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心に響く聖書の言葉


主イエスはよみがえられた マタイ28章1‐15節



 イースターは主イエス・キリストのよみがえりを記念する特別な日です。また、毎週日曜日にクリスチャンは教会に集まり礼拝をささげるのですが、それもイエス・キリストが日曜日の朝に墓の中からよみがえられたからです。キリストがよみがえられたという事実がキリスト教信仰の基礎となっています。

 もし、キリストがよみがえられなかったなら、クリスチャンはこの世で最も哀れな人たちだと聖書も認めています。2000年も前に書かれた作り話に騙され、嘘を信じる愚かな人たちだと。しかし、私たちにはキリストの復活を信じる理由があります。それは数多くの証拠があるからです。

1.キリストの預言

マタイ20:17 さて、イエスは、エルサレムに上ろうとしておられたが、十二弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。
20:18 「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。
20:19 そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」

 イエス・キリストはご自分が十字架に架けられ、殺され、よみがえることを預言されました。望んで残酷な処刑法であった十字架に架かる人はいません。もし望んだとしても、その思い通りに十字架刑で処せられるものでもありません。

 復活を信じない人たちの一つの推論は、「イエスは自分のことを救い主だと思いこんでいた。すべては彼の妄想がそうさせた!」として、イエスは聖書の預言に合わせて行動したのだと考えます。しかし、それには無理があります。彼が行なった奇蹟の数々や気高い教えは、妄想から生まれて来たものではありません。それは周りの人たちが、自分の目で見、自分の耳で聞き、経験し、認めていったことです。

 イエス・キリストを当時のイスラエルで有名にしたのは、彼の元に連れて来られた病気の人々をすべて癒されたからです。そして癒しただけでなく、彼が語ることばの一つ一つが理にかなった神様の教えであると人々が理解したからです。そうでなければユダヤ社会で30歳そこそこの人がこれほど注目されるはずがありません。救い主だという思い込みだけでは人々に受け入れられません。

 日本人の多くは宗教について無頓着ですから、怪しげな預言や、偶然の出来事によって簡単に新しい教えを信じてしまいます。「病気が治ります」「恋愛がうまくいきます」「あなたは事故に遭います」という預言はいつか当たるものです。「この家は方角が悪いから不幸が多いのです」と言われると、誰でも心当たりがあるでしょう。自分は不幸だと思っている人が多いからです。

 また、自分の内側の罪に目を向けるよりは、家の向きやはんこや仏壇の埃のせいにすることがたやすいからです。そのため多くの人々が新興宗教にはまり、財産をむしり取られ、苦しみます。

 しかし、幼いころから聖書に慣れ親しんで宗教教育されてきたユダヤ人は、簡単に騙されるはずがありません。そのユダヤの人々の中で、イエス様は救い主として受け入れられていったのです。ですから、イエス・キリストが行った奇跡や癒しは実際に起こったことであり、彼の神性を証明しているのです。イエスは、キリスト(救い主)であるからこそ、「わたしは十字架で死に、三日目によみがえります」と預言することが出来たのです。

2.空っぽの墓

マタイ28:1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。
28:2 すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。
28:3 その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。
28:4 番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
28:5 すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。
28:6 ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。
28:7 ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」
28:8 そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。
28:9 すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。
28:10 すると、イエスは言われた。「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」
28:11 女たちが行き着かないうちに、もう、数人の番兵が都に来て、起こった事を全部、祭司長たちに報告した。
28:12 そこで、祭司長たちは民の長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、
28:13 こう言った。「『夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った』と言うのだ。
28:14 もし、このことが総督の耳に入っても、私たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。」
28:15 そこで、彼らは金をもらって、指図されたとおりにした。それで、この話が広くユダヤ人の間に広まって今日に及んでいる。

 イエス・キリストが十字架に架けられたとき、彼の苦しみを嘆くかのように、空は重い雲に覆われ、暗くなりました。激しい痛みを耐え続けられたイエス様は、とうとう息を引き取られました。

 弟子であることを隠し続けていたアリマタヤのヨセフの申し出により、イエス様の体は十字架から取り下ろされ、墓に葬られました。イエス様が葬られた墓にはローマの番兵が配置され、厳重な警戒が敷かれました。しかし、イエス・キリストの体は墓から無くなったのです。


 このことは弟子たちにとっても驚きでした。マリヤたちはイエス様の遺体に終油を塗ろうとして墓へ行ったのですが、遺体がないのに驚き、途方に暮れました。

 後にイエスの復活を信じない人々は、「よみがえりは偽証であり、弟子たちが遺体を盗んでいった」と噂を流しました。しかし考えてみると、それは無理な話です。ローマ軍の厳重な監視のなか、ひっそりと墓の入り口に封印された大きな石を転がし、遺体を盗み出すことなど不可能です。

 そのため、反対者たちは別の推論をします。「イエスは仮死状態であったのではないか?」と。「イエスは葬られた後に息を吹き返して自分で歩いて帰ったのだ」と言うのです。しかし、どう考えてもその推論にも疑問が残ります。イエス・キリストは鞭打ちの刑を受けたため背中の皮が裂け、大量失血していました。その後、十字架に釘付けにされ最後に槍で脇腹を刺され、死亡を確認されました。その人が、墓の中で息を吹き返したとは到底考えられません。

