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心に響く聖書の言葉


愚かな宣教のことば 第一コリント1章17-24節


1:17 キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。
1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
1:19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」
1:20 知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
1:21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。

 クリスチャンの方々に質問ですが、「宣教、伝道は難しい!」と思われているでしょうか?――福音を伝えたことがあっても相手にされず、白い目で見られ、それ以来、伝道恐怖症になってしまったという人もおられるはずです。しかし、使徒パウロでさえ宣教のことばは「愚かなことば」だと繰り返し語っています。
1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても
1:21 宣教のことばの愚かさを通して…

 パウロは消極的な人なのでしょうか?…いいえ、そうではありません。では、なぜ宣教のことばは愚かだと書いたのでしょうか?――使徒パウロは三つの意味で「宣教のことばは愚か」だと書いています。

1.すぐれた教えを用いない
 福音は単純明快で、「あなたの罪が赦されるためにイエス・キリストが身代わりとなって十字架上で死に、三日目に墓からよみがえった」と教えます。それを信じるだけでよいのです。むずかしい学問や苦しい修行は必要ありません。だから、多くの人々にとっては愚かな宗教としか映らないのです。パウロはこのことを次のように表現しています。
1:22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。
1:23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、
1:24 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。
1:25 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

 
ユダヤ人が切望するメシヤ(救世主)は、イスラエル王国を再建する力強いメシアです。それもモーセやエリヤのように奇蹟を行って勝利を勝ち取る救世主です。しかしイエス・キリストのように名誉も権力も持たず、遊女や罪人の友となり、最後は十字架刑で弱弱しく死んでしまうような人は断じてメシアではないと考えるのです。
 
ギリシャ人は哲学的であり、神について、愛について、人間について深く探求する人たちにとって、福音は単純すぎて話しにならないのです。さらに、十字架刑、血による贖いというキリスト教の教えは、愛と知性と美を追求するギリシャ人にとって、血なまぐさい宗教としか映りません。
 それを知ったうえで使徒パウロは「
しかし私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。」と宣言するのです。

2.すぐれた人を用いない
1:26 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
1:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
1:29 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。

 福音を急速に全世界へ広めるためには、この世の権力者や支配者、優れた人たちをまず救い、彼らに福音宣教を託せばよいでしょう。しかし神があえてそのようにされなかったのは、「神の知恵」だとパウロは言います。神は福音宣教を、愚かな者、弱い者を選ばれて託されました。それは知恵ある者、強い者を辱めるためだとも書いています。知恵のある人たちは自分の知恵に頼りすぎて、神の知恵を理解すること(受け入れること)ができません。権力を持っている者は、自分の罪を認め、神の御前にへりくだることができません。
 福音書の中でイエス様は弟子たちに次のように言われました。
マタイ19:23「まことに、あなたがたに言います。金持ちが天の御国に入るのは難しいことです。」――その理由は、金持ちは神より金を愛するからです。つまり、自分の知恵や権力や財産に頼る生き方は、創造者である神の御心を見失ってしまい、滅びに至る道だと教えているのです。神様はそれを示すために、あえて愚かな者を選ばれ、福音宣教を託されたのです。

3.すぐれた知恵を用いない
Tコリント2:1 さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。
2:2 なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。
2:3 あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。
2:4 そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。
2:5 それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。

 使徒パウロは福音を伝えるときに、あえてすぐれた知恵を用いて宣べ伝えなかった、と言います。それは信仰が人間の知恵によってではなく、神の力によって支えられるためだと教えています。
 もし私が知恵にあふれ、雄弁で、説得力のある人間なら、人前で力強く説教をし、多くの人々を救いに導けるでしょう。しかしそれは私の功績となってしまいます。神様の御心はそこにはありません。また、福音は神様のメッセージですから、それを人間が飾り立て、割り増しをして伝えてはいけません。人間の知恵を用いて、説き伏せ、説得し、回心させるのでもありません。キリストの福音をそのまま伝えること、それが神様のことばを預けられた私たちがすべきことなのです。その時、神様の力が働くのです。

 「デイリーブレッド」誌に、伝道について次のように書いてありましたのでご紹介します。
――自分らしくする――
 私のように伝道の賜物の無い者にとって、個人伝道という言葉は過去の苦い想い出を思い出させ、不安にさせられます。実際、効果的な個人伝道の方法と言われているHow Toものの本に沿って救いを伝えようとしても、全くうまくいかず、落胆したこともあります。しかし、ジム・ヘンダーソンが書いた「付け足しの無い伝道、信仰を伝えること、あなたらしくすること」という本を読むと、個人伝道に対する別の見方が示唆されていました。彼は、「他の人のやり方や物語を使うのではなく、ただ、自分らしくしていなさい」と提案します。法廷では、他人から聞いた話に基づいて証言することはできません。自分が見たこと以外は信憑性に欠けるからです。信仰についても同じことが言えます。キリストが私にしてくださったことは実際に起きたことです。これ以上の証しはありません。その体験をドラマチックに飾り立てる必要はありません。私たちを罪から救い、守り導いてくださるキリストの力について私たちが真実を語るならば、その証しは信頼に足るものです。もし、個人伝道の訓練を受けていないからとキリストを証しすることを躊躇しているなら、別のやり方を試してください。それは自分らしくすることです。イエスに癒してもらった盲人の人は「私は盲目であったのに、今は見える」とだけ言いました。私たちも真実を言いましょう。

 
 あなた自身が受けてきた神様の恵みを伝えること――それは真実であり、相手の心に響く証しです。そして、あなただけにしかできない伝道なのです。