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心に響く聖書の言葉


「キリストの復活は福音の土台」 Tコリント15章12-22節


 イースターは、イエス・キリストの復活を記念する日です。「春分の日の後の最初の満月から数えて最初の日曜日」と定められていますが、「イースター」という名前の由来は実ははっきりと分かっていません。現在、最も有力な説は、ゲルマン神話の春の女神「Eostreエステラ」に由来すると言うものです。キリスト教とは関係のない異教徒の春の祭りでしたが、キリスト教の広まりと共に意味を変え、普及したと言われています。寒さ厳しい冬から、草木が芽吹き、動物たちが生き生きとする春が、十字架で処刑された後に復活されたイエス・キリストのイメージと重なって祝われるようになったのでしょう。

1.キリストはよみがえられた

 キリスト教の最も大切な教えは「福音」であり、その福音の土台となっているのがキリストの復活です。
15:14 そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。
15:15 それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。
15:16 もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
15:17 そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。
15:18 そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。
15:19 もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

 もしキリストがよみがえらなかったなら、クリスチャンと呼ばれる人たちはこの世で一番哀れな人たちであると言ってます。もしキリストがよみがえらなかったなら、弟子たちはキリストがよみがえったと偽証したペテン師であったことになります。もしキリストがよみがえらなかったなら、キリスト教信仰はすべてむなしい教えです。しかし、キリストがよみがえったのなら、キリストの教えは真実であり、キリストを信じる信仰は正しいのです。

 キリストが復活したと宣言する使徒パウロのことばを受け入れるべき理由があります。ほかの弟子たちについても同様なのですが、調べていくなら彼らは自分の利益のために悪巧みをしたり、地位や名誉を守るために嘘の証言をするような人達ではなかったことが分かります。彼らは迫害に次ぐ迫害をものともせず福音を宣教した人たちです。脅されても命の危険にさらされても、証言を曲げませんでした。そのような人たちが嘘の証言をしたとは考えられません。


 と言う私もクリスチャンになる前は、「キリストがよみがえった」と言う事をどうしても信じることが出来ず、自分はクリスチャンにはなれないと思っていました。しかし弟子たちの証言をよく読み考えると、誰が好き好んで迫害を受けるだろうかと思いました。益になることなら死に物狂いで頑張ることもできます。しかし何も益にならないことのため偽証をし、殉教するなど考えられません。そのとき気付いたことは、「私はイエス・キリストの福音を信じることが出来ないのではなく、信じようとしていないだけだ」ということでした。心のどこかで「神など絶対に信じたくない」と拒絶していることに気付いたのです。そしてそれが「私の罪」でした。心が締め付けられ、私ははじめて心から祈りました。「どうか神様、あなたがおられるなら、私を救ってください。信じることが出来ない私を助けてください。」そう祈った時に、心の中がぱっと明るくなったことを今でも覚えています。

2.よみがえった後には何があるのでしょう

 神様のことばである聖書は、人が死んだ後のことについてはっきりと教えています。
「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように」へブル9章27節
 神様は人間にいい加減なことを言われません。神様はご自分で創造した人間にへつらう必要がないからです。罪ある人間は、さばかれて苦しみの場所である地獄へ行きます。罪のない人だけが永遠の天国へ行くのです。それでは誰が天国へ行けるのでしょうか?…本来は誰も天国へ行くことは出来ないのです。なぜならすべての人が罪を犯した罪人だからです。
 ローマ人への手紙1章には罪のリストがあります。
ローマ1:29 彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、
1:30 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、
1:31 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。
1:32 彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。

 これを読んで自分は一つも当てはまらないと言える人はいないはずです。悪いことだと分かっていても、人間だから仕方ないと諦め、罪を行う人に同意しているのです。
 私たちは悪者をやっつける正義の味方、ヒーローが大好きですが、自分はどうかと言うなら嘘を平気でついたり、物を盗んだり、文句ばかりの毎日であったりします。正義のヒーローにあこがれるのですが、自分は悪事を行ってしまいます。自分のうちに悪が宿っていることを知るのです。「義人はいない、一人もいない」…聖書の教えです。

 しかし神様はそのような罪深い私たちを愛しておられるとも聖書は教えています。たとえ救いようのない極道であっても、人には赦してもらえない大きな罪を犯した人でも、神様は愛されています。神様は地獄のさばきから罪人を救いたいと願っておられます。それは神様のあわれみであり恵みなのです。それゆえ神様は御子イエス・キリストによって救いを備えられました。神様は私達が受けなければならない罪の刑罰をイエス・キリストに負わせました。キリストは十字架に架かり、私達の身代わりとなって血を流し死なれたのです。したがってイエス・キリストを信じる人は、キリストによって備えられた罪の赦しを与えられるのです。その証明がキリストの復活です。キリストが墓の中から三日目によみがえられたことにより、神の救いが明らかになり、罪人が赦され永遠のいのちが与えられることが明示されたのです。

Tコリント15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
15:21 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。
15:22 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。



 ですからイエス・キリストの復活は神様の愛によるご計画であり、さばかれるべき罪人にとって唯一の希望なのです。その救いを受ける方法も唯一であり、キリストを信じる信仰によるのです。どうか、神様があなたに与えようとしている救いを拒まないでください。あなたの心を開いて神様の福音を信じてください。罪を赦された人となり、本当に幸せな人となってください。

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※補足 イースターはクリスマス同様、正確な日にちではなく、異教の影響があるので、クリスチャンはその日を祝うべきではないと考える人たちがいます。信仰の原点に立つならその考えは正しいことだと思います。クリスチャンにとって毎日がキリスト復活を祝う日であり、キリスト誕生を祝う日であるべきです。それでも人は日を決めて出来事を祝うということをしてきました。誕生日、建国記念日、母の日、父の日、こどもの日…と、毎日祝うべきことを日を決めて祝います。(旧約聖書では、贖罪日、過越の日、仮庵の祭りなど日を決めて祝うことが定められています)ですから、キリストの誕生日、復活を日を決めて祝うことも決して間違いではないでしょう。ただ、正確な日にちが分からないことが問題ですが、分からないから祝わないとするのは残念なことです。実の誕生日が分からない人がいる場合、ある日を誕生日と定めて出生届を出しお祝いするように、キリストの誕生日を定めて祝うことは問題のないことだと考えます。しかし「私はこの世の慣習に従って、違う日をお祝いしたくない」と考える人たちの信仰は非難されるべきではありません。