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心に響く聖書の言葉


ヨハネによる福音書13章1-20節「弟子たちの足を洗われる主」


 本日の聖書箇所は、最後の晩餐の場面です。「最後の晩餐」というと、レオナルド・ダ・ビンチが描いた聖画のおかげでクリスチャンでない方々もよくご存知の場面です。ただ、ダ・ビンチが描いたように椅子に座っての食事ではなく、当時は肘をついて横になりながらの食事が一般的だったようで、雰囲気はまったく違っていたと思われます。

1.過越の祭りの前に

13:1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。
 13章1節で「過越の祭りの前に」とヨハネは記しています。しかし他の3福音書では、最後の晩餐は過越の食事だとされています。つまりイエス様と弟子たちは一日早く、独自の立場で過越の食事をされたことになります。そして翌日にイエス様は十字架に架けられました。この最後の晩餐が「過越の食事である」ということが重要なことです。
 過越の祭りについて詳しく述べておいたほうがよいでしょう。イスラエルがエジプトで奴隷として仕えていた時代に、神様がモーセを指導者として立てられ、十の災害を持ってイスラエルをエジプトから救い出されました。その時の最後の災害は「すべての家の初子、家畜の初子はさばかれて死ぬ。」というものでした。しかし家のかもいと門柱に子羊の血を塗るなら、神のさばきはその家を過ぎ越し、その家の中にいる初子は救われました。イスラエルの全家族は主が命じられたとおり子羊の血を塗りました。しかしエジプトの人々は血を塗らなかったので、神のさばきによって彼らの初子はすべて息絶え、エジプト全土で泣き叫ぶ声が上がりました。そしてこの神のさばきを通して、イスラエルはエジプトから救い出されました。これを記念し、お祝いするのが過越の祭りです。

 イエス・キリストが十字架に架けられ死なれるのは、「過越の祭り」の時であることが父なる神様の御計画でした。それは過越が神様のさばきの時であり、同時に救いの時だからです。人々が救われるために必要なのは子羊の血でした。子羊がほふられなければならないのです。イエス・キリストはそのほふられる子羊となって血を流し、その血によって私たちは神のさばきから救われるのです。つまり、過越の祭りははじめからイエス・キリストの十字架を示していたのです。
 子羊がほふられたのは、過越の食事の前でした。人々は子羊の血をかもいと門柱に塗らなければなりませんでした。イエス・キリストが十字架に架けられ殺されたのは、過越の祭りが始まる前でした。イエス・キリストは過越のためのほふられる小羊となられたのです。※次のページを参照してください。過越の祭りと十字架の日付

2.弟子たちの足を洗われる主

13:2 夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、
13:3 イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ、
13:4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13:5 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。
13:6 こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」
13:7 イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」
13:8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」
13:9 シモン・ペテロは言った。「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
13:10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」
13:11 イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない」と言われたのである。
13:12 イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。
13:13 あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。

 ヨハネは、イエス様が「この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」と1節で記しました。イエス様は立ち上がり、上着を脱いで手拭いを腰にまとわれ、そして弟子たち一人一人の足を洗われました。それは当時では召使いがする仕事でした。この最後の晩餐の席には召使いが誰もいなかったのでしょう。そのため、皆の足は汚れたままでした。それで主は立ち上がって、12弟子の足を洗い始められたのです。

 ペテロはイエス様に足を洗ってもらうことなんてもったいないという思いから「決して私の足をお洗いにならないでください。」と頼みます。それは純粋なペテロの言葉でしょう。しかし、主は「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」と語られました。ペテロはそれだったら「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」と頼みます。その時、イエス様は彼に言われました。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。」

