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心に響く聖書の言葉


預言者イザヤ イザヤ書61章1−11節




1.イザヤ書背景


 イスラエル南北王朝時代(北イスラエル王国;BC922〜721、南ユダ王国;BC922〜587)、歴代の王たちが堕落して行く中で、神様はイスラエルの灯火を消さないために預言者を起こし、王を助け民衆を正しく導こうとされました。

 北イスラエル王国にはエリヤ、エリシャ、オバデヤ、ヨエル、ヨナ、アモス、ホセア等を遣わし、南ユダ王国にはイザヤをはじめにミカ、ナホム、ゼパニア、エレミヤ、ハバクク、ダニエル、エゼキエル等を遣わしました。それでも歴代の王たちの多くは神様に立ち返りませんでした。

 それゆえ両王国に神様はさばきを下されました。北イスラエル王国はBC721年にアッシリヤ帝国によって滅ぼされ、南ユダ王国もBC607年以降、三度に渡りバビロン帝国によって捕囚され587年に王国は消滅しました。イザヤは北イスラエルが滅ぼされた頃、南ユダ王国において預言者として活動しました。イザヤは約50年間、預言活動を行い、南ユダをアッシリヤ帝国の攻撃から守ったのでした。


 イザヤの預言を記したイザヤ書はミニバイブル(小聖書)と呼ばれます。イザヤ書はその内容から1章から39章、40章から66章の二つに区切ることが出来ます。ちょうど旧約聖書が39巻あり、新約聖書27巻、合計66巻です。驚くことにその内容も1章から39章までは罪の告発に始まり、新しい時代の待望で終わります。40章からは捕囚からの解放宣言に始まり、新天新地の約束で終わり、これも旧約、新約聖書の内容と合致しています。聖書の章節の区切りがつけられるようになったのは13世紀以降ですから、イザヤ書の内容を読んで、あえてこのような区切りにしたのだ思われます。

 イザヤ書の預言は新約聖書に最も多く引用されています。そのメッセージは極めて福音的であり、「第五福音書」とも呼ばれるほどです。イスラエルの罪を叱責し、さばきと同時に救いを約束し、そしてメシアの預言があります。特にメシア預言は、他に例が無いほど詳しく記されています。9章(誕生と宣教)、53章(受難)はキリストの十字架以降に書かれたのではないかと思われるほど見事にイエス・キリストのことを預言し、それが成就しています。


2.イザヤの人となり

 この絵は「火で唇をきよめられるイザヤ」(ベンジャミン・ウエスト画 1782, ボブ・ジョーンズ大学蔵)です。
 BC740年ごろイザヤは神様の召命を受けました(6章)。彼には預言する妻と少なくとも二人の子がいました。その生涯のほとんどを預言活動と歴史家としての文書活動をしています。彼は「ウジヤの業績」「ユダとイスラエルの王たちの書」を記したことが聖書中に記載されています。

U歴代 26:22 ウジヤのその他の業績は、最初から最後まで、アモツの子預言者イザヤが書きしるした。
U歴代 32:32 ヒゼキヤのその他の業績、その忠実な行いは、アモツの子預言者イザヤの幻、すなわちユダとイスラエルの王たちの書に、まさしくしるされている。


「シオンに良い知らせ伝えよ」という主の命令を受けた彼の働きは、イスラエル同胞に対する福音宣教でした。その主題は「主を仰ぎ見て救われよ」というメッセージでした。イザヤは神様が語られたことばを誠実に取り次ぎ、イスラエルの救いのために生涯働きました。しかし、罪を悔い改めないイスラエルの人々に彼は心痛めたことでしょう。


 彼の最期は、ラビの伝承によれば、マナセ王の偶像礼拝の勅令に反抗したため、板に縛りつけられ、ノコギリで引かれて殉教したと伝えられています。


3.イザヤの預言

 61章1−2節には主に遣わされた人が登場します。
61:1 【神】である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、【主】はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、
61:2 【主】の恵みの年、われらの神の復讐の日を告げ、すべての嘆き悲しむ者を慰めるために。

 ここでの語り手はだれでしょう?神様でしょうか、イザヤでしょうか?――いいえ、それ以外の人物です。イザヤ書では第三の登場人物が描かれています。その人物は、処女から生まれ、インマヌエル(神が我々と共におられる)と呼ばれ、神の霊を与えられ、人々の罪のために苦しみを受けるおかたとして預言されています。この語り手とは、まさしくイエス・キリストです。この預言が記された約700年後にイエス・キリストはお生まれになりました。そして公生涯中、イザヤ書のこの預言箇所を会堂で朗読されました。


