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心に響く聖書の言葉

賛美にあふれた人生  詩篇22篇1-18節



 イスラエルの王となったダビデの記事を読めば読むほど、彼の生涯は賛美に満ちていたことがわかります。詩篇には彼が作った賛美の詩が多く、「ダビデの賛歌、ダビデのミクタム、指揮者のために、フルートに合わせて、立琴に合わせて」というように表題がつけられている詩篇が数多くあります。
(その中にはダビデ自身が書いたものでなく、後年にダビデのために書かれた詩篇もあると考えられています。)

 ダビデは音楽家としても素晴らしい才能を持ち、立琴の名演奏家でもありました。また彼は礼拝のために楽団を結成し、賛美を取り入れたことがT歴代誌25章に記されています。

「ダビデと将軍たちは、アサフとヘマンとエドトンの子らを奉仕のために取り分け、立琴と十弦の琴とシンバルをもって預言する者とした。彼らおよび【主】にささげる歌の訓練を受けた彼らの同族──彼らはみな達人であった──の人数は二百八十八人であった。」

 ダビデは楽団を12人ずつ、24グループに分けて賛美の奉仕に当たらせました。彼がいかに賛美を愛していたかを知ることが出来ます。

一、ダビデの苦難

 ダビデもヤコブやヨセフ、モーセらと同じように多くの試練を乗り越えた人でした。彼の生涯には特に二つの大きな試練がありました。一つはダビデがまだ若く、羊飼いをしていたときのことでした。彼はイスラエルの初代の王サウルの目に留まり、サウル王に仕えるために召し出されました。

 ダビデは王の側近として、また軍隊長として敵国との戦いに出て行き、神様の祝福によって連戦連勝しました。その勝利の凱旋時、イスラエル民衆がこぞってダビデを称賛したため、サウル王にねたまれ、不条理にも命を狙われるようになりました。ダビデは荒野に逃げ、逃亡生活を送る羽目になりました。

 もう一つの試練は、彼が壮年になってからでした。サウル王に代わりイスラエルの新しい王となったのですが、今度は自分の息子アブシャロムに王位を狙われ、またも逃亡生活を送ることになりました。ダビデは長い間、洞穴に身をひそめる生活を送り、幾度も殺されかけました。危機を脱するため、よだれを垂らし狂人を装ったりもしました。それは王であったダビデにとって屈辱であったでしょう。

 詩篇22篇はそのような苦難の時のダビデのことばです。

詩篇22:1 わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。

 ダビデの苦しみはあまりにも大きくて神様に見捨てられたと思うほど彼は絶望しました。信仰者にとって自分が犯した罪のために苦しむのは当然ですから耐えてしかるべきです。また、人から受ける苦しみも乗り越えることが出来ます。なぜならあわれみ深い神が共にいてくださると信じるからです。しかし神様に見捨てられたなら、だれも耐えることができません。それは完全な暗闇であり、まったく希望がないからです。しかし、ダビデはそれでも信仰を捨ててはいません。深いところで神に信頼し、その救いを昼も夜も願っているのです。

22:2 わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。
22:3 けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。
22:4 私たちの先祖は、あなたに信頼しました。彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。
22:5 彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした。

22:10 生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいた時から、あなたは私の神です。


 神様は救いの神であり、信頼するに値するお方であるとダビデは告白しています。だからなおさら自分の身に降りかかった災いを理解することができません。祈っても何の答えもなく神様が沈黙を保っておられる・・・それは神様に見捨てられた状態だとダビデは嘆いているのです。事実、神様はダビデを救わず、苦しみの中に閉じ込められました。それは後の大きな目的のためでした。神様はダビデの苦しみを通してイエス・キリストが受ける苦しみをあらわそうとされたのです。ダビデの絶望のことばはそのままイエス・キリストが十字架に架けられた時のことばとなりました。



マタイ 27:46 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。


 またダビデが記した次の嘆きのことばも、明らかにイエス・キリストの受難の預言となりました。

22:6 しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。
22:7 私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。
22:8 「【主】に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。」

22:14 私は、水のように注ぎ出され、私の骨々はみな、はずれました。私の心は、ろうのようになり、私の内で溶けました。
22:15 私の力は、土器のかけらのように、かわききり、私の舌は、上あごにくっついています。あなたは私を死のちりの上に置かれます。
22:16 犬どもが私を取り囲み、悪者どもの群れが、私を取り巻き、私の手足を引き裂きました。
22:17 私は、私の骨を、みな数えることができます。彼らは私をながめ、私を見ています。
22:18 彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。


 ダビデは神様のご計画を知らずに、ただ自分が受けた苦難と彼の思いを記しました。しかし、神様は彼の受けた苦難、彼の悩みすべてをご存じで、それを後の人の救いのために、全世界の人々の救いのために用いられたのです。