 百歩譲って、息を吹き返したとしても、瀕死の状態で墓の前の大きな岩を一人で押しのけ、番兵たちに見つからず歩いて帰り、弟子たちに会って、「栄光に満ちた勝利の主」という印象を与えることは到底不可能です。仮死状態から息を吹き返したと信じることの方がよみがえりを信じるより、よほど難しいことです。ですから誰も墓が空になった説明をできる人はいません。唯一考えられるのは、イエス・キリストが神の力によってよみがえられたということです。

3.多くの証人

使徒5:27 彼らが使徒たちを連れて来て議会の中に立たせると、大祭司は使徒たちを問いただして、
5:28 言った。「あの名によって教えてはならないときびしく命じておいたのに、何ということだ。エルサレム中にあなたがたの教えを広めてしまい、そのうえ、あの人の血の責任をわれわれに負わせようとしているではないか。」
5:29 ペテロをはじめ使徒たちは答えて言った。「人に従うより、神に従うべきです。
5:30 私たちの父祖たちの神は、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、よみがえらせたのです。
5:31 そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。
5:32 私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。」
5:33 彼らはこれを聞いて怒り狂い、使徒たちを殺そうと計った。


 弟子のペテロたちは迫害を恐れずにキリストの復活を証言しました。多くの人が復活したキリストに会い、彼を救い主と信じ、その生涯を復活の証人として生きました。

 通常、法廷での証言というものは、2、3人の証人の証言によってそれが真実とされます。イエス・キリストの復活の証人は数百人でした。数人が結束して新しい理想の宗教を立てあげようと嘘の証言をするかもしれません。しかし、キリストの復活の証人数百人がみな嘘をつくとは考えられません。

 ここでも百歩譲って、全員がマインドコントロールされてイエスの復活を信じ、証言したとしても、迫害を受けたときに命を懸けてまで嘘の証言をつらぬくことは決してしないでしょう。事実、多くの弟子たちは復活の証言ゆえに迫害され、十字架にかけられたり、火で燃やされたりして殺されたことが記録として残されています。

 聖書をよく知らない人たちは、聖書をフィクション小説のように考えますが、聖書の成立について歴史を調べるなら、福音書はイエス様が十字架に架けられた後、数十年の間に書かれており、事実関係を調べようと思うなら、当事者たちに聞くことさえできました。その時代に福音書は間違いのない神のことばとして人々に受け入れられていったのです。

 「キリストの復活は事実か?」という本の著者、リー・ストロベルは名門のイェール大学の法学院で学び、法学修士号を取得し、シカゴ・トリビューン紙の記者として活躍した人です。もともと宗教に対しては懐疑的で、キリスト教の嘘を暴こうとして様々な分野で活躍する聖書研究者に取材を申し込み、話を聞いているうちに、聖書の記事は事実と認めざる負えなくなり、クリスチャンとなった人です。彼がその著書に書いていることを少し紹介します。

「イエスが十字架で死んだ時、イエスの信奉者たちは絶望し、散り散りになって行きました。イエスを中心にした活動は、そこで完全に停止したわけです。ところが、十字架からまもなく、その弟子たちが仕事をやめ、再び集まり始めました。そしてイエスが神から遣わされた救い主であり、十字架で死に、復活し、彼らの前に姿を現したというメッセージを伝え始めたのです。
 そして、このメッセージを伝えていくことに彼らはその一生をかけました。普通に考えて、彼らには何のメリットもありません。それをしたからといって地中海の大豪邸に住めるわけでもなんでもないのです。それどころか、彼らは多くの試練にあいました。食べ物もなく、野宿をし、馬鹿にされ、打たれ、牢獄につながれたのです。そして最後は、大変残酷な拷問を受けて死んでいきました。
 なんのためにそんなことをしたのでしょうか 善意でしょうか。いいえ。彼らは一点のかげりもなく、イエスが死からよみがえったと信じ、試練を耐えたのです」

 新約聖書が書かれて2000年近く経った現在でも、キリストの復活はくつがえされない真理なのです。

4.人類の希望

 最後に、イエス・キリストの復活には全人類の希望がかかっています。イエス・キリストがよみがえられたのなら、私たちには救い主がいるのです。罪を赦し、滅びから救ってくださる神がいるのです。イエス・キリストがよみがえられたのなら、私たちも死んだ後によみがえりがあるのです。それは天国の希望です。

 もしもキリストがよみがえらなかったなら、私たちには罪の赦しと救いがありません。もしもキリストがよみがえらなかったなら、私たちのよみがえりもありません。それは天国へ行く希望はないということです。死んで葬られてそれで終わりのむなしい人生です。

 しかし、聖書は私たちに宣言しています。

Tコリント15:3-4「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、 また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられた」

 そして同じ15章の中でパウロは私達にも復活があることを約束しています。キリストが栄光の体を持ってよみがえったように、私たちも新しい体を持ってよみがえり、天の御国に住むことを約束しています。

15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
15:21 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。
15:22 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。
15:23 しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。


 今、私達へのメッセージは次のことばです。
『信じ
ないものにならないで、信じるものになりなさい。』・・死に勝利され、よみがえられたイエス・キリストのことばです。