ルカ4:16 それからイエスはご自分が育ったナザレに行き、いつもしているとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。
4:17 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その巻物を開いて、こう書いてある箇所に目を留められた。
4:18 「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、
4:19 主の恵みの年を告げるために。」
4:20 イエスは巻物を巻き、係りの者に渡して座られた。会堂にいた皆の目はイエスに注がれていた。
4:21 イエスは人々に向かって話し始められた。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」


 イザヤが記した預言は、まさにご自分のことであると
宣言されたのです。

 ただ、私は次の点にも注目したいのです。イエス・キリストは先ほどの預言に続くイスラエルへの祝福の預言は朗読されませんでした。

61:3 シオンの嘆き悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、嘆きの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるために。彼らは、義の樫の木、栄光を現す、【主】の植木と呼ばれる。

(シオンとはエルサレムの古い呼び方でイスラエル全体を表すこともありました。)
61:4 彼らは昔の廃墟を建て直し、かつての荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。
61:5 他国の人は立って、あなたがたの羊の群れを飼い、異国の民があなたがたの農夫となり、ぶどう作りとなる。
61:6 しかし、あなたがたは【主】の祭司と呼ばれ、われわれの神に仕える者と言われる。あなたがたは国々の財宝を味わい、彼らの富を誇る。

 イエス・キリストがあえて2節までしか朗読されずに座られたのは、イスラエルがキリストの福音を受け入れないことをご存知だったからでしょう。イエス様が朗読を終え、「今日、この聖書のことばが実現しました。」と宣言されると、人々は
「この人はヨセフの子ではないか」といぶかります。その不信仰を見てイエス様はナザレの町ではしるしを行わないと宣言されます。すると人々は怒りだし、

ルカ4:28 これを聞くと、会堂にいた人たちはみな憤りに満たされ、
4:29 立ち上がってイエスを町の外に追い出した。そして町が建っていた丘の崖の縁まで連れて行き、そこから突き落とそうとした。」
のです。

 そしてイエス・キリストの十字架と復活以降も多くのイスラエル人は福音を受け入れませんでした。それゆえイザヤが3節以降に預言した祝福を受け取ることが出来ず、エルサレムはローマ帝国によって陥落し、イスラエル人は散らされてしまったのです。歴史はこの世界が聖書の預言の通りに進んでいることを証明しています。聖書の預言は必ず成就するのです。したがって、3節以降の預言はまだ成就されておらず、イスラエルの回復と祝福はイエス・キリストが再臨される時に実現されるはずです。


4.イザヤの感謝

 神様はイザヤにご自身のご計画の多くの部分を示されました。イザヤはキリストの誕生、その宣教、十字架の死、そして勝利と栄光、さらにイスラエルの回復、キリストを信じる全世界の人が受ける祝福と恵み、そして回復された王国の風景まで預言することが出来ました。それゆえイザヤは神様に心から感謝しています。

61:10 私は【主】にあって大いに楽しみ、私のたましいも私の神にあって喜ぶ。主が私に救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。
61:11 地が芽を出し、園が蒔かれた種を芽生えさせるように、【神】である主が、正義と賛美をすべての国々の前に芽生えさせるからだ。


 10節はイザヤ個人の喜びで、11節は全世界の喜びを植物に例えています。神様が世界中に種を蒔かれ、芽が出て生い茂り、実がなる――その実とは正義と賛美です。現在もこの祝福は継続中です。世界中に福音の種が蒔かれ、それを受けた人たちに正義と賛美という実がなっているのです。


 イザヤの生涯は決して楽なものではありませんでした。宣教しても悔い改めないイスラエルの人々から迫害を受けました。また自分の弱さに嘆いたことでしょう。しかし、そのような事とは別のところで彼は平安を持ち、喜んでいました。神様の御言葉とご計画を知り、それを信じたからです。

 私達にはイザヤと同じように神様の永遠のご計画がはっきりと示されています。イザヤ以上にそれは確実です。キリストがすでに来臨され、十字架上での贖いを完成して罪の赦しが与えられているからです。聖書を学び、神様の永遠のご計画を知ることが出来るのはなんという恵みでしょう。その祝福にあなたも私もあずかることを知るのは、なんという喜びでしょう。