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心に響く聖書の言葉


狭い道と広い道 マタイによる福音書7章13-14節



7:13 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。
7:14 いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。


 道にはさまざまな道があります。広い道もあれば狭い道もあり、まっすぐな道もあれば曲がりくねった道もあります。聖書にはさらに多くの「道」が記されています。使徒の働きには「いのちの道(2:28)、主のまっすぐな道(13:10)、自分の道(14:16)、救いの道(16;17)、神の道(18:26)」等と用いられています。さらにキリストを信じる人たちのことを「この道の者」(9:2)と呼んでいます。

 この「道」という語の用いられ方は、キリスト教に限らず、仏教やさまざまな学問、また武芸についても「道」という語が用いられます。
では、なぜ人はその生き方や教えを「道」と呼ぶのでしょうか?

1.選ぶことができるから

 どの道を通って到着するか選択できるように、私達の生きる道も選択することが出来るので、「道」と呼ばれます。私たちはどの道を通って行くのか、どのように生きるのかを選ぶことができます。ただし、選んだ道が本当に正しい道なのか、最善の道なのかを判断するのは人にはとても難しいことです。

 イエス・キリストは「
滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多い」と教えられました。広い道は多くの人が通っていて楽な道です。他の人に邪魔されずに自分の思い通りに通れる道です。しかし、その先は滅びです。自分が歩んでいる道が本当に正しい道なのか、間違いない道なのか、私たちは立ち止まってよく考えるべきです。

2.誰かが通ったことがあるから

 人が通った後に道ができます。それは歴史でもあり、証言でもあります。私たちはどの道が良い道なのかを調べるために、その道をすでに通ってきた人に聞くことができます。

 私はクリスチャンになる前に多くのクリスチャンの話を聞く機会がありました。そしてほとんどのクリスチャンが言われるのは「イエス・キリストを信じて本当に良かった!」という証しでした。病気のため、突然目が見えなくなったクリスチャンの方を見舞いに行ったときに、その人が語られた言葉を今でもよく覚えています。『目が見えなくなって真っ暗だけど、イエス様を信じていて本当によかった!』と、見えない目から涙を流しながら話してくださいました。

 反対に「神を信じないで生きてきて本当に良かった。神を信じなかったので、私の人生は薔薇色で、最高の人生だった!」と言う人の話を聞いたことがありません。しかし、クリスチャンは違うのです。「私はイエス・キリストを信じて本当に幸せな人生です」と胸を張って証しされるのです。



3.目的地があるから

 道は目的地へ到着するために必要です。目的地のないドライブほどつまらないものはありません。あっちへ行ったり、こっちへ行ったりの堂々巡りです。多くの人はそんな人生を送っておられるのではないでしょうか。「それでも良い」という人は、今までの人生に何の価値も見出せないからでしょう。

 イエス・キリストが教えられている道は「いのちに至る門」から入っていく細く狭い道です。それは「天国へ行くための道」と言えますが、あえて「いのちに至る門」と書いているのは、その道がいのちの躍動に満ち満ちているものだからです。確かに狭く窮屈で、他の人に邪魔されて自由に通れないかもしれません。しかし、いのちの喜びにあふれる道なのです。

 私もクリスチャンですから、この狭い門を通っている者の一人ですので、心から証言したいのです。「イエス・キリストを信じて私の人生は本当に変わりました。以前は目的もなくその日一日が楽しければよいという毎日の繰り返しでした。しかし、クリスチャンになってすべてが変わりました。単に生きているのではなく神様に愛されて生かされていることを知りました。神様を知って生きる一日は、神様を知らないで生きていた時の千日に勝る価値があります。」

 あなたには今の自分の道が本当に一番良い道だという確信があるでしょうか?―――イエス・キリストは私たちにその道を教えてくださるお方です。その道は狭い道ですが、その道を見つけることは難しいことではありません。

 聖書は私たちにその道を「
福音」として教えています。福音とは私たちへの神様からの良き知らせです。神の御子であるイエス・キリストが聖書の預言通りに人となってお生まれになり、あなたが受けるべき罪の刑罰を背負われ、十字架に架かり身代わりとなって死んで葬られました。しかし神はこのイエス・キリストを墓の中から三日目によみがえらせ、この福音が確かに神様が用意された救いのご計画であることを証明されたのです。あなたがすべきことはこの福音を立ち止まってよく考え、よく調べて、信じ受け入れることです。

Uコリント5:21 神は、罪を知らない方(キリスト)を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義(罪を赦されて)となるためです。

 道をあなたは選ぶことができます。狭い門から入り、いのちに至る道を歩んでください。