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心に響く聖書の言葉


金メダルより素晴らしい賞 Tコリント9章23-27節


Tコリント9章23〜27節
9:23 私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。
9:24 競技場で走る人たちはみな走っても、賞を受けるのは一人だけだということを、あなたがたは知らないのですか。ですから、あなたがたも賞を得られるように走りなさい。
9:25 競技をする人は、あらゆることについて節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
9:26 ですから、私は目標がはっきりしないような走り方はしません。空を打つような拳闘もしません。
9:27 むしろ、私は自分のからだを打ちたたいて服従させます。ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないようにするためです。


一、オリンピック
 東京オリンピックが近づいてきました。開催を楽しみにしておられる方々も多いことでしょう。オリンピックは1896年にアテネにて第一回が行われましたが、それは古代ギリシアのオリンピックを復活させたものです。古代ギリシアには紀元前9世紀より、オリンピックを含めて4つの大きな競技大会がありました。オリンピック(オリンピアで開催)、ピューティア(デルフォイ)、ネメア(アルゴス)、イステマス(コリントのすぐ近くのイストモスで開催)の4大会がそれです。大会の種目は短距離競争、馬車、乗馬、ホーガン投げ、ボクシング、レスリングでした。通常、参加者は長期間に渡る激しい練習をこなし、大観衆の前でその技を競いました。
 驚くことには優勝者に与えられるのは、木の枝葉だけでした。オリンピックではオリーブ、デルフォイでは月桂冠、アルゴスではパセリ、イステマスでは松が与えられましたが、しかしその栄誉は大変なものだったのです。


二、金メダル
 古代オリンピックでは賞を受けるのはただ一人でしたが、それでも人々は懸命になって鍛錬を重ねました。使徒パウロはクリスチャンに向けて「
あなたがたも賞を得られるように走りなさい。」と叱咤激励しています。なぜなら賞を得られないこともあるからです。※この賞とは「永遠のいのちに至る救い」のことではなく、神様から与えられる栄誉を意味しています。
 この書簡の宛先であるコリントの教会は多くの問題を抱えていました。クリスチャンになっても不品行や不道徳な生活を続けている人たちがいました。偶像礼拝から手を切ることが出来ない人たちもいました。さらに教会内では分裂を引き起こす批判や争いがありました。そのような理由から使徒パウロは、オリンピックの競技者を見倣ってあなたがたも生活を改め節制せよ、と命じたのです。

 以前、TVで中国の体操選手育成の番組がありました。4、5歳の子どもたちが親元を離れて体操教室に入り、厳しい訓練と鬼コーチの怒号の中で訓練を受け、9歳までには素質あるなしで分けられ、素質ありの子は続け、素質の無い子たちは切り捨てられるそうです。子どもを預けた親はインタビューに応えて、「この子が金メダルを取れたら、私たち一家の生活はとても楽になります。この子に私たち一家の生活が懸かってるのです。」と話しました。子どももそれを知って親の期待に応えようと涙をこらえて訓練を続けている様子が放送されました。腹のねじれるような腹筋運動や、一歩間違えば頭、全身を強打するような訓練。一個の金メダルのために人は自制をし、激しい訓練を耐え続けるのです。
 使徒パウロは言います。「
競技をする人は、あらゆることについて節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
 クリスチャンに用意されている賞は、金メダルよりはるかに価値のある賞です。天地万物を創造された全能の神から与えられる賞はどれほど素晴らしい賞でしょう。その賞を得るために、あなたの生活を節制しなさいと命じているのです。


三、ゴール
 使徒パウロは、陸上競技とボクシングを取り上げ、コリント教会のクリスチャンに指針を与えています。ゴールが分からないまま走るマラソンほどむなしく苦しいものはありません。また、相手に当たらないパンチを繰り返すことも、無駄なことです。パウロは私たちに「空振りの人生を送らないでほしい」と懇願しているのです。

 クリスチャンの行き着くゴールは天国ですが、ゴールすることが私たちの生きる目的でしょうか?天国へ行くことが私たちの目標でしょうか?―――そうではありません。もし天国へ行くことが人生の目標なら、早く死んだほうがましです。「あなたの祈りは何ですか?」と聞かれた時、「一日も早く死んで天国へ行くことです。」と言うなら可笑しな話です。私たちはゴールを目指して走っているのですが、ゴールすることが走る目的ではありません。では何のために走るのでしょうか?何のために生きるのでしょうか?

 人は自分の足で立ち、歩き始めるようになると、自分のために生きるようになります。自分で稼ぎ、自分の趣味と興味のためにお金を使うようになります。結婚して家族が出来れば、家族のために働くようになります。さらに献身的な人は、自分と家族のためだけでなく、人々の役に立とうと決心します。人のために働くことは尊い働きです。医師、救急隊員、消防士、警察、教員、介護職員等々、人々に仕える職業は尊ばれるべきです。


 では、クリスチャンは何のために生きるのでしょうか?―――使徒パウロはその答えを躊躇せずはっきりと答えています。
私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。」――イエス・キリストの福音のために生きていると宣言しています。(宣教だけでなく、祈りにおいて、言動において、忍耐において…すべてを福音のためにするのです)
 なぜなら福音の働きは、神様が望んでおられることであり、神様の御心に従う生き方、
神様のために生きることなのです。
 また、福音の働きは、人々を罪の奴隷から解放し、永遠の滅びから人々のいのちを救う働きであり、
人々のために生きることなのです。
 さらに、福音の働きは自分自身も福音の恵みを受け、失格者とならず神様からの賞を頂くためであり、
自分のために生きることなのです。
 つまり、福音のために生きることは神様のためであり、人々のためであり、自分自身のための生き方なのです。これほど価値のある生き方は他には決してありません。ですからどうかあなたもこの生き方を始めてください。ただし、この生き方をする人は忍耐と寛容をもって節制、自制していかなければならないことを覚悟しておいてください。この地上では神様の食卓から落ちてくる恵みのパンくずしかいただけないでしょう。人々から感謝されるどころか、ののしられることもあります。しかしあなたに与えられる朽ちない冠は、オリンピックの金メダルより、この世のどんな栄誉よりはるかに勝る栄誉なのです。