本文へスキップ

心に響く聖書の言葉


恵みのわざに富む Uコリント8章、9章



 今回は、宣教を支える働きについてお話ししたいと思います。それは献金によって宣教を支えるということです。パウロはこの献金を「恵みのわざ」と書いています。

Uコリント8:7 あなたがたは、すべてのことに、すなわち、信仰にも、ことばにも、知識にも、あらゆる熱心にも、私たちから出てあなたがたの間にある愛にも富んでいるように、この恵みのわざにも富むようになってください。


 献金についてお話しすることは、できるなら敬遠したいことです。なぜなら「教会へ行くと『献金しなさい、献げなさい』と、お金のことばかりうるさく言われる!」という人の話をよく聞くからです。
 先日、他教会のクリスチャン男性の方が相談に来られ、深刻な顔つきで「しばらく教会へ行かなかったら、教会から『十分の一献金』の袋が送られてきました。教会はそこまでして献金を集めるのでしょうか?」と訴えられました。私は彼に対して「それぞれの教会の事情や牧師の考え方がありますから、良い、悪いということを言える立場ではありません」とお話しました。ただ「献金は強制されるべきものではありません」ということだけはお伝えしました。彼にとって教会から送られてきた「十分の一献金」の袋は大きなつまづきとなっていたのです。

 同じように、献金について説教するときは、人々のつまずきとなる場合が有り得るので、私の考えでなく、聖書の教えどおり「神様の御心としての献金」についてお話ししたいと思います。

 Uコリント8〜9章には献金について記されています。パウロが献金について書き記した背景は、エルサレムに住んでいるクリスチャンたちが、激しい迫害の中で経済的に苦しんでいたからです。そこにはペテロやヤコブら使徒たちもいました。パウロは彼らのために、諸教会に献金を募ったのです。それでコリントの教会にも献金をお願いしました。それが8−9章です。パウロはここで、献金の意義と祝福について教えています。


1.なぜ献金をするのか?


 それはクリスチャンとして身に付けなければならないことだからです。Uコリント8:7では
「信仰にも、ことばにも、知識にも、あらゆる熱心にも、・・・愛にも富んでいるように、この恵みのわざにも富むようになってください。

とあります。クリスチャンにとって信仰が大切なことは言うまでもありません。丁寧な言葉、親切な言葉、優しい言葉、神のことばを身に着けることは大切です。感情だけで信じるのでなく、知識を身に着けることは大切なことです。冷めたピザのような信仰でなく、キリストに熱心になることも大切です。ほかの人の罪を覆って包んであげるような愛を持つことは大切です。これらと同じように、献金することは大切なことだと教えています。

 献金のことを「恵みのわざ」と呼んでいる理由は、
@命令ではないから
8:8 こうは言っても、私は命令するのではありません。ただ、他の人々の熱心さをもって、あなたがた自身の愛の真実を確かめたいのです。

Aキリストの恵みを知っているから
8:9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

 主イエス・キリストの恵みとは何でしょう?
・・何の価値もない罪人である私のために、イエス・キリストが身代わりとなって十字架で罪の刑罰を背負ってくださいました。それがキリストの恵みです。赦されるべきでない私たちがイエス様の血によって罪赦されました。それが恵みです。愛される価値のない者をイエス様が愛して救ってくださいました。それが恵みです。褒められるところのない私たちを、キリストが引き上げてくださり、永遠のいのちを与えてくださいました。それが恵みです。祝福を受ける価値のない私たちを、キリストが天の御位を捨てて地上に降りてこられ、貧しくなってくださったので、私たちは祝福されて富む者となったのです。それが恵みです。

 このキリストの恵みを知ったからこそ私たちはクリスチャンになりました。使徒パウロはその私達に、「キリストの恵みを知っているなら、あなたがたも恵みのわざを行いなさい」と勧めるのです。「キリストがご自身をささげてくださったのだから、あなたがたもささげなさい」――これが恵みのわざです。神様の御心は、あなたがたがこの
恵みのわざに富む者となることです。

2.献金の心構えと祝福

 この8−9章では、貧しいエルサレムの聖徒たちのための募金という趣旨で献金が求められています。パウロは9章で、献金をささげるときの心構えと神様の祝福を記しています。それは私達の教会で献げる献金にも当てはまることが多くあります。

9:6 私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。
9:7 ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。


「いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりに、・・・喜んで」は、献金の大切な心構えです。いやいやながら、惜しみながら献金するのなら、たとえ多額であっても神様の祝福はないと考えた方がよいでしょう。



 献げる人に対する神様の約束は、「神は喜んで与える人を愛してくださいます。」です。神様はすべての人を愛しておられるのですが、特別な愛を持って愛してくださるのです。

 8節〜11節は献げる人に対する神様の祝福の連続です。
9:8 神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。
9:9 「この人は散らして、貧しい人々に与えた。その義は永遠にとどまる。」と書いてあるとおりです。
9:10 蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。
9:11 あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。