 この聖書箇所では二つの大きな神学的問題が生じています。
@ バプテスマの問題
A 洗足式の問題
 両方とも、教会の礼典式に関わる重要な問題です。バプテスマの問題とは、「水のバプテスマによって罪が清められるのか?」という問題です。10節「水浴したものは、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです」―ーこの箇所で「水浴」を、多くの聖書学者はバプテスマ、洗礼の事であると解釈し、洗礼によって人は罪から清められて全身が聖くされると教えています。そのため日本では「洗礼」という言葉が用いられるようになりました。しかし、新改訳聖書では「洗礼」ではなく「バプテスマ」という語を用いています。バプテスマは信じて救われたものが、主イエスの十字架によって救われたことの証しとして、主の命令に従って受けるものであって、罪を赦されるためや、罪を洗い清めるための儀式ではありません。それは聖書の中で「救いは信仰による」と繰り返し教えられているからです。ヨハネによる福音書はこれを多くの箇所で強調しています。
1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。
6:40 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。
11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」

 この実例として挙げられるのが、イエス様とともに十字架に架けられた強盗の一人です。イエス様の右に架けられた強盗はその苦しみの中でイエス・キリストを信じました。彼にはバプテスマを受ける時間はありませんでした。しかし、イエス様は彼の救いを宣言されました。「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」したがって救い(罪の赦し)は信仰によってのみ与えられるのであって、バプテスマによるものではありません。

 ただ、水のバプテスマを受けることがキリスト者にとって無意味だというのではありません。それは主の御言葉に従うキリスト者の第一歩であるからです。前回の聖書箇所では、イエス様を信じた人たちの多くが告白をしなかったことをヨハネは嘆いていました。神様の御心は、私たちが福音を信じて、口で告白してバプテスマを受けることです。ですから、イエス・キリストを信じて救われた人は、ぜひバプテスマを受けてその信仰を告白していただきたいのです。

 二つ目は洗足式の問題です。洗足式を礼典として定めている教会は次の御言葉に基づいています。
13:14 それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。
13:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。

 カトリック教会、聖公会をはじめとして、多くのプロテスタント教会でも洗足式を礼典として行っています。しかしイエス様が命じられた内容をよく読むと、「足を洗い合う」ことに焦点が置かれてはいません。ルカによる福音書22章24節では、最後の晩餐の時に弟子たちの間で「この中で誰が一番偉いだろうか」という論議が起こったことが書いてあります。そのような弟子たちのさもしい心を知られたイエス様が、召使いがする仕事であった足洗いを自ら進んで行われたのです。つまり、「足を洗い合いなさい」ではなく「仕え合いなさい」ということが、ここでのイエス様が意図されたことです。現代では足を人に洗ってもらう習慣はありませんし、足を洗い合うことが仕え合うことになるとは考えられません。かえって足を洗ってもらうことは恥ずかしく、嫌な思いを持つ方もおられるでしょう。そのため「足を洗い合うこと」は現代では「我慢し合うこと」になってしまいます。また洗足についてはこの聖書箇所でしか言及されておらず、その後、弟子たちが洗足をしたとか、洗足式が教義として述べられている聖書箇所が一か所もないことは、洗足式を聖書が礼典として認めていないことの証明だと考えられます。

3.主イエスの願い

 この二つの問題は教会にとって礼典に関わる大きな問題であり、正しく理解されなければならないことです。しかし、解釈の問題で互いに非難しあうことは神の御心ではありません。イエス様が弟子たちの足を洗われた本当の目的は、弟子たちにご自分の愛を示すことでした。
13:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。
13:16 まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。
13:17 あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです。
13:18 わたしは、あなたがた全部の者について言っているのではありません。わたしは、わたしが選んだ者を知っています。しかし聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた』と書いてあることは成就するのです。
13:19 わたしは、そのことが起こる前に、今あなたがたに話しておきます。そのことが起こったときに、わたしがその人であることをあなたがたが信じるためです。
13:20 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。」
 イエス様の願いは、私たちがイエス様の愛を受けて、私たちも互いに愛し合い、仕え合うことです。主であり、師であるお方がへりくだり、仕える者となって模範を示してくださったのですから、その弟子である私たちも同じように仕え合うのです。そして互いに仕え合うなら、そのことによってあなたがたは祝福されるのだとイエス様が約束されています。

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