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心に響く聖書の言葉


T列王記17章1-16節 「かめの粉は尽きない」

 旧約聖書に登場する預言者エリヤに焦点を当てて学びます。

1.炎の預言者エリヤ


 聖書中、預言者エリヤは特筆に値する重要な登場人物とされています。

@エリヤは死を経験せず天に上げられた。(歴史上、生きたまま天に上げられたのはエリヤとエノクの二人だけです。)

Aメシア(救世主・キリスト)が来臨するとき、その道を備えるためエリヤが現れると預言されている。
マラキ 3:1 「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。」
マラキ 4:5 見よ。わたしは、【主】の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。


Bイエス様が弟子たちを伴って高い山に登られ、山上の変貌をされたとき、エリヤとモーセが天から現れた。(マタイ17章)

 エリヤは天から火をくだして偶像崇拝者たちを滅ぼしたので、炎の預言者と呼ばれています。彼はその生涯において多くのしるし(奇跡)を行いました。

(神はこの時代に預言者たちを用いて神のご計画と救いの道を備えられました。預言者たちが語ったことばが神のことばである証拠として、しるしと呼ばれる超自然の奇跡を神様は用いられました。同様にイエス・キリストが語ったことばが神のことばである最大の確証は、彼自身のよみがえりのしるしでした。現在では神のことばは聖書としてまとめられ、完結していますから、しるしが与えられることはありません。)


 エリヤが活躍した時代は預言者イザヤより100年ほど早いBC850年ごろです。南北に分裂したイスラエルの北イスラエル王国においてエリヤは活動しました。当時の王はアハブ王で、彼はイスラエルの歴史の中でも五本の指に入るほどの最悪の王でした。主の御前に悪を行い、イスラエルに偶像礼拝をもたらしました。ですからエリヤはアハブ王に悔い改めるよう何度も説教をしたので、当然アハブ王から憎まれ命を狙われました。

 17章では、アハブ王が悔い改めないので「私のことばによらなければ、ここ2、3年の間は雨が降らない」とエリヤは預言しました。そしてその預言通り雨が全く降らず、大干ばつがイスラエルを襲いました。アハブ王は怒り、預言者エリヤを恨み、彼を探して殺そうとしたのです。

 神様はエリヤに命じて川のほとりに避難させました。すると不思議なことが起こりました。カラスが毎日、朝と夕方にパンと肉を運んできたと聖書は記しています。神様の驚くべきみわざによりエリヤは養われたのです。その後、川の水が干上がると、今度は「シドンのツァレファテのやもめのところへ行き、そこに住め」と命じられました。

2.貧しいやもめ

17:8 すると、彼に次のような【主】のことばがあった。
17:9 「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」
17:10 彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、たきぎを拾い集めているひとりのやもめがいた。そこで、彼は彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」
17:11 彼女が取りに行こうとすると、彼は彼女を呼んで言った。「一口のパンも持って来てください。」
17:12 彼女は答えた。「あなたの神、【主】は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」
17:13 エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。


 エリヤはやもめが養ってくれると聞いたので、大富豪のやもめを想像したに違いありません。ところが、このやもめの言葉を聞いたときに驚いたことでしょう。養うどころか明日のいのちも分からないような半死半生の状態でした。干ばつと飢饉がこの地にも及んでいたのでしょう。やもめの食料は底をつき、最後の食事をしてから親子心中を考えていたように受け取れます。あるいは「最後のパンを作って食べ、あとは死を待つだけだ」という状態を彼女は言っているのかもしれません。いずれにしてももう後がない状態でした。やせ細り、生きる望みもなくなってしまった状態。人間的に考えるなら、彼女は全く不幸な女性と言うしかありません。夫に先立たれ、たった一人の息子が生きがいであったでしょう。けれど食べさせる物がない。自分はどうあれ、子どもにだけは食事を与えたいのが親の思いでしょう。しかしそれもかなわぬ状況でした。

 エリヤはやもめの言葉を聞いても、「まず、私のためにパン菓子を作り、持ってきなさい」と言います。なんてひどい預言者だと思われるでしょう・・しかし、エリヤは神様のご計画を知っていたのです。

17:14 イスラエルの神、【主】が、こう仰せられるからです。『【主】が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」
17:15 彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。
17:16 エリヤを通して言われた【主】のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。




