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心に響く聖書の言葉


ヤコブからイスラエルへ  創世記31〜32章

 アブラハムにイサクが生まれ、イサクに双子の男の子が生まれました。兄の名前はエサウ、弟の名前はヤコブ。このヤコブこそ、後のイスラエルとなる人です。聖書の中の歴史は、そのほとんどがイスラエルについて記されています。神様はイスラエルという国を、ご自身の所有の民、祝福された国民として選ばれました。神様の深いご計画を知るためにはイスラエルについて理解する必要があります。

1.ヤコブの逃亡生活

 創世記25章において、弟のヤコブは兄のエサウがお腹をすかしているときに長子の権利を(相続権)奪い取りました。また27章では、年老いた父イサクが兄エサウを祝福しようとしたとき、ヤコブは兄に成りすましてその祝福を奪い取りました。
(その祝福の中心は財産ではなく、アブラハムから引き継いだ「地のすべての国々はあなたの子孫によって祝福される」26:4 という神様の特別な祝福でした。「子孫」という語は原語のヘブル語では複数単数の区別がありませんが、神様のこの特別な約束においては常に一人を示すものでした。その祝福をヤコブはだまして奪い取ったのです。)
「お父さん。祝福は一つしかないのですか。お父さん。私を、私をも祝福してください。」と兄のエサウは泣いて父に願うのですが、それができないことを父イサクも知っていました。神様の約束は「あなたの一人の子孫によって」だったからです。(そしてこの約束は最終的にはイエス・キリストによって実現することになります。ガラテヤ3:16)

 ヤコブはこのことで兄の怒りと恨みを買い、逃亡生活を送ることになりました。パレスチナの地から東へ逃げ、ユーフラテス川を渡り、かつてアブラハムが住んでいたメソポタミアの地へ逃げて行きました。ヤコブはその場所で親戚のラバンの元に身を寄せ、ラバンの娘たちと結婚し、子供たちが生まれ、神様の祝福によって富む者となりました。しかし、腹黒いラバンの心ない仕打ちを幾度も受け、それに耐えながら生活していました。そのとき、神様から次のことばがありました。
31:11 そして神の使いが夢の中で私に言われた。『ヤコブよ。』私は『はい』と答えた。
31:12 すると御使いは言われた。『目を上げて見よ。群れにかかっている雄やぎはみな、しま毛のもの、ぶち毛のもの、まだら毛のものである。ラバンがあなたにしてきたことはみな、わたしが見た。
31:13 わたしはベテルの神。あなたはそこで、石の柱に油をそそぎ、わたしに誓願を立てたのだ。さあ、立って、この土地を出て、あなたの生まれた国に帰りなさい。』」


2.ヤコブの帰郷〜恐れ

 ヤコブは神様の御声に従い、兄エサウの住むパレスチナの地へ帰る決心をしました。家族としもべたちと共に、そして羊や牛は数えきれないほどたくさんいたので、ゆっくりとした移動だったでしょう。兄エサウが住む場所までもうすぐという所まで来て、ヤコブの心は不安と恐れでいっぱいでした。兄エサウを恐れていたからです。
32:11 どうか私の兄、エサウの手から私を救い出してください。彼が来て、私をはじめ母や子どもたちまでも打ちはしないかと、私は彼を恐れているのです。
 もともと気性の激しい兄エサウでしたし、その兄を裏切って逃げていたのですから、恐れて当然です。さらに、使いに出したしもべから、「エサウがあなたを迎えに400人を引き連れてやってこられます」という報告を聞いたときには身も凍る思いだったでしょう。
 ヤコブは兄エサウの怒りを鎮めようと、まず、山羊や羊、らくだ、牛、ロバなど贈り物をしもべたちに先に届けさせました。そして宿営を二つに分け、エサウが襲ってきても半分は生きながらえるようにと対策を考えました。ヤコブはヨルダン川に注ぐギルアデ川を、夜の暗い中、家族を皆渡らせました。しかし、自分はその川を渡ろうとしません。出来なかったのです。恐ろしくて足がすくんでしまったのだと思います。

 私たちはここに信仰者ヤコブの恐れを見ます。ヤコブは神様の御声を聞き、神様の御心に従って故郷へ帰ってきました。しかし、父と兄をだまして逃げたという罪悪感が、故郷に近づくにつれ増し加わり、心が締め付けられたのでしょう。罪の意識が恐れとなり、兄の怒りと復讐におびえるヤコブ。その恐れは私たちが信仰者として神の御心の中を歩もうとするときに起こってくる恐れと少なからず似ていると思います。人の目を恐れ、迫害や非難から逃れたいと思います。今まで慣れ親しんできた偶像の祭りに参加しないことや、友人たちとの世の楽しみを断るとき、「お前は今まで一緒にやってきたのに、キリストを信じたせいで頭が変になってしまった!」と言われることを恐れます。実際に、仏壇の前で手を合わせるのを断ったら、親が包丁を持ち出してきて脅されたという人もおられました。神様の御心に従うことはとても勇気が要ることです。

