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心に響く聖書の言葉


創世記2〜3章 「罪がもたらす惨めさ」



最初の人として創造されたアダムの記事から学びます。

1.最初の人アダム

2:7 神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。
2:8 神である【主】は東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。
2:15 神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。
2:16 神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」
2:18 神である【主】は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」

 創造主が人間を創造された次第について、聖書は次のように教えています。

@人間を土地のちりから造られた
 「形造り」という語は、陶器師が土をこねて陶器を造るときの用語です。創造者が熱意を込めて土を練り、最高の作品として人間を形造られました。宝物のように私たち人間を創造されたのです。もし、この創造者の意志を知らなかったら、私たちはただの土くれと同じです。人間の体を構成する製作材料費はわずか3000円程度なのです。(水分、カルシウム、カリウム、鉄、リン、他)しかし、人間が神様の最高傑作品であることを理解するなら、人間の価値は計り知れません。全世界の富より人間の価値は大きいと聖書は記しています。

A息を吹き込まれた
 確かに人は息をすることによって生きています。また、聖書中の「息」には「霊魂」という意味もあります。したがって、人間は土の器に息を与えられ、霊魂を持つことによって生きる者となったのです。

B全く罪が無いものとして造られた
 罪汚れが無く、全く清いもの、完全なものとして人間は造られました。

C最高の環境
 創造者は最初の人アダムのために、最高の環境であるエデンの園を造られ、そこにアダムを置かれました。

D使命・責任
 神様がアダムに与えられた使命は、エデンの園の管理でした。園の管理にどのような目的があったのでしょうか?−−神様の栄光を現わす場所としてエデンの園の秩序正しさを求められたか、人が使命を持って働くようにあえて仕向けられたとも考えられます。と言うのは、私達が耐えられないことの一つは、自分の限界以上の仕事を任せられることですが、それ以上に、仕事を任せられないことでもあります。何も任せられない、何も求められない、何も責任がないなら、人は生きる価値を見出すことが出来ないからです。それゆえ神様はアダムに使命と責任を与え、彼が喜びを持って働くことを望まれたのでしょう。

E助け手
 神様はアダムに使命と責任を与えられましたが、その助け手として最初の女性であるエバを造られました。エバはアダムの体のあばら骨から造られました。

F一つの契約
 創造者はアダムとエバに「善悪の知識の木から取って食べてはならない」と命じられました。ホセア書では契約という言葉が用いられています。(ホセア6:7) それは「死」という刑罰を伴った契約でした。彼らは神様の命令(御言葉)に従うことが求められました。

2.最初の罪

3:1 さて、神である【主】が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」
3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。


 3章1節を読んで、「変な話だ」と思われる人は常識的な人でしょう。蛇が登場しエバに話しかけ、木の実を食べるように誘惑します。なぜ蛇がしゃべるのでしょうか?また、神様が創造された世界はすべて良かったはずなのに、どうして悪意を持つ蛇がいるのでしょうか?・・・まるでおとぎ話の世界です。しかし聖書の黙示録で、この蛇は悪魔(サタン)であることが解説されています。聖書は悪魔の存在をはっきりと教えています。悪魔は神に敵対する霊的存在であり、神が造られた世界を壊そうとする者です。その矛先が被造物である人間に向けられ、人間が神に背を向けるように仕向けるため、蛇の体を借りてエバに話しかけたのです。


 エバはものの見事に誘惑に陥り、木の実を食べてしまいました。そしてアダムにも木の実を与えたのでアダムも食べました。聖書では記されていませんが、木の実は林檎であったろうと言われます。アダムが林檎を口にほおばって食べていた時に神様がやって来られたので、アダムは急いで林檎を飲み込んだのですが、のどにつっかえてしまったため、男性ののどにはのど仏があると言われています。それで英語ではのど仏のことをアダムズアップル(アダムの林檎)と呼びます。これは逸話ですが、アダムが禁断の木の実を食べたことは事実です。そしてその事実により人間の中に罪の性質が入り、さばきとして霊的な死と肉体の死を招きました。また、全世界が呪いの中に置かれてしまい、自然は厳しい環境となり、弱肉強食の世界となったのです。つまり悪魔の思惑通りになってしまいました。

 アダムとエバの失敗は私たちに大切な教訓を残しています。アダムもエバも全く罪のない状態でしたから、サタンの誘惑を受けたときに、神様に反抗しようと思ったのではないはずです。まして、罪を犯したい、悪いことをしてみたいとは決して思わなかったでしょう。神様のことを常に愛してその命令に従っていたのです。