 まるで神様の祝福の渦に巻き込まれるかのようです。私達の献げる「恵みのわざ」は、自分に祝福が跳ね返ってくるだけでなく、ささげられた人の感謝を生み出します。福音宣教のために用いられた献金は、救われた人の感謝を生み出します。救われた人を見て福音宣教者は神様に感謝し、ささげてくださった人にさらに感謝します。そのように感謝が感謝を次々生み出していきます。そこに神様の栄光が現わされるのです。

3.十分の一献金

 私は牧師としてこの教会にささげられた尊い献金の中から謝礼を頂いていることを心から感謝しています。その教会会計の多くは教会員がささげる十分の一献金によって成り立っています。

 あるとき、イエス様を信じられたばかりの兄弟が質問されました。
「マラキ3章10節のことばの意味を教えてください」――それは十分の一献金について書かれている箇所でした。

マラキ3:10 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。──万軍の【主】は仰せられる──わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。


 私は「これは神様の御心として、私たちの全収入の十分の一をささげることを願っておられ、聖書の多くの箇所で教えられています」とお話ししました。神様が定められた律法の中では、十分の一をささげることが規定されていて、その献金は祭司の部族であったレビ人の生活費として用いられました。レビ人には相続地が割り当てられなかったからです。そして、十分の一献金を生活費として頂いたレビ人も、その収入の十分の一をささげました。

民数記18:23 レビ人だけが会見の天幕の奉仕をすることができる。ほかの者は咎を負う。これは代々にわたる永遠のおきてである。彼らはイスラエル人の中にあって相続地を持ってはならない。
18:24 それは、イスラエル人が、奉納物として【主】に供える十分の一を、わたしは彼らの相続財産としてレビ人に与えるからである。それゆえわたしは彼らがイスラエル人の中で相続地を持ってはならないと、彼らに言ったのである。」
18:25 【主】はモーセに告げて仰せられた。
18:26 「あなたはレビ人に告げて言わなければならない。わたしがあなたがたに相続財産として与えた十分の一を、イスラエル人から受け取るとき、あなたがたはその十分の一の十分の一を、【主】への奉納物として供えなさい。


 新約聖書でははっきりとした十分の一献金の規定が書かれていませんし、教会時代では律法に縛られる必要がないのでは?と考えられる方もおられるでしょう。しかし、神様の御心は十分の一を献げることに変わりはありません。その理由は、

@今は恵みの時代だからです。文字によって規定されて献げるのではなく、キリストによって贖われた者として献げるのです。

Aアブラハム、ヤコブが十分の一献金をしたのは、律法が規定される前でした。彼らは決心し、十分の一献金をささげました。どうして彼らが「十分の一」をささげることを決心したのか、理由は記されていませんが、創世記の時代から神様の御心として十分の一がささげられたことは確かです。そしてささげた彼らは祝福されました。今の時代もこの神様の御心は変わっていません。
※十分の一献金については次のページの後半部分を参照してください。→「神に返しなさい」

 牧師の働きはレビ人の務めと同じではありませんが、神様のご計画の中では似ている部分があると言えるでしょう。生活が献金によって支えられることもそうです。ただし、牧師がこの世の財産を蓄えるようでは、主の働き人と言えません。「主だけが私の相続地、主だけが私の分け前です」と、胸を張って言いたいものです。ですから牧師も与えられた収入の十分の一を必ず献金するのです。

献金について次のことを覚えておいてください。
・献金は絶対に強制されてすべきものではありません。
・献金は祈りや願いを聞いてもらうための賽銭ではありません。
・献金は神様の御心を知り、その意義と目的を知ってささげられるべきです。
・神様の約束を信じる信仰を持ってささげます。
・献金の取り扱いは、誰からも非難されることがないよう公明正大にします。一円たりとも不正支出がないように細心の注意を払います。



4.信仰によって


 よく考えるなら、私たちが生きているのも神様の恵みです。いのちの息を与えられ、立ち上がり、仕事をして給料を稼ぐことも、神様の支えがあってできることです。そして、クリスチャンはイエス様を主と信じ、聖霊のバプテスマを受け、新しく生まれた人です。今までは自分のために生きていましたが、神様の栄光のために生きる者となりました。ですから、言葉だけでなく、自分の持てるものを持って神様の栄光をあらわすのです。

 イエス様がその十字架の血潮によって私たちを買い取ってくださったので、私たちの主人はイエス・キリストです。ですから私たちはキリストの福音のため、キリストの体である教会のため、仕え、献げるのです。

マタイ6:31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。


 クリスチャンの歩みは、キリストを信じることから始まって、そして主のことばを信じながら進みます。信仰から信仰へと――これが私たちの生き方です。御言葉の約束を信じて、信じたとおりに歩んでいきましょう。