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心に響く聖書の言葉


ヨハネによる福音書3章16-21節 「聖書の中の聖書」


 ヨハネ3章16節の御言葉は、「聖書の中の聖書」と呼ばれる箇所です。それは、聖書をコンパクトにコンパクトにしていくと、最後はこの3章16節の御言葉になると言われるからです。「黄金の言葉」と呼ばれたり、「小さな聖書」とも呼ばれます。ヨハネは1章の冒頭に続き、ここでも彼の注釈を挟みつつ、神様の真理を厳粛に表しています。

1.神は・・・

3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 聖書は私たちに、神がおられることと、その神がこの世界のすべてのものを愛されていることを宣言しています。「世」とは、創られたこの世界のすべての被造物とそこに住む私たちのことです。神が存在されるのか存在しないのかという問題は、私たち人間にとって最大の関心事であり、追及しなければならない問題です。もし神がおられないなら、人間は偶然に何の目的もなく生まれたことになり、ただの生き物に過ぎません。しかし神がおられるなら、私たちは創られた者で、神の栄光を現わす目的を持って創られているのです。もし神がおられないのなら、この世のすべての宗教はむなしく、だましごとで、神に祈ることは馬鹿げています。神がおられるなら、私たちは真実を持って神様を礼拝するべきであり、神様に祈ることが出来ます。この人類最大の問題に対して聖書ははっきりと答えを与えています。「神はおられ、世を愛されています!」 そして聖書はそれを証明しているのです。
 
神様が存在し、働いておられることの証明として、聖書があります。旧約聖書では、神様がたくさんの奇跡と啓示を与えてイスラエルを守り、導かれた歴史が記されています。モーセの出エジプト記を読むと、奇跡の連続です。蛙やあぶが湧き出て、ナイル川が血に染まります。天から雹が降って来、家畜が死んでしまいます。紅海が割れて道が出来、イスラエル人を追ってきたエジプトの兵士たちは海の底に沈められます。神様がたくさんのしるしによってご自身の存在を証明されました。しかし、イスラエルの民は神様を信じ続けることが出来ず、不信仰の歴史を繰り返します。なぜ人間は神様を信じ続けることが出来ないのかと、読んでいて歯がゆく思えるほどです。栄華を極めたソロモン王は、純粋な信仰を持ち、神様の祝福で歴史に名を残す王となったのですが、その晩年には裕福な生活におぼれ、女性に惑わされて心が神様から離れてしまいました。

 新約聖書にも同じような記事があります。イエス・キリストが多くの驚くべきしるしを行なわれたのですが、指導者たちをはじめとしてユダヤ人たちは全くキリストを信じようとしません。その理由は、自分たちが思い描いていた救い主ではなかったからです。このことは人間が神を信じようとしない一番の理由ではないでしょうか。世界中のほとんどの人は神を信じたいと思っています。しかし、その神様は自分の願いをかなえてくれる神でなければなりません。富がほしい、名誉がほしい、病気を癒してほしい・・と祈って、叶えられたなら金を払ってでも信じます。けれど、願いが叶えられないなら、その神は偽ものだ!と決め付けてしまいます。病気を癒し、事故から守り、平安をもたらし、幸せを運んでくれる神様なら、喜んで受け入れ礼拝します。しかし自分に不幸が起こるならそっぽを向いてしまうのです。まして聖書が教えているように、罪を責められ、悔い改めよと説教する厳しい神なら、「勘弁してください」と言って寄り付こうともしないのです。

 ですから、
神を信じない本当の理由は、自分の思い通りに生きたいという欲望です。それでも神はおられ、神を知ろうとしたがらない私たちを愛しておられるのです。欲深く頑固な私たちのために、神様が取られた最後の手段は、ご自分のひとり子を天から遣わし、御言葉を宣べ伝えさせ、人間の罪の贖いのため十字架に架けることでした。

2.そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された

 神様の愛はイエス・キリストの十字架によって私たちにはっきりと示されています。神様は人間の不品行や不道徳のすべての罪の責任をキリストに背負わせ、身代わりの死を通して罪の赦しを与えておられます。

