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心に響く聖書の言葉


祈りって素晴らしい! ルカ11:1-13



1.祈りを教えてください

11:1 さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」
11:2 そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。
11:3 私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。
11:4 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。』」

 クリスチャンの方々に質問ですが、教会ではじめて「祈ってください」と言われたとき、どのように祈ったらよいか分からなかった経験があるでしょうか?
 祈りたくてもどう祈ったらよいのか?何を祈ったらよいのか?どういう言葉を使ったらよいのか?――分からなくて、しどろもどろになってしまった経験があると思います。

「あーかみさま…、今日は来てよかったです。また来週も来たいと思いますので、よろしくお願いします。アーメン」――これでは神様に祈っているのか牧師に言っているのか分かりません。求道生活が長かった人でも、いざ自分が祈るとなるとどう祈ったらよいのか戸惑ってしまいます。ですから私たちは祈りを教えてもらうことが必要です。

 ルカ11章では、弟子の一人がイエス様の元に来て『祈りを教えてください』と願いました。イエス様は、「何でも祈れば良い。習うより慣れろだ!」と言われずに、『こう祈りなさい』と言って祈りの模範を示されました。

 主イエスが教えられた祈りは、簡潔で、分かりやすい祈りでした。マタイによる福音書ではこの「主の祈り」を教えられた背景には、偽善のパリサイ人たちが見栄のために長い祈りを繰り返し祈っていたことに対するイエス様の憤慨があったことが示されています。

 「主の祈り」では、大切な事と本当に必要な物のために祈ることを教えられた反面、長くだらだらと同じ言葉を何度も繰り返すような祈りや、見栄や体裁のために、言葉を飾った祈りをするなという訓戒があります。
「天地万物を創造し、行く年生けるものに命を賜り、尊厳と御稜威(みいつ)の御中に臨在される我らの全能の主よ。御前にささぐる祈りを聞き入れたまえ・・・」と仰々しく祈るより、「父よ。」と祈れと。
 もともとアラム語の『アッバ』は、ユダヤ人の家庭で幼い子どもが父親を呼ぶときのことばで、『お父ちゃん』「ダディー」と訳せることばです。ですからイエス様は、「祈りを難しくするな。親に願うように祈れ。祈りはシンプルであるべきだ。」と教えられたのです。

2.聞かれる祈りとは

11:5 また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。
11:6 友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ』と言ったとします。
11:7 すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』
11:8 あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。
11:9 わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
11:10 だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。



 イエス様はどのような祈りが聞かれるかも教えられました。それはあきらめずしつこく祈ることです。言葉数が多ければよいというのではなく、あきらめず、心から何度も祈るのです。一日に何度も祈り、毎日祈り、何年かかってもあきらめない祈り――そのような祈りを天の父は聞いてくださると教えられました。

 もし祈ったことが御心でなかったとしても「神様は私に何にも与えてくださらない」と嘆くことはありません。なぜなら祈る前からクリスチャンには素晴らしい最高の宝物が与えられているのですから。それは聖霊です。聖霊は神の霊であり、永遠のいのちの保証です。神が与えられる最高の祝福であり、永遠の富です。それをすべてのクリスチャンはいただいているのです。

11:11 あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。
11:12 卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。
11:13 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」

 父なる神は聖霊を惜しまずにあなたがたに与えられています。それは旧約時代の聖徒たちが求めてやまなかったものでした。聖霊を一時的に受けた人たちは『神の霊を宿す人』として神のわざを行い、神のことばを語り、人々から尊敬されました。この聖霊をクリスチャンは皆、賜物として与えられ、生涯取り去られる事はありません。

3.なぜ祈るべきなのか?

 では、クリスチャンはなぜ祈るべきなのでしょうか?

@聖書が教えているから
 
エペソ 6:18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

A私たちが弱いから
 神の御子のイエス様でさえ祈られたのだから、弱い私たちはなおさら祈るべきです。イエス様は十字架の試練を前にして、「悲しみのあまり死ぬほどです」「父よ、できますならこの杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかしわたしの願いではなく、あなたのみ心のようになさってください」と祈られました。信仰も精神的にも弱い私たちはなおさら祈らなければ誘惑や試練に立ち向かうことが出来ません。祈らなければ悪魔の放つ火矢を消すことは不可能です。

Bクリスチャンの特権だから
 かつて私たちは、いるかいないのか分からない偶像の神々に祈るだけで、何の祝福もない祈りをしていました。しかし福音により唯一の偉大な神の存在を知り、その神様が私を愛しておられ、祈りを聞いてくださることを知りました。ですから祈らなければもったいないではありませんか。

 祈りについて聖書は多くの祝福を約束しています。

a.信仰による祈りは、病む人を回復させます。
b.義人の祈りは働くと、大きな力があります。
c.祈りは主に喜ばれます。
d.祈りは必要なものを獲得する最善の方法です。
e.祈りは悪魔の策略を打ち破り、私たちを勝利に導きます。
f.祈りは天の御座を揺り動かし、天の窓を開かせます。
g.祈りは兄弟姉妹を励まし、主の祝福をもたらします。
h.祈りは神の愛の実践です。
i.祈りは神に栄光を帰し、神を褒め称えます。
j.祈りは罪人を神に立ちかえらせ救いを与えます。
k.あなたの祈りを天の父は聞いておられます。

 聖歌254番は、祈りの祝福とその楽しさを歌詞にしています。

「楽しき祈りよ」

楽しき祈りよ、憂きこの世離れ、
御位に近づき、神と語らしむ。
悩みて在りし日、此処にて幾度、
試むるものの罠より逃れし

 天の父に心から祈りましょう!楽しい祈りを主にささげましょう!