二、苦難の解決法

 詩篇22篇には、神様が私たちに与えられる人生の方程式が記されていると思います。それはまず、人生には苦難があふれているということです。それは人が罪の性質を持って生まれ、罪の中に生きているからです。ではその解決法は何でしょう?―――それは祈ることです。ダビデは絶望的状況にあっても神様により頼み、神様に祈っています。

22:19 【主】よ。あなたは、遠く離れないでください。私の力よ、急いで私を助けてください。
22:20 私のたましいを、剣から救い出してください。私のいのちを、犬の手から。
22:21 私を救ってください。獅子の口から、野牛の角から。あなたは私に答えてくださいます。


 ダビデは神様が沈黙されている間も懸命に祈っています。そして21節で「あなたは私に答えてくださいます」とダビデは書きました。霧が晴れたように、ダビデの人生が輝き出します。神様から答えがあるということはなんと嬉しいことでしょう。天地万物の創造者、私にいのちを与えておられる主からの答えがある――それこそが解決なのです。それでダビデは次のように主をほめたたえています。

22:22 私は、御名を私の兄弟たちに語り告げ、会衆の中で、あなたを賛美しましょう。
22:23 【主】を恐れる人々よ。主を賛美せよ。ヤコブのすべてのすえよ。主をあがめよ。イスラエルのすべてのすえよ。主の前におののけ。
22:24 まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。
22:25 大会衆の中での私の賛美はあなたからのものです。私は主を恐れる人々の前で私の誓いを果たします。
22:26 悩む者は、食べて、満ち足り、主を尋ね求める人々は、【主】を賛美しましょう。あなたがたの心が、いつまでも生きるように。
22:27 地の果て果てもみな、思い起こし、【主】に帰って来るでしょう。また、国々の民もみな、あなたの御前で伏し拝みましょう。
22:28 まことに、王権は【主】のもの。主は、国々を統べ治めておられる。
22:29 地の裕福な者もみな、食べて、伏し拝み、ちりに下る者もみな、主の御前に、ひれ伏す。おのれのいのちを保つことのできない人も。
22:30 子孫たちも主に仕え、主のことが、次の世代に語り告げられよう。
22:31 彼らは来て、主のなされた義を、生まれてくる民に告げ知らせよう。


三、神様のご計画

 神様のご計画は、ダビデに与えられた苦難によってイエス・キリストの十字架の苦しみをあらわすことでした。さらにダビデに与えられた勝利と栄光によって、イエス・キリストの勝利と栄光をあらわしておられます。ダビデ王とイエス・キリストの生涯はシンクロしているかのようです。

イザヤ 9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。

 イエス・キリストはダビデの王座に着く方として来られます。二千年前に来られた時には罪の赦しを与えるために身代わりの死を遂げられ、よみがえられ天に帰られましたが、再び来られるときには預言通りにダビデの王座に着座され、王国を永遠に治められます。

 従って、ダビデの生涯は後に来られる救い主イエス・キリストの生涯をあらわしたのです。実はこのことは現在の私たちクリスチャンにも当てはまります。私たちの生涯もイエス・キリストの生涯をあらわし、シンクロするのです。

@イエス・キリストを信じ受け入れるとき、私たちはキリストと共に死に、共に葬られ、共によみがえります。

Aキリストの十字架の苦しみの欠けた部分を補うために私たちも苦しめられます。

コロサイ 1:24 ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。
Tテサロニケ3:3 あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。

 キリスト者は苦しむことが定められています。たしかにキリストに忠実に歩もうとする人は必ず迫害にあいます。クリスチャンであることを隠し、信仰を曲げて歩むなら迫害にあうこともありません。しかしそれは主の御心ではありません。

Bイエス様が死に打ち勝ち、勝利の主とされたように、私たちも信仰によって世に打ち勝つと宣言されています。

Tヨハネ5:4 なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
5:5 世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。

C千年王国においてイエス様と同じようなることが定められています。
 よみがえられ天に上げられたイエス様と同じように、私たちも新しい体を与えられて永遠の都に住むようになることが約束されています。キリストに似た者となるのです。



 ですから、キリスト者はダビデと同じようにキリストの生涯をあらわすことが出来るのです。常に私たちの歩みがキリストをあらわすことが出来るならどれほど素晴らしいでしょう。イエス様が語られたことばに共鳴して歩みたいものです。楽器が同じ高さの音を出す時にそれは共鳴し合ってすばらしい響きとなるように、私たちがキリストの言葉に共鳴していくなら、ダビデと同じようにすばらしい証しを残し、賛美にあふれるでしょう。ダビデと同じように福音を人々に告げ知らせ、主を賛美して歩んでいきましょう。

22:22 私は、御名を私の兄弟たちに語り告げ、会衆の中で、あなたを賛美しましょう。