間の創造者である神が忘れ去られているとしたらどうでしょう。神様は私たちに何と言われるでしょう?――「わたしが神である!」と叫ばれるのは当然です。実にまことの神様は歴史の中で常にそのように告げて来られたのです。

2.偶像の神
 『わたしが神である』と言われたあと、『ほかにはいない』と神様は付け加えておられます。その理由は、人間が本当の神を礼拝しないで、偽物の神を造って自分勝手な礼拝をささげるようになったからです。同じイザヤ書の44章12−17節では、偶像を造る人々の愚かさを記しています。
44:12 鉄で細工する者はなたを使い、炭火の上で細工し、金槌でこれを形造り、力ある腕でそれを造る。彼も腹がすくと力がなくなり、水を飲まないと疲れてしまう。
44:13 木で細工する者は、測りなわで測り、朱で輪郭をとり、かんなで削り、コンパスで線を引き、人の形に造り、人間の美しい姿に仕上げて、神殿に安置する。
44:14 彼は杉の木を切り、あるいはうばめがしや樫の木を選んで、林の木の中で自分のために育てる。また、月桂樹を植えると、大雨が育てる。
44:15 それは人間のたきぎになり、人はそのいくらかを取って暖まり、また、これを燃やしてパンを焼く。また、これで神を造って拝み、それを偶像に仕立てて、これにひれ伏す。
44:16 その半分は火に燃やし、その半分で肉を食べ、あぶり肉をあぶって満腹する。また、暖まって、『ああ、暖まった。熱くなった』と言う。
44:17 その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って『私を救ってください。あなたは私の神だから』と言う。


 なぜ人は偶像を造りたがるのでしょうか?その理由は単純です。
 1.目に見えるから礼拝しやすい。
 2.ものを言わないから、自分勝手な礼拝ができる。
 3.ポータブル。(大仏は無理ですが)
 4. 商売になるから。彫刻した像をただ売るだけなら儲けは少ないですが、「これは仏様だ、神様だ!」というと値がつけられないほど高額になります。仏壇や仏具、神具なども高価です。
 神が目に見えないお方だと言うことを利用して、人は自分勝手な神々を造って礼拝し、そして多くの人々が商売をして儲けているのです。

3.目に見えない神
 また、神が目に見えないお方だということを利用して、多くの人が神を信じないことを正当化しています。「神を私に見せてください。そうすれば信じますから。」――そう話した男性に宣教師が言いました。『あなたは奥さんを愛していますか?』「はい、愛していますが。」『それではその愛を私に見せてください』――戸惑う男性に宣教師は言いました。『神様も同じです。本当に大切なものは目に見えないのです』

 人が神を信じない理由には、『見えないから』の他にもう一つあると言えるでしょう。歴史がそれを証明しています。約二千年前、神は一度人となられ、この地上を歩まれました。人の子として、イエス・キリストとしてこの世に来られ、神の真理を語り、神の奇跡を行われました。そして神について、罪について、さばきについて、永遠のいのちについて説き明かされました。ではキリストを見た人たちは信仰に入ったでしょうか?――確かに信じた人も多くいました。しかし権力者たちは自分たちの地位を失うことを恐れ、商売人は商売ができなくなるのを恐れ、イエス・キリストを憎み、殺害計画を立て、イエス・キリストを十字架に架けて殺してしまったのです。
 彼らが神を信じなかった理由は、神が目に見えないからではありません。自分の思い通りの神ではなかったからです。彼らは自分たちの願いを聞いてくれ、思い通りに動かせる神のほうが都合が良かったのです。自分の罪を指摘されたり、心の醜さを責められたくないのです。つまり、神を信じない原因は、心にある罪なのです。心の中に醜いところがあるから、やましい部分、人に見せられない汚い思いがあるから、神に目を向けることができないのです。そのため生きる理由がわからず、生きる目的、生きる喜びを失っているのです。

4.救われる神
 神様は人間に次のように語られました。
45:22 「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」
 神様が与えられた福音は、『わたしを仰ぎ見て救われよ!』です。神様は私達の弱い部分をつついて責め立てるお方ではありません。あなたの弱さを知り、ただ『わたしを仰ぎ見て救われよ』と願われています。「心を清めなさい、生き方を変えなさい、罪を捨てなさい、悪い性格を変えなさい、だらしない生活をやめなさい・・・」と命じられたら、多くの人は「もう分かりました。いいから放っておいて!」と投げ出してしまうでしょう。
 神様の福音は、『わたしを仰ぎ見て救われよ』ただそれだけです。かつてモーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエル人は、荒野で神様に不平不満を口にしました。そのとき神様が送られた毒蛇に噛まれて多くの人が死んでしまいました。そのとき主はモーセに「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」と命じられました。蛇にかまれて死にそうになった者は、その青銅の蛇を見上げると癒され、生きることができたのです。
 なぜ青銅の蛇を見上げるだけで助かったのかはモーセにもよく理解できなかったでしょう。しかし今、私たちはその意味を知っています。それは、イエス・キリストが私達の罪の刑罰を身代わりとなって受け、十字架に架かり、死なれることを予表していたのです。蛇は聖書の中では呪われたものの象徴であり、また木に架けられた者は呪われた存在でした。イエス・キリストは私達の罪をその身に背負い、まさしく呪われた者となって木(十字架)に架かり、死んでくださったのです。そして呪われた青銅の蛇を仰ぎ見るだけで救われたのは、十字架に架けられたイエス・キリストを信じるだけで救われることを示していたのです。父なる神はこの救い主キリストを墓に葬られたままにせず、三日目によみがえらせ、人々に福音の確かさを示されました。キリストの十字架こそ神様が人間に備えられた唯一の救いの方法なのです。
 あなたが今、十字架に架けられたイエス・キリストを、自分の救い主として仰ぎ見るとき、あなたのいっさいの罪は赦され、永遠のいのちが与えられると聖書は約束しています。目に見えないからとか、今は必要でないとか理由をつけて神を信じることを後回しにしないでください。神様は確かに存在され、あなたが信仰を持って生きることを願われています。
確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」Uコリント6:2