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心に響く聖書の言葉


神様の声が聞こえていますか? 1ペテロ



一、耳に痛い言葉

 人間の耳はとても優れた器官です。個人差はありますが、20Hzから15000Hz〜20000Hzまでを聞くことができます。もしそれ以上の周波数超音波まで聞こえたなら耳鳴りとなり生活ができなくなってしまいます。これはまさに神様の創造のわざと言えるでしょう。

 私が勤めはじめた工場は、機械の音がとてもうるさく、耳を塞ぎたくなります。しかしその職場に永く勤めている人達は耳栓をしなくても平気で作業をしています。それは人は自然に要らない音を無視し、必要な音だけを聞き取るようになるからです。

――これは私たち人間の生き方を表しているかのようです。自分に都合の良いことは聞いて、嫌な事や面倒なことは聞かなかったことにしようとします。人間の言葉でもそうなのですから、神様の声はなおさらです。私たちは自分に都合良いように生きたいがために、聖く正しい神様の声をなかなか聞こうとしません。

 皆さんは神様の声が聞こえていますか?

 使徒ペテロは神様のことばを代筆して手紙を書きました。その内容は私たちにとって耳の痛い言葉ばかりです。

1:14 従順な子どもとなり、以前、無知であったときの欲望に従わず、
1:15 むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。


2:1 ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて…


 2章では奴隷たちに対して、不当な苦しみを受けていても耐え忍びなさいと教えています。

2:19 もしだれかが不当な苦しみを受けながら、神の御前における良心のゆえに悲しみに耐えるなら、それは神に喜ばれることです。
2:20 罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。


 このような言葉を聞くと反感を持たれる方々もおられるはずです。「どうして不当な苦しみを耐え忍ぶ必要があるのか?そんな不公平を神は許されるのか?」と。

 私たちは自分が正しい時にそのことを主張すべきだと思います。会社や家庭で問題が起こったときに、自分が正しいときには相手に非を認めさせ謝罪させるべきだと考えます。しかし神様の御心は違うのです。3章1節では妻に対して、7節では夫に対して次のように教えられています。

3:1 同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。たとえ、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって神のものとされるためです。

3:7 同じように、夫たちよ、妻が自分より弱い器であることを理解して妻とともに暮らしなさい。また、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りは妨げられません。


 正しいことは良いことで素晴らしいことです。しかしその正しさを自分を守る盾とし、過ちを犯した人を言葉の暴力で切りつけるなら、それはもっと大きな過ちになるのです。

二、耳にやさしい言葉

 使徒ペテロは次の箇所で、キリストが私たちのために模範となられたことを教えています。

2:21 このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。

2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。
2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。
2:24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。


 何の罪も犯されなかったお方が、ののしり返さず、脅さず、悪口を言わず、かえってその人たちの罪を背負われたのです。それは自分の正しさを主張して生きるより、人の罪を赦すことのほうが神のみこころにかなっているからです。キリストの十字架はまさに私たちの生き方の模範なのです。


 しかしキリストの十字架にはもっと大切な目的がありました。模範となるためだけにイエス・キリストは十字架に架かられたわけではありません。――それはあなたを愛しておられるからです。愛のゆえにキリストはあなたが受けるべき刑罰を身代わりとして受けられたのです。それも当時最も残酷な処刑法であった十字架刑をです。

 イエス・キリストは不当な裁判の後、肉を切り裂く鞭打ちを受けました。ぼろぼろになった服を無理やりはがされ、紫の着物を着せられました。いばらの冠をかぶらされ、ローマの兵隊たちにさんざん笑いものとされた挙句、また着物を脱がされ元の服を着せられました。

 一言も文句を言わず、ゴルゴダの坂を十字架を担いで登られました。両手と両足に大きな釘を打ち込まれ木に打ち付けられました。その激痛は想像を絶するものでしょう。血を滴らせながらそのいのちが取り去られるまで激痛を味わいました。しかし、その苦しみの中でイエス・キリストは父なる神に祈られました。
「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか分からないのです。」

 なぜそこまでして、神の子であるお方が耐え忍ばれたのでしょうか?
『もう止めた、こんな人間たちのために苦しむのはもうまっぴらだ!』と言って十字架から飛び降り、一瞬のうちにさばきを下すこともできたでしょう。でもそうされませんでした。それはあなたに救いを与えるためでした。

 イエス・キリストが受けられた苦しみと捧げられたいのちは、私たちの罪の代償なのです。彼は神を知らずに生きていた私たちが永遠の地獄へ行かないように、罪の赦しを与えるため十字架の苦しみを耐え忍ばれたのです。あなたが罪の赦しを得て新しく生まれ、罪から離れ、自分のための人生ではなく神のために生きるようになるため死なれたのです。

 父なる神はこのイエスを墓の中よりよみがえらせてくださいました。この方が墓につながれていることなどありえないからだと聖書は記しています。イエス・キリストは、そのよみがえりによって死と悪魔に勝利され、罪のとげを取り去られました。死を打ち滅ぼし、永遠のいのちを与える方、すべてのものに勝るお方として高く上げられ、全能者の右の座に着き、今も天において私たちのためにとりなす大祭司として働いておられます。



 このイエス・キリストの犠牲のゆえに、罪の赦しと永遠のいのちが約束されています。では、私たちは何をしたらよいのでしょうか?―――その約束を与えてくださったキリストを信じますと言って受け取ればよいのです。

 イエス様は
「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」と約束されました。死は誰にでも必ず訪れます。その時にキリストの救いをいただいた私たちは、すぐにキリストの元へ行き、永遠の祝福の中に生きるようになります。もう涙も病気も死もありません。羊飼いであるイエス様が共におられるのです。

三、痛い言葉がやさしい言葉へ

 ペテロは手紙のなかで、キリストを信じた人は罪を赦され、永遠の希望をいただいているのだから、キリストの模範に倣い、かつてのむなしい生き方を続けるなと教えています。

4:1 キリストは肉において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉において苦しみを受けた人は、罪との関わりを断っているのです。
4:2 それは、あなたがたが地上での残された時を、もはや人間の欲望にではなく、神のみこころに生きるようになるためです。
4:3 あなたがたは異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、欲望、泥酔、遊興、宴会騒ぎ、律法に反する偶像礼拝などにふけりましたが、それは過ぎ去った時で十分です。


 キリストを信じた者に与えられる罪の赦しと永遠のいのちがどれほど素晴らしいものかを知るなら、ペテロが書いた教えは耳に痛い教えではなくなります。そしてキリストの愛をより深く知るなら、その教えに喜んで従えるようになるでしょう。

 あなたは神様の声が聞こえてますか?あなたの心に喜びが与えられているなら、神様の声がはっきり聞こえてくるはずです。