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心に響く聖書の言葉


ヨハネによる福音書19章1-16節「この人を見よ」

 前回は18章の後半、イエス様とローマ総督ポンテオ・ピラトのやり取りの箇所でした。面倒なことに関わりたくない総督ピラトに対し、イエス様はピラトの目を永遠に向けさせ真理に導こうとされました。ピラトは最後に、「真理とは何ですか」と尋ねました。正義に基づいて裁く立場にあるピラトが、犯罪人として裁かれているイエス・キリストに「真理とは何か」と問うことは、滑稽なことです。総督ピラトはイエス・キリストに聖さと正しさを見出したに違いありません。ピラトはイエスを釈放しようと努めます。彼がとった最初の策は、過越の祭の時に犯罪人を一人釈放する慣例によってイエスを釈放しようとしました。しかし、ユダヤ人はそれを拒否し、バラバの釈放を要求しました。(バラバは当時、名の知れた囚人であったのでしょう。ローマ帝国の支配に抵抗する人々をローマは逮捕監禁していましたので、バラバもそのような政治犯の一人であったと思われます。参照;ルカ23:18)それでピラトは次の策を計画しました。それが今日の聖書箇所です。

1. むち打ちの刑

19:1 そこで、ピラトはイエスを捕らえて、むち打ちにした。
19:2 また、兵士たちは、いばらで冠を編んで、イエスの頭にかぶらせ、紫色の着物を着せた。
19:3 彼らは、イエスに近寄っては、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と言い、またイエスの顔を平手で打った。

 当時のローマ帝国において、むち打ちの刑に使用するむちはフラグラムと呼ばれ、硬い骨や金属片を編み込んだものでした。このむちで打たれると皮膚と肉が裂けるほどで、自白させるための拷問の道具としても使用されていました。失神したり、死亡する人も少なくなかったようです。むち打たれたイエス様の背中の皮膚はほとんど剥がれ落ち、背骨が現れ、血だらけになっていたことでしょう。

2.いばらの冠

 兵士たちは「イエスがユダヤ人の王だと自称している」と知り、いばらで編んだ冠をかぶらせ、王の服に似せて紫色の服を着させました。そしてイエス・キリストをあざけりなぶりました。いばらのとげは固く、皮膚を突き刺します。そのいばらで編んだ冠を無理やりにかぶらされるのですから、激痛だったでしょう。ここでの兵士たちの態度は、弱者に対する人間の高慢と醜さを現わしています。全く抵抗できない人に対して、何をしても許されるなら、人間はどこまでも非情になれるものです。兵士たちはイエス・キリストに対して何の恨みを持ってはいませんでした。しかし彼らの態度はまるで虫けらをもて遊ぶかのようです。もし、彼らが個人的な恨みをイエス・キリストに持っていたなら、さらに残酷な行動をとっていたに違いありません。

 戦争という名のもとにどれほど非道なことを人間は行なってきたことでしょう。身近なことでは、いじめの問題があります。弱者に対して集団でいじめを行います。対象となる人は誰でもよく、自分達の優位性を誇示するために弱者にひどい言葉を浴びせ、嫌がらせをし、暴力を振るいます。なぜ人はこれほどまで冷酷になれるのでしょう?・・その根本的な理由は、人が神様を知らず、神様を恐れないからです。もしも神様がすべての人を愛しておられるという真理を知っているなら、どうして人を虐待することができるでしょう。神様がすべての人に福音を告げ知らせ、救われることを願っておられるのに、どうしてその人を滅ぼそうとすることができるでしょう。神様がすべての人を正しくさばかれることを知っているなら、私たちはこの兵士たちがとったような残忍なことを決してしないはずです。

3.十字架刑

19:4 ピラトは、もう一度外に出て来て、彼らに言った。「よく聞きなさい。あなたがたのところにあの人を連れ出して来ます。あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるためです。」
19:5 それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。するとピラトは彼らに「さあ、この人です」と言った。


 ピラトは取り調べの結果、イエスに何の罪も見当たらないことを宣言しました。それでもあえてイエスをむち打ちの刑に処し、無残に傷つき哀れな格好をしたイエスをユダヤ人の祭司長、役人たちの前に引き出しました。そして「この人を見よ」とピラトは叫びました。 (新改訳では「さあ、この人です」と訳されていますが、直訳のほうがよいでしょう。「この人を見よ」・・この言葉は多くの人の心に残り、多くの聖画の表題としても用いられています。)
 ピラトの目的は、傷だらけとなった哀れなイエス・キリストの姿を見させて、ユダヤ人たちの同情とあわれみを買い、イエスを釈放することでした。しかしピラトの思惑とは異なり、ユダヤ人指導者たちは「十字架につけろ!」と激しく叫びました。

19:6 祭司長たちや役人たちはイエスを見ると、激しく叫んで、「十字架につけろ。十字架につけろ」と言った。ピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、十字架につけなさい。私はこの人には罪を認めません。」
19:7 ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば、死に当たります。」
19:8 ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れた。
19:9 そして、また官邸に入って、イエスに言った。「あなたはどこの人ですか。」しかし、イエスは彼に何の答えもされなかった。
19:10 そこで、ピラトはイエスに言った。「あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」

