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心に響く聖書の言葉


「預言者ホセア」 ホセア6章1-3節



ホセア書6:1 さあ、【主】に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、癒やし、私たちを打ったが、包んでくださるからだ。
6:2 主は二日の後に私たちを生き返らせ、三日目に立ち上がらせてくださる。私たちは御前に生きる。
6:3 私たちは知ろう。【主】を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。

 聖書には多くの預言者が登場します。預言者というと日本ではあまり馴染みがないため不気味に思われるでしょう。それは人を惑わすような予言者が多いからです。予想的なことを予言する人たちは予言者と呼ばれ、聖書の預言者とは異なります。漢字一文字の違いですが、その働きは全く違います。聖書の預言者は、創造者である神のことばを預かり、それをそのまま人々に伝える人たちです。(※1)

 今回は預言者の一人、「ホセア」に焦点を当て、聖書の預言について学びます。

1.預言者ホセア

 ホセアは北イスラエル王国の最も暗い時代(BC8世紀)に活動した預言者でした。アッシリア帝国の脅威におびえ、最終的にアッシリアヘ捕らえ移された時代です。道徳的にも霊的にも人々は堕落し、偶像礼拝を行い、神様から祝福のない時代…そのような時代に預言者として召され、宣教するのは大変だったはずです。

 宣教者にとって最もつらいことは、語り伝えた神のことばを人々が無視をし、踏みにじられることです。また、神のさばきが下るという警告をホセアは伝えなければなりませんでした。自分の同胞が苦しむことを預言しなければならないことは断腸の思いだったに違いありません。


 預言者として召された人は、神様からのメッセージをそのまま伝えなければなりませんでした。そのメッセージの大半は、人々が犯した罪の責めと、神様のさばきの警告でした。そのため、預言者は迫害され、いのちを取られることもありました。

2.ホセアの言葉

 神様の警告を聞こうとしないイスラエルを前にして、それでもホセアは諦めず人々に
さあ、主に立ち返ろう
と呼びかけています。(※2)
「イスラエルよ、このままではいけない、このままでは滅んでしまう」という悲痛なさけびと共に、三つの「〜しよう」、英語でLet's〜、と呼びかけています。

@
主に立ち返ろう
 「主に立ち返ろう」とは、方向転換、悔い改めです。神様に背を向け自分勝手な道を進んでいるイスラエルに対し、「向き直れ」と命じます。それは神様を無視して歩んでいるすべての人間に向けられたメッセージでもあります。人間は何の目的もなく生きているのではなく、創造者である主によっていのちを与えられ生かされているのです。精密機械には設計者がいて、その設計者だけが機械の使用目的をよく知っています。同じように人間の目的も設計者である神様だけが知っているのですから、その創造者の元に立ち返るのは当前のことではないでしょうか。

 日本では幼い頃から、神仏にお願い事をする習慣があります。病気が直るように、仕事がうまくいくように、恋愛が叶うように。…祈るだけ祈って、いくらかのお金を投げ入れます。しかし多くの人々の心には信仰も悔い改めもありません。神様の願いはあなたがまず神様を心から信じるようになることです。信じていない神に祈ることは滑稽であり、偽善です。祈るためには、まず神様に立ち返るべきなのです。その時に祈りは意味のあるものとなり、天の神様が聞いてくださるのです。



A
私たちは知ろう
 人が神様に背を向け、無視して生きているのには理由があります。それは神様の存在を知らないからです。創造者の存在を知りません。神様が歴史の中でどのようなことをされてきたかも知りません。だから神様がどのようなおかたか、私たちに何を求めておられるのか、そして何をしてくださるのかを知ることが必要です。

 では、神様を知るにはどういう方法があるでしょうか?…いろいろありますが、最もお薦めするのは
聖書の福音を聞くことです。聖書には神について、宇宙について、人間について、永遠についてはっきりと記されており、私たちに真理を教えます。聖書の福音を聞くことがその入り口となるのです。福音は神を知らない人間に与えられた、神を知り神に立ち返るための「良き知らせ」です。

B
主を知ることを切に追い求めよう
 人は神の存在を知らないため無益なものとなっていますが、さらに根にある問題は、「神を知りたくない」という人間の心理です。人は自分の思い通りに生きたいという欲望があるので神を信じたくないのです。もし神を知るなら、神の基準に従わなければならなくなるという恐れがあるからです。「神を信じると窮屈な生活になってしまう!教会へ毎週通うなんて絶対無理!」云々。しかし安心してください。次のホセアのことばに目を向けましょう。

 【主】を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。

 ホセアはここで「主を知ることを切に追い求める」べき理由を挙げています。主をさらに知ろうとするなら、私たちは素晴らしい神様のご計画を知ることになります。主が
私たちのところ(この地上)に来られるという約束です。そしてその約束は確実であることを「暁のように、大雨のように、地を潤す後の雨のように」と例えています。これはメシア(救世主)来臨の預言です。この預言がイエス・キリストによって成就したことを私たちは知っています。

 使徒パウロはイエス・キリストについて次のように記しています。

ピリピ2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
2:8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。


 神であるお方が人の姿を取って
私たちのところに来てくださったのです。このキリストは私たち人間を苦しめるために来られたのではなく、罪と死という呪いにがんじがらめになっている私たちを救うために来られたお方です。そのためにキリストは十字架で罪の刑罰を身代わりに受けてくださいました。

 イェス・キリストは死んで葬られ、三日目によみがえられて弟子たちの前に現れ、彼が間違いなく約束の救い主であることを証明されました。そして再びこの地上へ来ることを告げられ天に帰られました。新約聖書には再びキリストが
私たちのところに来られる預言が記されています。それは「暁のように、大雨のように、地を潤す後の雨のように」確実に起こることなのです。その時、神を知って信じた人々は、栄光の体を与えられ、報いを受け、主と共に永遠に祝福の中を生きるのです。

 ですから、「
主を知ること」は、生活を縛られることではありません。反対に、罪と死があるために嘆き悲しんでいた生活から解放され、本当の自由を与えられます。神様という無敵の助け主があなたを守ってくださるのですから、何があっても大丈夫です。どうかあなたの設計者であり、救い主である主を知られますように。


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※1 イエス・キリストが誕生する以前には多くの預言者たちがいたのは、神様がそのメッセージを伝える方法であったからです。イエス・キリスト以降、神様からの預言は与えられなくなっています。それは聖書の成立の時期とほぼ重なっています。つまり、神様の御心は聖書によって完全に示されたので、これ以上の啓示が必要でなくなったと言えます。(参照)Tコリ 13:10 完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。

※2 6章1〜3節には二通りの解釈があります。一つはイスラエルの表面的な悔い改めと解釈し、もう一つはホセアの呼びかけだとする解釈です。前後関係を重視すると、前者の解釈が支持されます。1〜3節の内容に重点を置くと後者の解釈が取られます。私は1〜3節を表面的な偽りの告白とするにはあまりにも霊的真理に満ちた内容であり、他に同じような箇所がないため、後者の解釈を取っています。