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心に響く聖書の言葉


聖霊の力によって 使徒の働き2章1-8節

1.五旬節の日に

使徒2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。 
 イエス・キリストの弟子たちに聖霊が臨まれたのは
五旬節(ペンテコステ、シャブオット)の日でした。五旬節とは旧約聖書のなかで定められた祭りの日です。過越の祭りの後の日曜日から数えて50日目、七週間後の日曜日になります。それで「七週の祭り」とも呼ばれています。
レビ23:15 あなたがたは、安息日の翌日から、すなわち奉献物の束を持って来た日から、満七週間が終わるまでを数える。
23:16 七回目の安息日の翌日まで五十日を数え、あなたがたは新しい穀物のささげ物を【主】にささげなければならない。
23:17 あなたがたの住まいから、奉献物としてパン──【主】への初穂として、十分の二エパの小麦粉にパン種を入れて焼かれるもの──二個を持って来なければならない。

 さらに五旬節は収穫を感謝する祭りとしての意味もあり、「
刈り入れの祭り」出23:16、「初穂の日」民28:26とも呼ばれます。※イスラエルでは、春の過越の祭り(ペサハ)、夏の七週の祭り(シャブオット)、秋の仮庵の祭り(スコット)が三大祭りとして祝われています。旧約聖書において「年に三度、男子はみな、あなたの主、【主】の前に出なければならない。」と定められています。
 これほどいろいろな名称で呼ばれる日は他にありません。五旬節は旧約時代から特別な日でした。この祭りの日に聖霊が降ったことはまさに神様のご計画でした。この日にイエス・キリストの福音を信じた約3000人に聖霊が与えられ、キリストにある者となり、教会時代が始まりました。「刈り入れの祭り、初穂の日」が文字通り、神様にとって「初穂を刈り入れる日」となったのです。

2.不思議なしるしを伴って

2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
2:3 また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。
2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

・激しい風のような響き・炎のような分かれた舌・他国のことばで話し出したーーーこれらの異常な現象は、イエス様が弟子たちに約束された聖霊のバプテスマが与えられたことを示すしるしでした。聖霊のバプテスマによって聖霊が信仰者の内に住まれ、すべての罪が洗い流されます。そのとき人は新しく生まれるのです。罪を赦され永遠のいのちを持ち、神様の子どもとなります。聖霊が信仰者の内側に住まれることは、聖書の多くの箇所で教えられています。
Uコリント 1:22 神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。
ローマ 8:9 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。
Tコリント 3:16 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。


 この五旬節の日を神様は歴史の特別な日として定められました。聖霊が人々に降り、教会が始まった日として、その場所にいたすべての人がわかるように、大きな振動を伴った音が聞こえ、炎のような舌が見え、そして使徒たちは外国語で福音を語りました。祭りのために集まっていた外国人たちは、福音を自国語で聞くことが出来ました。彼らは自国へ帰ってから、聞いた福音を話したことでしょう。つまり、福音がエルサレムから始まって全世界に宣べ伝えられるという福音宣教の始まりでもありました。神様は福音を広めるために特別な奇跡を用いられました。神様は教会とその宣教をご自身の権威と御力によって始められたのです。
 現在、私たちが福音を聞いて信じるときには、大きな音を聞いたり、分かれた舌を見たり、外国語を話すことはありません。しかし、聖霊は確かに信じる人の中に住んでくださいます。

※異言について
 聖霊によって全く知らなかった外国語を話すことは異言(いげん)と呼ばれ、初代教会時代に人々は異言をよく話しました。使徒たちは異言を話しただけでなく、多くの病人を癒し、不思議なことを行うことができました。使徒パウロは誰より異言を多く話したと記しています。しかし、そのような超自然的な奇跡や異言は、新約聖書の成立とともに次第に無くなっていきました。その理由は、奇跡の目的にあります。奇跡は「これが神様のご計画です。これが神様のことばです」ということを証明するために神様が備えられた御業だからです。一例として、モーセの杖とらい病のしるしは「神がモーセを遣わされ、神のことばを取り次いでいる」ということをイスラエルが理解するためでした。同じように初代教会時代に用いられた奇跡や異言は、新約聖書の成立のためであり、新約聖書のことばが「神のことばである」ことを証明するためでした。ですから聖書が成立し「これが神様の御言葉である」ことが証明されたので、奇跡や異言は用いられなくなりました。

