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心に響く聖書の言葉


ヨハネによる福音書12章12-19節 「エルサレム入城」


 本日の聖書箇所は「エルサレム入城」と呼ばれ、イエス・キリストが公にエルサレムへ入られる場面です。約束されたメシア(救世主)、ダビデの王座を継ぐイスラエルの王としてエルサレムへ入城されたのです。そしてここからイエス・キリストの公生涯最後の一週間が始まります。
 新約聖書の中で、しばしばイエス様が本来のあるべき姿を現されます。家畜小屋で誕生されたときには、東方の博士たちによって礼拝されました。バプテスマを受けられたときには、天からの声があり、「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と神の御子として示されました。ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れて高い山へ登られたときには、御姿が変わり、「御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。」と書いてあります。エルサレム入城は、栄光の主、エルサレムの王としての本来の姿なのです。

1.イスラエルの王としてのエルサレム入城

 それは日曜日でした。過越の祭をひかえ、エルサレムの町は巡礼のために集まってきた人々でごった返していました。イエス様がラザロをよみがえらせたというニュースはエルサレムで知れ渡っていたのでしょう。イエス・キリストがエルサレムに入られると、人々は「待ち望んでいたメシアが来られた!」と大喜びし、「ホサナ!」とさけびつつイエス様を迎え入れました。
12:12 その翌日、祭りに来ていた大ぜいの人の群れは、イエスがエルサレムに来ようとしておられると聞いて、
12:13 しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」

12:14 イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。
12:15 「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」
12:16 初め、弟子たちにはこれらのことがわからなかった。しかし、イエスが栄光を受けられてから、これらのことがイエスについて書かれたことであって、人々がそのとおりにイエスに対して行ったことを、彼らは思い出した。
12:17 イエスがラザロを墓から呼び出し、死人の中からよみがえらせたときにイエスといっしょにいた大ぜいの人々は、そのことのあかしをした。
12:18 そのために群衆もイエスを出迎えた。イエスがこのしるしを行われたことを聞いたからである。
※「ホサナ」とは、イスラエルの民がエルサレムへ巡礼するときに用いた詩篇118:25に出てくる《ホーシーアー・ナー》へブル語(主よ、今どうぞ救ってください)が、捕囚時代にアラム語を話すようになったため、「ホーシャナー」というアラム語となり、後にギリシャ語で「ホサナ」になったものです。次第にその言葉の意味も変わり、「万歳!」というような褒め称える歓喜の言葉として用いられるようになりました。
※棕櫚(しゅろ)とは、日本語翻訳時に棕櫚と訳されましたが、本来はナツメヤシの枝のことです。


 4人の福音書の著者は口をそろえて、このエルサレム入城を旧約聖書の詩篇118篇の預言の成就、そして「イスラエルの王がロバの子に乗って来られる」というのは、ゼカリヤ9章9節の預言の成就だとして記しています。ただしゼカリヤ9章10節の預言はまだ成就されていません。
ゼカ9:9 シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。
9:10 わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶やす。戦いの弓も断たれる。この方は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る。

 「ロバの子に乗って来られる王」と言うのは、実際はありえない滑稽な姿です。ロバは通常は荷物を運ぶ家畜でした。王様や兵隊は馬に乗るものです。「ロバの子に乗って来られる王」とは普通ではなく、一目で誰もが「このお方だ!」と分かるしるしです。ちょうどイエス様が誕生されたときに、羊飼いたちに語られた御使いの預言のことばに似ています。
ルカ2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」

 「家畜小屋の飼い葉おけに寝ている赤ちゃん」など、めったにいるものではありません。だからしるしなのです。ここでも同じです。ロバの子は大人を乗せるには不釣合いです。おそらく、ふらふらしながら今にも倒れそうな感じでの行進であったでしょう。そんな不滑稽な王様はめったにいるものではありません。ですから旧約聖書はまさにイエス・キリストのエルサレム入城を預言していたのです。
 また、「ロバの子に乗られる王」とは、イエス・キリストが権力や武力によって支配する王ではなく、平和の王として来られたことを表わしているでしょう。武器を持たず、兵隊も伴わず、その代わり漁師たちや女性たち、貧しい人たち、罪びとたちを伴っての行進でした。それは平和の王としての象徴です。「エルサレム」とは、訳すと「平和の町」または「平和の基礎」という意味です。その言葉のとおり、平和の王としてイエス・キリストはエルサレムへ入城されたのです。