 ピラトがいかにイエス・キリストを釈放しようと努めたかがわかります。ピラトはユダヤ人たちの言葉を聞いた時に恐れたと書いてあります。彼はローマ皇帝から任じられたユダヤ地方の総督でしたので、ユダヤでは最も高い地位にありました。その彼が何を恐れたのでしょう?・・総督であるピラトはイエス・キリストを釈放したいと思いました。無実の人を処刑することは彼の良心に反することでした。しかし、もし釈放するならユダヤ人の暴動を引き起こしてしまい、ローマ皇帝に知られるなら総督という地位から失脚してしまうのです。ですからピラトは恐れたのです。自分の良心と自分の名誉とを天秤にかけ、どちらかを失うことを恐れました。彼は揺れ動く心境の中で、もう一度イエス・キリストを取り調べます。「いったい、あなたはどこから来た人なのか?」と。しかし、何も答えないイエスにムッとしつつ、「わたしにはあなたを釈放する権威があるのだぞ」と凄んでいます。この時のイエス様のピラトに対する答えは注目に値します。
19:11 イエスは答えられた。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです。」
 ここにはピラトに対するイエス様の心遣いが示されています。「たしかにあなたはわたしを釈放する権威、十字架につける権威を持っているのだが、もし父なる神から総督の地位を与えられていなかったら、あなたにはその権威はなく、判決を下すことはなかったでしょう。あなたは仕事としてこのことをしているのだから、その罪は小さいが、わたしを処刑しろと要求したユダヤ人指導者たちの罪は大きいのです」これがイエス様のことばの真意でしょう。良心のゆえに苦しんでいるピラトへの優しさです。ですからピラトは最後までイエス様を釈放しようと努力したことをヨハネは記しています。
19:12 こういうわけで、ピラトはイエスを釈放しようと努力した。しかし、ユダヤ人たちは激しく叫んで言った。「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです。」
19:13 そこでピラトは、これらのことばを聞いたとき、イエスを外に引き出し、敷石(ヘブル語ではガバタ)と呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。
19:14 その日は過越の備え日で、時は第六時ごろであった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「さあ、あなたがたの王です。」
19:15 彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」
19:16 そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるため彼らに引き渡した。

 それでもユダヤ人指導者たちのイエスを処刑したいという野望はおさまりませんでした。その理由はイエスが自分を神の子であると証言したからです。彼らには神に対する冒涜としか映りませんでした。それなのに多くの民衆がイエスのことばを信じ従ったことを腹立たしく思ったのです。処刑したいという彼らの本当の理由はねたみでした。指導者である自分達を差し置いて、人々を教え導いたイエス・キリストに対するねたみでした。彼らはイエス・キリストを葬り去るためには手段を選びませんでした。12弟子の一人、イスカリオテ・ユダを買収し、裏切らせました。そして、ピラトが「あなたがたの王をわたしが十字架につけるのですか?」と問われた時には、「カイザルのほかには私たちに王はありません」と普段なら口が裂けても言わないことさえ言ってしまったのです。とうとうピラトはイエス様を釈放することをあきらめ、十字架につけるためにユダヤ人たちに引き渡しました。

4.十字架のかげに

 聖書がここで私たちに問うていることは、「あなたがこの群衆の中の一人だったなら、あなたはどうしたでしょうか?」ということです。「十字架につけろ。十字架につけろ!」という怒号が飛び交う中、あなた一人だけでも「わたしは罪人ではない人を処刑することには反対です」と言うことができるでしょうか?おそらくそう言った途端にあなたは憎まれ者、迫害の対象になるでしょう。その覚悟ができるでしょうか。おそらく私には無理だったでしょう。だからこそ私もイエス・キリストを十字架につけた一人だということができます。ですからこの「十字架につけろ」と叫んだ群衆の中に自分の姿を見出します。弟子たちと同じように十字架のかげに隠れて成り行きを見ている自分を見出します。ピラトのように真理よりも自分を愛する自分を見出します。
 しかし、聖書は私たちに言います。「この人を見よ」と。辱められ、ぼろぼろになったイエス・キリストの姿を見なさいと聖書は言います。手に大釘を打たれ、十字架に磔にされ、血を流し槍で刺し通された救い主の哀れな姿を見なさいと聖書は言います。主イエスが受けられた辱めと苦しみ痛みは、あなたが受けなければならない罪の刑罰であったのです。
 しかし、神様に感謝します。イエス・キリストは死とよみに勝利され、墓の中より三日目によみがえられ、今、私たちに福音が宣べ伝えられています。「主イエスを信じる者には永遠のいのちがある」と宣言されています。信仰によってイエス様とともに私も十字架にかけられて死に、イエス様とともによみがえったことを知るのです。そして御霊によって新しく生まれました。それで今は十字架のかげに守られている自分を見出すのです。

 かつては「十字架につけろ」と叫んだとしても、イエス・キリストを信じて救われた今、クリスチャンの皆さんは、「イエス様には何の罪もありません。イエス様は私の救い主です」と胸を張って証言しましょう。周りの人から迫害されても証言しましょう。聖歌の396「十字架のかげに」は、次の歌詞がついています。

 十字架のかげに いずみわきて
 いかなる罪も きよめつくす
 おらせたまえ この身を主よ
 十字架のかげに とこしえまで

 十字架のかげに ゆきしときに
 み神の愛を さとりえたり
 おらせたまえ この身を主よ
 十字架のかげに とこしえまで

十字架こそキリスト者の誇りです。十字架のあがないに感謝しつつ歩みましょう。

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