3.神の使いとの格闘

 ヤコブは兄エサウを恐れて一人川岸に残りました。その時、不思議な出来事が起こりました。
32:24 ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
32:25 ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。
32:26 するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
32:27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」
32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」
32:29 ヤコブが、「どうかあなたの名を教えてください」と尋ねると、その人は、「いったい、なぜ、あなたはわたしの名を尋ねるのか」と言って、その場で彼を祝福した。
32:30 そこでヤコブは、その所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味である。

 神様の使いが現れて、ヤコブと格闘したのです。神の使いが人と格闘するという話は聞いたことがありません。聖書の中にもそのような記事は他に一つもありません。そのため、ほとんどの注解書や説教者は「これは祈りの格闘である」と解釈し、実際の体でぶつかる格闘ではないとしています。しかし、聖書は「祈りにおける格闘」とは書いてはいませんし、実際の格闘であったとしても驚くことではないでしょう。聖書の中には蛇が喋ったり、ロバが口を開いて文句を言う場面があります。それらも現実の出来事でないとするなら聖書の記事の何を信じたらよいでしょう。イエス・キリストの復活も現実の復活だと確信できなくなります。ですからここでも実際の格闘をしたと解釈すべきでしょう。

 では、何のための格闘でしょうか?それはヤコブの恐れを取り除くための神様の取り計らいであったと思われます。ヤコブが恐れたのは兄エサウの復讐であり、自分と家族の身の危険、いのちの危険でした。殴られ、たたききつけられ、激しい痛みを受けて殺されることへの恐れであったはずです。しかし、主の御使いと格闘し、殴られ、締め付けられたりして、前もって身に受ける苦しみを経験したのです。しかし、その格闘の中で本当に大切なことをヤコブは見出していったのです。26節に格闘中のヤコブの言葉があります。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ」――肉体に受ける痛みや、いのちの危険から逃れることが大切なことではなく、本当に大切なのは神様の祝福であることを彼は理解したのです。神様の祝福こそ私たちが第一に求めるべきものであり、神様の祝福だけが本当の意味で幸いを与え、私たちを生かすのです。かつてのヤコブはずるい方法で祝福を求めました。兄をだまし、父をだまし、逃亡して祝福を自分のものにしようとしました。しかし、いま、神様の使いを相手に正々堂々と格闘し、もものつがいを打たれたことにより肉の弱さ、無力さを示されました。そこで彼は最後の力を振り絞り、神の使いにしがみついて祝福を願い、求めたのです。その執念に負けて神様は彼を祝福されました。
32:27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」
32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」

 神様が、「あなたには負けた!」と宣言され、祝福を与えられたのです。信仰によって約束の祝福を神様からもぎ取り、自分のものとしたヤコブの勝利が明示されています。それはヤコブにイスラエルという新しい名前を与えられたことから理解できます。「ヤコブ」とは、「かかとをつかむ者、人を出し抜く者」という意味です。「イスラエル」は、「神と戦う」の意味です。つまり、ヤコブはかつては人を出し抜いて自分の幸せを求めていた輩でしたが、神と格闘することによって祝福を得る者となったのです。(ヤコブは生涯に渡り神と霊的な格闘をして祝福を得たのだと思います。それは後のイスラエル国の歩むべき指針でもあります)
 その結果、ヤコブの恐れは消え去りました。ヤコブは自分が殺されても家族は逃がれることが出来るように、最も愛するラケルとヨセフを最後尾に置き、自分は列の先頭に立ち、兄エサウの元へ歩き出しました。遂にエサウと20年越しの再会を果たし、抱き合い、互いに涙を流し、和解することが出来ました。

4.神の約束の成就

 この時からイスラエルという国民が誕生しました。アブラハムに約束された「大いなる国民」としてヤコブが選ばれ、イスラエルという名を与えられました。神様はイスラエルを選びの民として祝福することを約束されました。この約束は永遠に続く約束です。現在、イスラエル人は不信仰の中にありますが、教会時代が終わるとき、彼らは再び信仰復帰し、神が祝福された第一の民として再び立てられることを聖書は預言しています。(ローマ11章参照)

 ヤコブと格闘したのは、神の使いだと話しましたが、それは天使ではありません。29節を読むと、その人はヤコブをその場で祝福しています。つまり、そのお方は天使よりはるかに偉大であり、父なる神と同じような権威を持っておられるお方です。それはイエス・キリスト以外に考えられません。人間としてこの世にお生まれになる前の、子なる神、キリストであると私は理解しています。キリストはこのような形で旧約時代に何度も姿を現されています。天使と同じように現れ、「神の使い」と呼ばれていますが、父なる神と同等の権威を持ち、人々を祝福し、人々の礼拝を受けておられます。後にイエス様は次のように語られています。
そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」ヨハネ8:57-58

 このキリストが、人間としてお生まれになり、私たちを罪のさばきから救う救い主として来てくださいました。キリストはアブラハムの子孫としてお生まれになりました。アブラハムに約束された「地のすべての国々はあなたの子孫によって祝福される」という約束は、イエス・キリストによって完全に成就しました。神様の祝福を求める人はイエス・キリストを受け入れてください。この方によって神様の祝福が与えられると約束されています。