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心に響く聖書の言葉


ヨハネによる福音書21章1-14節「祝福された魚」

1.漁に出かける弟子たち

 部屋の扉を固く閉ざし、迫害を恐れていた弟子たちに、二度イエス様は現れてくださいました。そして今日の聖書個所では弟子たちの前に現れるのは三度目であるとヨハネは記しています。教会でシンボルマークとして用いられる魚を御存知でしょうか?これは魚をギリシャ語でΙΧΘΥΣ(イクソス)と言い、それを頭文字としてΙησουs、Χριστοs、Θεου、Υιοs、Σοτερ (ギリシャ語でイエス、キリスト、神の、子、救世主)を表します。初期のキリスト者が迫害下にあって信仰の表明として魚のマークを用いたのでした。
 イエス様の伝道はガリラヤで始まり、ガリラヤ湖の漁師であったペテロたちを弟子にされました。それ以降も魚は聖書の中の重要な出来事と関連して幾度も登場するので、魚マークは新約時代の教会の象徴となりました。

21:1 この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現された。その現された次第はこうであった。
21:2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。
21:3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。
 どうして弟子たちはガリラヤ湖へ漁に出かけたのでしょうか?イエス様が二度目に現れたとき、彼らは宣教命令を受けたはずです。それなのになぜ彼らは再び漁師に戻ってしまったのでしょうか?ーーおそらく弟子たちは聖霊がくだるまでの間、イエス様に命じられたとおりエルサレムに留まっていたのでしょう。
ルカ24:49 さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」
 しかし彼らは収入もなく次第に食べるにも困っていったに違いありません。迫害を恐れて宣教も思うようにできない状況でした。ですから彼らは食料を得るために100キロも離れたガリラヤ湖に戻り、一時的にしろ漁をして食料と収入を得なければならなかったという現実があったのです。「あなたがたを人間を獲る漁師にしてあげよう」とのイエス様のことばに従い、網を捨ててイエス様に従った弟子たちにとって、再び漁へ出るのは惨めで情けないことだったはずです。「私は漁に行く」というペテロの言葉には止むに止まれぬ事情があったのです。

2.何も獲れない漁師たち

21:3 ・・・しかし、その夜は何もとれなかった。
21:4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。
21:5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」
21:6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。
21:7 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。
21:8 しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。
 そんな一大決心で出かけたガリラヤ湖ですが、プロの漁師たちが一晩中網を打っても何も獲れませんでした。彼らは疲れと空腹でフラフラの状態だったでしょう。さらに一匹も獲れないという苛立ち。魚を味わうはずが、彼らが味わったのは惨めさだけでした。
 夜が明け染めた時に、岸から叫び声が聞こえました。
「子どもたちよ、食べるものがありませんね」
 弟子たちはどこのお爺さんかと思いながら「はい、ありません」と答えました。すると、
「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」という声。
 「何をバカなことを!」とペテロたちは思ったでしょう。しかし同じような事が三年ほど前にもあったという記憶が弟子たちの脳裏に浮かんだはずです。

「彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。」

 そのときにフラッシュバックしました。以前にもまったく同じ出来事がありました。それはイエス様のことばだったことを思い出し、岸にいるのは復活されたイエス様だと弟子たちは気づいたのです。
『主です』という言葉に反応してペテロは湖に飛び込みました。さすが行動力のペテロです。ただ理解に苦しむのは、わざわざ服を着て飛び込んだことです。海に飛び込むのにわざわざ服を着る人はいないでしょう。なぜペテロは服を着たのでしょうか?ーーおそらくペテロはイエス様にお会いするのに裸では失礼だと思ったのでしょう。以前のペテロなら服を着ることなどしなかったはずです。しかし復活されたイエス様にお会いして、イエス様をメシア、ユダヤ人の永遠の王、恐れ多い主として理解したからです。「復活の主に再びお会いできる!」と彼は服を着てガリラヤ湖へ飛び込んだのです。

21:8 しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。
 舟が小さかったために他の弟子たちは網を引き揚げることができず、舟で網を引いて岸までやってきました。大きな魚が153匹もかかっていたのに網は破れませんでした。ガリラヤ湖には「聖ペテロの魚・セントピーターズフィッシュ」と呼ばれるティラピアをはじめ、20種類あまりの魚が生息しています。ガリラヤ湖畔のレストランでは観光客のためにこのペテロの魚が看板メニューとなっているそうです。

