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心に響く聖書の言葉


キリストの証人となる 使徒の働き1章1-14節



 イエス様の御生涯の最期は、私たちの罪の身代わりとして十字架に架かって死なれ、葬られ、そして墓より三日目によみがえられました。それは偶然起こった出来事ではなく、この世界が始まった時から計画されていました。創造主である神様がこの地上に人間を創造され、人間が罪を犯して堕落してしまった時から神様は贖いのご計画を立てられ、預言のことばを与えて人々に示してこられました。

「罪の赦しがある」
ーーこれが聖書の教えであり、福音です。だれでも神を信じ、イエス・キリストの福音を信じる者は罪を赦され永遠のいのちを持つと、神様が宣言されているのです。

1.神の国について

 イエス様の御生涯はよみがえられて、それで終わってはいません。続きがあるのです。それが今朝の聖書箇所です。3節を読むと、イエス様はよみがえった後に40日間にわたり、幾度も弟子たちの前に現れ、神の国のことについて語られ、数多くの証拠を持ってご自分がよみがえり生きておられることを示されたとあります。

1:3 イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。

 どんな証拠だったのでしょうか?ーー福音書を読むとわかることは、手の釘あと、脇腹の刺された傷を見せられたことや、魚を食されたことが証拠として挙げられています。当時の人たちは「幽霊は魚を食べない」と信じていたので、復活されたイエス様はあえて魚を食べられたのです。

 ここでイエス様が語られた「神の国」とは何を指しているのでしょう?・・・それは「天国」ではなく「キリストが支配される王国」のことです。それは預言者イザヤ等を通してイスラエルに約束された「ダビデの王座を永遠に継ぐ王が統治される国」のことです。

イザヤ 9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。


 イスラエル民族はこの約束を信じ、王として来られるお方をメシア(救世主)と呼び、待ち望んでいました。ですから、イエス・キリストが現れて、病人を癒し、死人を生き返らせ、ほかにも多くのしるし、奇跡を行われたときに「この方こそキリストだ」と思ったのです。

 エルサレムにロバの子に乗って入城されたときに、民衆はこの方が「約束のメシア」だと信じ、棕櫚の葉を手に「ホサナ!」(原意;救ってください)と叫んで喜び祝ったのです。そしてイエス様がそのままイスラエルの王となられるものと期待していました。しかし神様のご計画はキリストを十字架に架け、罪の赦しを与えることでした。

 イスラエルの人たちはこの十字架の贖いのご計画を理解できず、イエス・キリストが身を退かれたことにがっかりしてしまいました。捕らえられ、鞭打たれて血まみれになった体、いばらの冠をかぶせられたイエス・キリストの姿を見た途端に彼らの目には「この人は救い主でない」と映ったのです。「ホサナ!」という歓声が「十字架につけろ、十字架につけろ」という怒号に変わっていきました。彼らはメシアが支配する王国を熱心に待ち望んでいたので、裏切られたという怒りが「十字架につけろ」と叫ばせたのです。しかし、神様の御心は御子イエスを十字架につけることでした。

 話を元に戻しますが、よみがえられたイエス様が弟子たちに話されたのはこの「約束の王国」についてだったはずです。それで6節で弟子たちは「主よ、今こそイスラエルのために国を再興してくださるのですか?」と尋ねています。しかし、この時も弟子たちの考えとは異なり、神様は新しい時代を用意されていました。恵みの時代と呼ばれる教会の時代です。

2.聖霊について

1:4 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
1:5 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」


「わたしから聞いた父の約束」とは何でしょう?・・それは助け主として与えられる聖霊のことです。

ヨハネ 14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

 では「聖霊のバプテスマ」とはなんでしょう?・・・イエス様は、ヨハネが授けた水のバプテスマと聖霊のバプテスマを対比させて教えられています。ヨハネが授けた水のバプテスマは、今まで犯してきた罪を悔い改め、罪を赦していただき、神様に従うという信仰告白のためでした。川に入っていき全身を水に浸すという方法で行われました。
 バプテスマと訳されたギリシャ語は「バプティゾー」というギリシャ語で、「浸す、漬ける」という意味があります。それは水の中に入りすべての罪を洗い流す(清める)という象徴でした。足の先から頭のてっぺんまで水の中に入ることによって、すべての罪が洗い流されるということを象徴したのです。

 聖霊のバプテスマとはその象徴が実際に起こることです。聖霊のバプテスマによって聖霊に満たされて、すべての罪が洗い流され(洗い清められ)ます。そのとき私たちは新しく生まれるのです。罪を赦され永遠のいのちを持ち、神様の子どもとなるのです。

Tコリント 6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。


 聖霊のバプテスマは生涯に一度だけ、イエス・キリストを信じるときに起こることです。なぜなら助け主である聖霊が私たちの内に宿ってくださると聖書は教えているからです。

エペソ 1:13 この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。
1:14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。


 私はこのエペソ人への手紙の御言葉がとても理解しやすくて大好きです。日本では書類作成の時には常に印鑑を押します。「これは私が同意したことであり、私の意志です」という意味で印鑑を押します。聖霊は神様の印鑑だと言うのです。神様がその人に聖霊という印を押して、「これはわたしの愛する子、この人が罪赦されていることをわたしが保証します」と宣言してくださるのです。

 14節では「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です」とありますが、その保証とは「手付金」という意味のギリシャ語が用いられています。「あなたはまだ御国を相続できない(御国に入れない)けれど、必ず御国を相続できます(御国へ入れる)」ーーそのための手付金として聖霊を与えられたのです。その代償がイエス様の十字架の血でした。

 弟子たちが「聖霊のバプテスマ」のことを聞いたとき、彼らはおそらく十分に理解できなかったはずです。しかし何やらすごいことになるような気がしたのでしょう。「今こそ国を再興してくださるのですか?」と質問しました。イエス様の答えは、

1:7 イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。

「あなたがたは知らなくてもよい」でした。実はこれはキリストが御支配される王国が延期されたことを示しています。しかし、その王国の希望は決して無駄ではないことをイエス様は知っておられましたから、必ず神様の時が来たら「メシアの王国」が実現することを約束しておられるのです。そしてそれは教会時代が終わった時にはじまります。その時に再びイエス・キリストが天から降りて来られます。

1:9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。
1:10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。
1:11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」
1:12 そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。

 イエス・キリストが再臨されるのはオリーブ山であることは、旧約聖書で預言者ゼカリヤも預言していました。

ゼカリヤ14:3 【主】が出て来られる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。
14:4 その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。


3.福音宣教について

 イエス様はこれから始まる教会時代において次のように預言されました。

1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」


 あなたがたは全世界へキリストの証人となると預言されました。これが教会時代、恵みの時代、聖霊の時代と呼ばれる今、私たちが生きている時代に起きていることです。イエス・キリストの福音が宣べ伝えられる時代が今です。神様の御計画は、この時代に福音がイスラエル人だけでなく全世界に宣べ伝えられて、神を愛する人々が満たされることです。私たちはエホバの証人ではなくキリストの証人です。その使命を聖霊のバプテスマを受けたクリスチャンは皆、与えられています。



 クリスチャンにはこの福音宣教の使命が与えられているので、福音がまだ宣べ伝えられていない所へ福音を届ける必要があります。そのためにはまず、福音のために送り出される人が必要です。そして同時に送り出す人が必要です。送り出された人を経済的にサポートし、そして祈りによりサポートする人たちが必要です。

ローマ10:15 遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」