 しかし、今日でも異言があると信じる人もいます。そして自分たちは異言を語っていると主張する人たちがおられます。けれども彼らの語っているのは異言ではありません。
@Tコリント 13:8 「愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。」という御言葉は、異言が止むことを教えています。
A異言を語っていると主張する人の異言は意味のない発音であり、外国語ではありません。聖書が教える異言とは外国人が聞いて理解できる外国語です。
B彼らが言うところの「異言」をだれも解き明かすことができません。しるしとしての異言なら解き明かせるはずです。神様が現在でも異言の賜物を用いられるなら、同時に解き明かす賜物を与えられるはずです。
Tコリント 14:27 もし異言を話すのならば、ふたりか、多くても三人で順番に話すべきで、ひとりは解き明かしをしなさい。
Cもし、神様が現在でも異言の賜物を与えられるのなら、海外宣教者は宣教地の外国語を学ぶ必要がなくなります。神様が賜物として自由に外国語をしゃべらせてくださるなら、そんな素晴らしいことはありません。でもそのような奇跡は起こりませんから、外国語を習得したり、通訳をお願いするのです。
D何より、イエス様が「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。」と語られたのですから、特別な経験やしるしを求める信仰は神様の御心ではありません。神様の願いは、私たちが御言葉を聞いて従うことです。
E現代の異言を否定する教会に集うクリスチャンは、何十年間熱い信仰を持っていても、誰一人異言を話しません。もし神様が異言の賜物を現代において分け与えられるなら、どの教会にも異言を語れる人がいるでしょう。しかし実際は「信者は異言を話せる」と幾度も教えられ洗脳された人(ひそかに興味を抱く人)だけが「異言を話せる」と言います。異言を教える人たちは、多くの場合、集会を激しい音楽や洗脳的な説教で人々を興奮状態へと導きます。そして「異言で語れ!異言で祈れ!」と言って興奮した人たちを導きます。そして気がふれたように言葉を発する時に「それが異言だ」と言います。彼らにはそれが本当に異言なのか確かめる方法がないのです。また、そのような集会は聖書の中で使徒パウロが厳しく戒めていることなのに、その聖書の教えを全く無視しています。
Tコリント14:22 それで、異言は信者のためのしるしではなく、不信者のためのしるしです。けれども、預言は不信者でなく、信者のためのしるしです。
14:23 ですから、もし教会全体が一か所に集まって、みなが異言を話すとしたら、初心の者とか信者でない者とかが入って来たとき、彼らはあなたがたを、気が狂っていると言わないでしょうか。
14:24 しかし、もしみなが預言をするなら、信者でない者や初心の者が入って来たとき、その人はみなの者によって罪を示されます。みなにさばかれ、
14:25 心の秘密があらわにされます。そうして、神が確かにあなたがたの中におられると言って、ひれ伏して神を拝むでしょう。
14:26 兄弟たち。では、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれの人が賛美したり、教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします。そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい。
14:27 もし異言を話すのならば、ふたりか、多くても三人で順番に話すべきで、ひとりは解き明かしをしなさい。
14:28 もし解き明かす者がだれもいなければ、教会では黙っていなさい。自分だけで、神に向かって話しなさい。

 聖書の教えを無視した「異言」が本当に神の賜物でしょうか?現代の「異言」が本物だという証拠がどこにあるのでしょうか?「異言は不信者のためのしるしです」と書いてあるのですから、異言を不信者が聞いてその内容を理解できるでしょうか?ーー異言を自分に与えられた賜物とする人たちはこれらの質問に答えてほしいのです。
※さらに詳しく学びたい人は次を参照してください。→カリスマ運動と異言について

3.福音を伝えた

 ペンテコステの日に聖霊を受けた使徒たちは福音を熱く語りました。迫害を恐れて三度「わたしはそんな人は知らない」と主イエスを否んだペテロは、全く人が変わったように大胆に群衆に語りかけました。彼らが語った福音を通してその日、約3000人が信仰に導かれました。歴史に残る偉大な説教となりました。ペテロが素晴らしい説教者だったからではなく、聖霊の力によって説教をしたからです。異邦人のための使徒となったパウロも、聖霊の働きについて次のように言っています。
ローマ 15:19 また、しるしと不思議をなす力により、さらにまた、御霊の力によって、それを成し遂げてくださいました。その結果、私はエルサレムから始めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。
Tコリント 2:4 そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。

 聖霊の力によって宣教をするのです。自分の力で宣教するときには、自分の手柄となります。高慢になり、人を見下し、さばきます。しかし、聖霊の力によって宣教するなら、まず私たちは神様に心から感謝します。人々が救われたなら、神様をほめたたえます。そしてますます神様の御前にへりくだります。ますますイエス様と教会と人々に仕えたいと思います。御霊の実は愛、喜び、平安、寛容です。これらによって理解できるはずです。

 そして、ペテロの説教の中心は、イエス・キリストの十字架と復活でした。これが私たちに与えられた福音であり、これ以外に福音はありません。
使徒2:22 イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行われました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。
2:23 あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。
2:24 しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。


 そしてペテロの説教の締めくくりは、「この曲がった時代から救われなさい」でした。約二千年経った現在も、神様の御心から外れて曲がってしまっている時代です。人々は神様を無視して歩んでいます。この百年間で、人々の生活には電化製品があふれ、娯楽や嗜好品があふれ、人々は新しいもの、楽しいもので自分の心を満たそうとしています。しかし逆に心は蝕まれ、暗くなり、真理を求めなくなりました。この時代は曲がっており、その行き着く先は滅びだという聖書の警告を真剣に受け止めてください。この曲がった時代から人は救われなければならないのです。