 もしもイスラエルがイエス・キリストを王として迎えたのなら、ゼカリヤ9章10節の預言も続けて成就したことでしょう。しかし、イエス・キリストには別の目的がありました。それはすべての人間が受けるべき罪の刑罰を、身代わりとなって受けるため十字架にかかるという目的です。この目的のため、捕らえられたときにも反抗せず、裁判にかけられたときには何も弁護されず、十字架の道を歩まれました。ですから、イスラエルに対するゼカリヤ9章10節の預言は延期されました。9節と10節の間に教会時代が入ったことになります。この教会時代は預言者ゼカリヤには隠されていたのです。

 今は歴史が動いている時だと思います。世の終わりが近いときです。弟子たちがイエス様に「世の終わりの前兆は何ですか?」と質問したときがありました。
マタイ24:3 イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」
24:4 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
24:5 わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。
24:6 また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。
24:7 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。
24:8 しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。
24:9 そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。
24:10 また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。
24:11 また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。
24:12 不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。
24:13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。
24:14 この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。


 聖書は終わりの時代には、多くの戦争、飢饉、地震が起こると預言しています。それが今、現実に起きていますし、さらに多くの問題を抱えています。人口増加による食料危機の問題、大気汚染、特にオゾン層破壊などの環境破壊の問題があり、自然が壊れかけています。そのため人間にとって脅威となる新たなウイルス性の病気が増えています。資源の問題も深刻で、利権をめぐって国と国との対立が深まるでしょうから、第三次世界大戦が近いと分かります。聖書には世界を征服する支配者、反キリストの出現が預言されています。反キリストはヒットラーが行ったようにユダヤ人を迫害し、虐殺します。反キリストは世界を支配し、偶像礼拝を強要し、世界は大混乱となります。その混乱のさなかに、イエス・キリストは再臨し、反キリストとその勢力を滅ぼされます。そしてそのときこそ、イエス・キリストが預言の通りにイスラエルを救い、世界に平和をもたらされるのです。

2.反対者たちのあせり

12:19 そこで、パリサイ人たちは互いに言った。「どうしたのだ。何一つうまくいっていない。見なさい。世はあげてあの人のあとについて行ってしまった。」

 多くの群衆がイエス・キリストのエルサレム入城を喜び迎えたことに、パリサイ人たちはあせりました。彼らは群衆の手前、公然とイエスを捕らえる事が出来なくなってしまいました。それで彼らはイスカリオテ・ユダを買収し、暗がりの中でイエス・キリストを捕らえる計画を立てました。4日後にはイエスを捕らえて裁判にかけ、翌日には十字架刑に処してイエスの遺体を葬ってしまいました。まさにあっという間の出来事でした。それは民衆の暴動を恐れてのことでした。自分たちの権威の失墜を恐れるあまり、メシアが来られたのに受け入れず、自分たちの利益のことしか考えない指導者たちでした。
 さらにこの後、群衆がとった態度にも私たちは失望します。彼らも十字架刑に反対しなかったのです。エルサレムへ入城されるイエス様を喜び迎えたのに、4日後の裁判では「十字架に付けろ」という指導者たちの扇動の声に誰も反対できませんでした。反対するどころか同じように「十字架に付けろ」と叫んだのです。群衆は「メシアが来られた!」と喜んでいただけに、イエスが捕らえられ、鞭打たれてぼろぼろになった姿を見たとき、多くの人々はがっかりし、「うそつきだ、ペテン師だ」と手のひらを返したのでした。

 19節の口語訳は「何をしても無駄だった」と翻訳されています。直訳すると「何も益となっていない、何も役に立っていない」です。これは前回の聖書箇所で、マリヤがナルドの香油を一度にイエス様に注いだとき、イスカリオテ・ユダが「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」と言った言葉と同じだと気づきます。「無駄な使い方をするな、役に立たないではないか」と。それはこの世界の人々の基準なのです。有益なもの、役に立つものは尊ばれ、益にならないもの、役に立たないものは捨てられます。そしてそれが人間にも適応されてしまうときに悲しい現実を見ます。有能な人、有益な人は尊ばれ、無力な人、無益な人はさげすまれます。しかし、イエス・キリストの救いに預かり、神様の存在を知るなら、すべての価値は変わります。苦しむことも、失敗することも、無駄ではありません。遠回りすることも休むことも大切なことだと知ります。私たちの生涯を導かれる創造者の内にあることを知るなら、すべてのことが益と変えられると知ります。自分は罪深く無価値だと思っても、「あなたは高価で尊い」と神様は言ってくださるのです。
 イスラエルの民衆は一時的でしたがイエス・キリストを受け入れて彼のエルサレム入城を喜びました。もし私たちが信仰によってイエス・キリストを「救い主」として受け入れ、神の真理を知るなら、神の平和が与えられます。その平和は災害や迫害によって取り去られることのない平和です。なぜならイエス・キリストは平和の王だからです。

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