3.訓練される弟子たち

 この三度目のイエス様の顕現には多くの意味があります。
◎まず復活が幻ではなく事実であることを弟子たちに示されました。二度ではなく三度現れ、復活した事実を確実に示されました。
◎大きな魚が153匹もとれたことにより、彼らはそれを売って収入としたことでしょう。それは当面の彼らの生活費として用いられたはずです。「主の湖には備え有り」
◎惨めさを味わっていた弟子たちにとり、大きな励ましとなりました。
◎なによりも弟子たちの訓練のためでした。このあとイエス様抜きで彼らは宣教していかなければなりません。その宣教において最も大切なことを弟子たちは教えられました。それは主のことばに従うという事です。自分の考えや判断なら「一晩中網を打っても何も取れなかったのだから、舟の右でも左でも駄目なものは駄目だ!」となるでしょう。しかし、主のことばに従う時、それは偉大な御業となりました。福音宣教は自分自身のためではなく、生活の安定や誉められることを求めて行うものではありません。福音宣教は、あなたを愛し、あなたの身代わりとなって十字架で死なれ、よみがえられた主イエスのことばに従うことです。

21:9 こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。
21:10 イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」
21:11 シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。
21:12 イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねる者はいなかった。
21:13 イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。
21:14 イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現されたのは、すでにこれで三度目である。

 イエス様はお腹を空かせた弟子たちのために、炭火と魚とパンを用意しておられました。すでに食事の準備はイエス様がしてくださっていたのです。しかし、あえてイエス様は弟子たちが獲ってきた魚も幾匹か持って来させます。もし、イエス様が全員分の魚をあらかじめ用意しておこうと望まれたなら、当然お出来になられたでしょう。しかし、あえて弟子たちの獲った魚を持って来させました。ここには霊的な意味があります。この食事も、これから弟子たちが行っていく福音宣教を表しているのです。イエス様がすべてを準備してくださいました。かまどを造り、炭火を起こし、パンと魚で食事の準備が整えられました。福音宣教の準備もイエス様がしてくださいました。語るべき父なる神様の御言葉をすべて伝えられました。なすべきしるしをすべて行われました。父の御心に従い、十字架に架かり人々の罪の贖いを完成されました。そしてイエス様が用意されたのは12人の弟子たちでした。一人は欠けてしまって11人になっていましたが、イエス様はこの11人の弟子たちによって教会時代の宣教準備を整えられたのです。そしてそれに加えるのが弟子たちが獲った魚なのです。
 「あなたがたを人間を獲る漁師にしてあげよう」と言われたイエス様でしたが、ここで再びペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネたちの原点、スタートラインであったガリラヤ湖に戻り、実際の大収穫の魚を目の前にしながら「あなたがたを人間を獲る漁師にしてあげよう」と彼らに約束し、彼らを遣わそうとされているのです。
 ※これは9−10節の霊的解釈のし過ぎでしょうか?ーーそうは思いません。復活の主が弟子たちとともに収穫した魚をともに味わい、喜びを分かち合ったのは、これからの弟子たちの宣教の大きな象徴です。「魚には神様の時別な祝福があるので必ず食べましょう」と言ったり、「153匹の魚の数に特別な意味がある」と言うのは霊的解釈のし過ぎです。

 もう一度思い描いてください。迫害を恐れて宣教に踏み出せず、生活に困って仕方なく漁に出かけた弟子たち、一晩中網を打ったのに一匹も取れないむなしさ。しかし主イエスのことばに従った時、弟子たちは祝福と喜びを味わいました。クリスチャン生活の基本は主の御言葉に従うという事です。そして主の御言葉に従うためには、まず主の御声を聞くことです。
 「あなたがたを人間を獲る漁師にしてあげよう」ーーすべての信仰者に語られている御言葉です。もし、あなたが主の御言葉によって心動かされ、生涯をささげて主に仕えたいという思いが与えられたなら、その導きに従ってください。

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