 では、どうして彼らはサタンの言葉に従ったのでしょうか?ーーおそらく清いアダムたちは疑いを持つことがなかったのだと思います。エバがサタンの言葉を聞いたとき、疑うことをせずその言葉を信じてしまったのです。神様の命令に従いたいがサタンの言うこともわかる。どちらを選んだらよいのか?そう考えたときに「善悪の知識の木の実」を見上げると、とてもおいしそうに見え、また、賢くするという誘惑に心惹かれました。それでエバは神様の言葉よりサタンの言葉を選び、木の実を食べたのです。(自分に都合の良いように神様の言葉を解釈したとも言えます)

 エバは木の実を食べても死ななかったのでアダムにも与えました。「アダム、この木の実を食べても大丈夫だったわよ」――今度はアダムが神様の言葉よりエバの言葉のほうを選び、木の実を食べてしまいました。これが人間の堕落の原因です。そして人間の歴史を見ていくときに常に同じことが繰り返されてきました。神様は歴史の中で常に人間に啓示を与え語ってこられたのに、
人間は神様の言葉より、人間の言葉、人間の考え方を選んできました。そこに神に対する不従順があり、罪が増し加わり、堕落がありました。

3.罪を犯した後の人間の状態

 罪を犯したアダムとエバの状態はみじめなものでした。
3:7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
3:8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である【主】の声を聞いた。それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
3:9 神である【主】は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
3:10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」


@恥ずかしい者
 二人の目は開かれ、自分たちが裸であることを知り、恥ずかしいと思いました。それまでは創造された状態の裸であっても恥ずかしいと思わなかったのに、罪を犯した途端、恥ずかしいと感じました。そこには性的なことも含まれているでしょうが、もっと重要なことは、霊的にも二人は裸の者であると悟ったのでしょう。神様を離れては何の価値もない、何一つ持っていない、裸の者であるということを知り、恥ずかしいと悟ったのです。

A恐れて隠れる者
 二人は神様を恐れて隠れました。罪を犯さないときには喜びに満ち、平安の内を歩んでいたのに、罪を犯した途端に神様のことを恐れ、隠れました。それは神が罪をさばかれる方であることを知っているからです。現在でもそれは変わりません。多くの宗教で礼拝される神々は呪いやたたりを下す恐ろしい神々です。それは当然でしょう。罪ある人間が聖い神の前に出るなら、さばかれて死ななければなりません。ですから、人間は神の怒りやたたりを回避するために厄払いをしたり、肉体を傷つけて神の憐れみを求めたり、人間を生け贄としてささげたり(人身御供)、通常では考えられないような愚かなことまでして神の怒りを鎮めようとするのです。

「村の鎮守の神様の〜今日はめでたいお祭りだ〜!」という歌に出てくる「鎮守の神様」とは、土地を開拓しようとするときにその「土地の神」がたたりを起こして被害にあわないように、その土地の神様より霊力の強い神様を他からお迎えして、「土地の神様」を従わせ、たたりを抑え込むというのです。そして招聘した鎮守の神様の怒りを引き起こさないために崇拝し、祭り上げなければならないのです。とても矛盾を感じるのですが、一つだけ真理があるとすれば、それは
罪を犯した人間にとって神は恐ろしい存在だということです。ですから人は神様から遠ざかりたい。神様から隠れたい。神様と無関係になりたい。神を信じたくないのです。

4.罪を犯した人への恵み

 しかし、私たちは聖書の中に
神様の恵みを発見することが出来ます。
3:21 神である【主】は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。

 さばかれていのちを取られて当然のアダムとエバでしたが、神様は罪を犯した二人のために動物をほふり、その皮をはぎ、彼らに着せてくださったのです。アダムたちが自分たちで作ったのではありません。皮の衣は罪を犯したアダムたちに対する神様の恵みでした。そしてこれは後に神の小羊として十字架に架かり死なれるイエス・キリストのひな型です。罪を犯した人間のために、神が身代わりを用意され、罪の赦しという恵みを与えられたのです。

ローマ5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
5:9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。


 また、アダムもキリストのひな型だと使徒パウロは教えています。それはアダムから罪が人類に増え広がったと同じように、キリストの贖いによって罪の赦しが広がっていくことを示しています。

ローマ5:14 ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。
5:15 ただし、恵みには違反の場合とは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。


 もし、あなたが神様の恵みを発見するなら、神様をたたりを下される恐ろしいかたとして礼拝する必要はありません。神様があなたを熱心に形造られ、息を与えられました。そして神様があなたの罪の贖いのためにイエス・キリストを用意してくださいました。イエス・キリストの十字架の血の贖いによってあなたの罪は赦されます。どうかこの恵みを発見してください。