 驚くべきは神様の御わざです。「かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならない」・・私たちの神は全能の神です。不思議を行い、人の必要を備えられるお方です。時間に縛られず、どこにでも臨在されるお方です。天からマナを降らせイスラエルの大群衆を荒野で40年間養われました。神の御子イエス・キリストは二匹の魚と五つのパンで5000人のお腹を満たされました。神にとって不可能なことは一つもありません。

 主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくなりませんでした。飢饉の間中、ずっとやもめと息子は神様の奇跡によりお腹を満たすことが出来ました。そして預言者エリヤを養うことが出来たのです。

3.神様の御心

 この聖書箇所には神様の人間(信仰者)に対する御心が示されています。

@神様は導かれるお方です

 神様は預言者エリヤを養うためにやもめを用いられました。おそらくエリヤは空腹のためフラフラの状態でツァレファテに着いたことでしょう。そこで彼はやもめを通して助けられ養われました。しかし、そのやもめもエリヤによって助けられ、いのちを救っていただいたのです。それも彼女が望みを失ってしまったときに。神様の導きはいつも不思議です。時に私たちをぎりぎりのところまで追いやられます。自分ではもうどうしようもなくなったその時に、神様は救いの御手を差し伸べられるのです。それは私たちが自分や人間に期待せず、主に期待し、主の力によって救われることを理解するためです。
 
A御言葉に従う時に祝福がある
 エリヤは主が命じられことばに従い、シドンに住むやもめの所へ行きました。そしてやもめに「私にパンを持ってきなさい」と命じました。やもめはエリヤの理不尽なことばを聞いても文句を言わずそのことばに従い、最後の材料でパンを作りエリヤに食べさせました。「彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。」と書いてあります。それは彼女がエリヤを神の預言者だと理解したからでしょう。「あなたの神、主は生きておられます」・・このことばに彼女の信仰があらわされています。その時、神様のすばらしい御わざが成されました。「かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった」のです。これこそ信仰の勝利です。彼女の人生に大逆転が起こりました。神様の御言葉に聞き従う時、神様の大いなる祝福があるのです。



B神様を第一とする

 物事にはすべてに優先順位があることを教えられます。13節で「まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。」とエリヤは告げました。普通は逆であるはずです。「まず自分の子どもに食べさせてそれから・・・」というのが親心です。しかし神様の御心は「まず、私のために…」なのです。同じように、自分の生活がしっかりできてから、その後に信仰生活だという人が多いのが現実です。しかし聖書は初めから終わりまで「神様が第一」と教えています。

マタイ6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
ルカ 9:24 自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。


 神様はいつも信仰者にこの優先順位を教えられます。創世記1章1節では「初めに神が天と地を創造された」のです。初めに神が私たちにいのちを与えられ、初めに神が私たちを愛してくださったのです。初めに神様がおられなければ、私たちの人生はむなしいのです。初めに神がおられるから、私たちには生きる目的があり、生きる希望があるのです。

Cどんな人でも神様の役に立つことが出来る。
 貧しいからできないのではありません。能力がないから神様のために働けないのではありません。神様は取るに足りない者を用いられます。カラスさえ用いられる神様です。カラスは死骸をあさる鳥としてイスラエル人だけでなく多くの人から忌み嫌われている鳥です。そのカラスさえ神様は用いられました。そうであるなら、神の御姿に似せて造られた私たちが神様に用いられないはずがありません。

 貧しいやもめが持っていたのは本当にわずかでした。一握りのかめの粉とわずかなつぼの油でした。しかし、それを用いてパンを作り、預言者エリヤに与えました。それが大きな祝福となりました。神様はモーセに「あなたの手にあるそれは何か?」と尋ねられました。それはただの羊飼いの杖でした。サムソンの手にあったのは汚いロバのあご骨でした。少年がイエス様に差し出したのは大群衆には何にもならない、たった二匹の魚と五つのパンでした。神様はその杖を用いられました。汚いロバのあご骨を用いられました。二匹の魚と五つのパンを用いられました。私たちが持っているものがどれほどわずかでも、主は「それを差し出し用いなさい」と命じられるのです。それは小さき者を主が引き上げて用いてくださるという約束なのです。