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心に響く聖書の言葉


クリスマスを待ち望む ルカ2章25-39節



1.クリスマスを待ち望む人たち

 クリスマスは喜びの日です。プレゼントを買い、クリスマスカードを書き、飾りを取り付けパーティ―を計画したりしてクリスマスを待ち望んでおられる方々も多いことでしょう。

 クリスマスが近くなると私はいつも、クリスマスの日を心から待ち望んでいた二人の老人を思い出します。一人はシメオンというお爺さん、もう一人はアンナというお婆さんです。彼らは聖書の中に登場する人たちで、救い主キリストの誕生を今か今かと待ち望んでいた人たちでした。

 シメオンについては次のように紹介されています。

2:25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた。また、聖霊が彼の上におられた。
2:26 そして、主のキリストを見るまでは決して死を見ることはないと、聖霊によって告げられていた。

 アンナについては

2:36 また、アシェル族のペヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。この人は非常に年をとっていた。処女の時代の後、七年間夫とともに暮らしたが、
2:37 やもめとなり、八十四歳になっていた。彼女は宮を離れず、断食と祈りをもって、夜も昼も神に仕えていた。

 彼らの生きていた時代は、楽な時代ではありませんでした。ローマ帝国の支配下に置かれ、人々は圧政と貧困に苦しんでいました。そのため多くのユダヤ人は聖書で預言されたメシア、救い主の誕生を待ち望む信仰が強くなっていきました。しかし宗教指導者たちは儀式や形式に縛られ、純粋な信仰から離れてしまい、律法主義と言う形骸化した宗教に陥っていました。

 その暗い時代の中で、この年老いた二人の信仰は飛びぬけて光り輝いています。彼らは純粋に聖書のことばに耳を傾け、聖書が約束しているキリスト誕生の預言を信じ、待ち望んでいたのです。

 私はクリスチャンとして歳を重ねていくときに彼らのように歩みたいと願います。若いときにはやりたいことや自分の目標や興味が多すぎて、それを実現するために懸命に祈り、働きます。しかしそれはいつも自分中心です。また、さまざまな誘惑や肉の欲のためになかなか自分が思うように正しい歩みができず、自分自身の弱さに嘆くことが多いものです。

 しかし歳を重ねるとその欲から次第に解放されていくでしょう。目はかすんでくるが、物事ははっきり見えるようになる。耳は遠くなるが、神様のみ声はしっかり聞き取れるようになる。言葉数は少なくなるが、神様との会話は多くなる。シメオンとアンナはそういう人たちだったに違いありません。

 ですから、幼子イエスがその両親の腕に抱かれてエルサレムの神殿に来たとき、彼らにはそれが約束の救い主であることがすぐに分かったのです。第六感という言葉がありますが、聖書的に言うなら「御霊の働き、信仰のなせるわざ」です。神様のご計画の中で極めて重大な出来事のその瞬間を、彼らが見逃すはずがなかったのです。

2:27 シメオンが御霊に導かれて宮に入ると、律法の慣習を守るために、両親が幼子イエスを連れて入って来た。
2:28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
2:29 「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。
2:30 私の目があなたの御救いを見たからです。
2:31 あなたが万民の前に備えられた救いを。
2:32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を。」
2:38 ちょうどそのとき彼女(アンナ)も近寄って来て、神に感謝をささげ、エルサレムの贖いを待ち望んでいたすべての人に、この幼子のことを語った。



 特に注目していただきたいのは、「救い」という言葉をシメオンは二度使っています。そしてその救いを彼は見たのだと。つまりイエス・キリストこそ救いだと言うのです。シメオンは生まれて間もない赤ちゃんイエスしか見てはいませんが、
イエス様の生涯すべてを見ていたのです。イエス様の生涯そのものが神が与えられた御救いなのだと。

2.クリスマスに待ち望まれる神様

 イエス様の生涯は私たちにも今、明らかにされています。聖書の預言通りにベツレヘムの町で生まれ、大工の子として成長し、預言通り人々の罪の身代わりとなって十字架に架かり死なれました。墓に葬られましたが、三日目によみがえり、40日間人々に現れて復活の証拠を示し、天に帰られました。生まれも死に方も預言されていた人を私は他に知りません。そして預言通りによみがえった人がいるという話をキリスト以外には聞いたこともありません。イエス・キリストが神の約束された救い主だからこそ世界中でこの方の誕生日がお祝いされているのです。

 聖書は次のように約束しています。

ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。


 この約束の重要な点は、イエス・キリストの十字架の死は当時の人たちの罪のためだけではないということです。それは全人類のためであったのです。今の時代に生きている私、そしてあなたのためでもあったのです。イエス様の誕生は、神様があなたの罪の赦し、永遠のいのちを与えるために備えられた救いなのです。

 二つ目に重要な点は、この備えられた救いを得るために必要なことは、「信じる」ということだけです。なぜなら、人間は誰も自分の力や能力、善行によって天国へ行くことは出来ないからです。お金も名誉も全く役に立ちません。罪を赦されたかどうかだけが問題なのです。

 この罪の問題を神様はイエス・キリストの十字架によって解決されました。罪を一度も犯されなかったイエス様だけが罪人の身代わりとして罪の刑罰を背負い死ぬことが出来ました。そしてイエス様だけが死を打ち破ることが出来る方として墓の中からよみがえられたのです。だからイエス・キリストは「救い」だと呼ばれるのです。


 クリスマスは「救い」の時です。あなたの目でこの「救い」を見られることを、誰よりも神様が待ち望んでおられます。