 映画好きな私ですが、最近見た映画の中で印象に残ったのは、主人公の娘が誘拐され、その娘を救い出すために父親がいのちをかけて犯人組織に立ち向かい、犯人をやっつけて娘を取り戻すという内容でした。映画でもドラマでも、自分の愛する家族を守るために自分のいのちを顧みず、危険を恐れず必死になって戦う姿には感動します。人のいのちを救うために犠牲が必要としたらあなたはどうするでしょうか?死の恐怖を前にして、犠牲になることをためらう人も多いでしょう。怖くて尻込みしてしまうかもしれません。しかしそれでも覚悟を決めて自分のいのちを犠牲にして人を救う人もいるのです。以前、教会で塩狩峠という映画を見ましたが、北海道旭川にある塩狩峠での列車事故の時に身を投げ出して列車の下敷きとなり、人々を救った長野さんの犠牲の死は心に残るものでした。

 しかし、人を救うためにその犠牲として、「あなたの愛する子どもを差し出しなさい」と言われたら、どうでしょう。「ちょっと待ってください、私ならいいですが、この子だけはやめてください」と願うでしょう。自分のいのちを差し出すことより、愛する子どもを差し出すことのほうが難しいことなのです。しかし神様はそれをしてくださったのです。愛するひとり子のイエス・キリストを人間の罪のために差し出し、私たちを救おうとされたのです。神様がどれほどあなたを愛され、いつくしまれているかが分かるでしょうか。この神様の愛に気づいていただきたいのです。

3.御子を信じるものが一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである

 イエス・キリストの十字架の死は、大いなる代償でした。私たちの罪を赦し、永遠のいのちを与えるのです。先週の説教ではニコデモとの対話を通して永遠のいのちについてイエス様は教えられました。御霊によって新しく生まれ、永遠のいのちを持つ者だけが永遠の神の国へ入ることが出来ると教えられました。それは、律法を守り行うことによってではなく、イエス・キリストの十字架を仰ぎ見る時に私たちのうちに起こるのです。

  罪深い者なのに罪を赦され、天国へ行く価値の無い人間なのに、価値ある者とされることこそ、神の恵みです。天国をお金で買うことは出来ません。まして私たちの努力や行ないでそれを得ることは不可能です。神様のご計画は私たちが自分の弱さや罪を認めて、神様に立ち返り、「私を救ってください」と祈ることを求めておられます。そのときイエス・キリストの十字架の恵みによって罪赦されるのです。

4.御子によって世が救われるためである

3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
3:18
御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
3:19
そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。
3:20
悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。
3:21
しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである

 御子はさばきのために来たのではない、と書かれています。また、
信じない者はすでにさばかれている、とも書かれています。その意味は、神様から離れていること自体がすでにさばかれている状態なのです。というのは、自分の思い通りに生きていても、実は心に平安がなく、喜びがなく、自分の罪に嘆き、弱い者であるからです。最初の人アダムとエバが罪を犯した時に、最初に彼らが取った行動は、神様から隠れることでした。神様の御顔を恐れて、自分のしたことが明るみに出されることを恐れて隠れたのです。それが神を信じない人間の本当の状態です。自分の心と行ないが神と人の前に出されることを恐れます。もし心の思いが電光掲示板に表示されたら私たちは恥ずかしくて生きてはいけないでしょう。その汚い心を隠すために私たちは嘘をついて生活します。正直者は馬鹿を見る、ということわざがありますが、それは正直に嫌なものは嫌というなら、その人は世渡りが出来ないということです。心が汚れているから、その汚れを隠すために嘘をつきます。そしてその嘘を隠すためにまた嘘をつかなければなりません。これこそ神様にさばかれた人間の状態なのです。
エレミヤ 17:9 人の心は何よりも陰険で、それは直らない。
ローマ7:18-25
7:18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。7:19私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。7:21 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。7:22 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、7:23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。7:25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。


 使徒パウロは自分のことをみじめな人間だと言いました。それは自分の肉の中に罪が巣食っていることを知っていたからです。しかしパウロは同時に神様に感謝しています。それはイエス・キリストが自分の身代わりとなって死なれたことによって、すべての罪を赦され、永遠のいのちを与えられているからです。御子キリストを信じる人は、キリストと共にすでにさばかれたので、もはやさばかれません。十字架によってすべての罪が赦されたからです。ぜひ、キリストの福音を信じて永遠のいのちを持つ者となってください。
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。