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心に響く聖書の言葉


「空しい人生ではない!」 伝道者の書1章1-14節



1.空の空


 旧約聖書中の「伝道者の書」は、イスラエルが最も栄えた時代に支配したソロモン王によって書かれました。ソロモンはダビデ王の息子であり、イスラエルの王となった時、その祈りを聞かれ、神様から「知恵の心と判断する心」をいただきました。

T列王記3:12 今、わたしはあなたの言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断する心とを与える。あなたの先に、あなたのような者はなかった。また、あなたのあとに、あなたのような者も起こらない。

 有名なシェバの女王がソロモンの名声を聞いて遠方から訪れたとき、彼女は次のように言いました。

T列王記10:6 彼女は王に言った。「私が国であなたの事績とあなたの知恵とについて聞き及んでおりましたことはほんとうでした。
10:7 実は、私は、自分で来て、自分の目で見るまでは、そのことを信じなかったのですが、驚いたことに、私にはその半分も知らされていなかったのです。あなたの知恵と繁栄は、私が聞いていたうわさよりはるかにまさっています。
10:8 なんとしあわせなことでしょう。あなたにつく人たちは。なんとしあわせなことでしょう。いつもあなたの前に立って、あなたの知恵を聞くことのできる家来たちは。


 ソロモンの知恵は神様からの賜物であり、その権力を支える杖となりました。彼の生涯は莫大な富と繁栄、そして名声にあふれたものになりました。ソロモンは多くの箴言(格言のようなもの)を読み、そして「伝道者の書」を書き残しました。その書き出しから驚かされます。
「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。」 ※別訳では「なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。」

「空の空」とは「王の王、主の主」という言い方と同じで「空の中の空」ということで、最も強い空しさを表します。何が空しいのかをソロモンはたくさんの事柄を挙げて説明しています。

◎労苦は空しい
 1:3 日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう

◎何も変わらない。何も新しいものはない
 1:9 昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。

◎快楽の空しさ
 2:1 私は心の中で言った。「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」しかし、これもまた、なんとむなしいことか。

◎仕事の空しさ
 2:11 しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。

 ソロモンはこの世の空しさを皮肉をもって次のように記しています。

4:2 私は、まだいのちがあって生きながらえている人よりは、すでに死んだ死人のほうに祝いを申し述べる。
4:3 また、この両者よりもっと良いのは、今までに存在しなかった者、日の下で行われる悪いわざを見なかった者だ。


 おそらく日本人の私たちは「空の空」という言葉を聞くと、仏教と似ていると思われるでしょう。般若心経は仏教の教えを262文字に集積した経典ですが、そのなかに「色即是空(しきそくぜくう)、空即是色(くうそくぜしき)」という言葉が出てきます。その解説を学ぶと、ソロモンの言葉に通じるところがあります。すべての営みは過ぎ去る風のように空しく、ただ繰り返され、後には何も残らない。それ故、この世の移り変わる物は実体ではない。人間の体も思いも実体ではなく、いつか死に、無くなるものであることを理解し、それを嘆くのではなく、自分自身が無常であることを受け止めるのです。「色即是空」はその事を教えており、諸行無常という言葉の意味と似ています。

 すべてが空であることを悟るなら、富や貧しさ、快楽や苦しみ、老いることにも死ぬことにも、わずらわされることがない。空を悟ることにより、嘆くことなく前を向いて歩むことが出来る・・これが「空即是色」です。

 仏門では神様の救いがありませんので、救いを何に求めるかというと、無の境地に求めます。この世の煩わしさに捕らわれずに、心を空(から)にするとき、一切の煩悩から解き放たれて歩めるようになる・・・これが悟りであり、仏となることです。しかし、それらは人間の理想であり、おおらかな慈悲深い心をもって歩みたいという人間の希望です。心と精神の理想を追い求めるという点で仏教は素晴らしい宗教だと言えますが、うがった見方をするなら人間の限りない欲求の追及でもあると感じます。

 ソロモンは釈迦が生まれる500年も前に、般若心経が成立する1000年も前に、「伝道者の書」を書いています。彼はすでに仏教でいう諸行無常であることを悟り、人がむなしいことや、すべての営みが繰り返されているだけに過ぎないことを認めていますから、聖書の教えは卓越しています。

 ソロモンが著した空(くう)とは、神様を忘れた人間の姿であり、神様から離れていては被造物はすべて空しいと教えています。本来は地の塵にすぎない被造物の私たちですから、価値など見出せるはずがありません。しかし、神様は塵にすぎない私たち人間に、永遠のご計画とご自身の愛を注いでおられます。

5:19 実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。
5:20 こういう人は、自分の生涯のことをくよくよ思わない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。


 また次のようにも教えています。

12:1 あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。

 創造者を知らないなら、私達は歳をとるにつれ、さびしくなり、自分がみじめであることに気づきます。自分が懸命に取り組んできたことも一時的なことであり、何も変わってはおらず、自分が得た富も誉も次の世に持っていくことが出来ない――すべてが空であると気づくのです。ですから、若いうちに創造者を知ることは大切なことです。それは自分が造られた目的を知ることです。

 聖書の中で、神様は陶器師に例えられます。陶器師は価値のない土を取り、水を加えて練り、形造ります。花瓶にしたり、お皿にしたり、茶碗にしたり、目的にしたがって陶器をその形に造るのです。同じように神様は目的を持って人を造られ、いのちを与えておられるのです。ですから創造者を知るなら、歳を取っても、体が不自由になっても神様が目的をもって私をまだ生かしてくださっていることを感謝することが出来るのです。



2.新約聖書における空の空

 神様を忘れてしまった人間の愚かさ、空しさを、新約聖書ではさらに厳しく教えています。

エペソ2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。


 ここでは、私たち人間の状態は「空」どころではなく、限りなく「マイナス」です。罪の中に死んでいて、悪魔に従って歩み、肉欲の中に生き、神様の怒りを受けるべき状態だと。

 イエス様は私たちのことを放蕩息子に例えて話されましたが、それはイエス様の優しさで、本当は放蕩息子よりもっと質(たち)の悪いものなのです。現代で言うなら、周りの人に病気をうつすウイルスのようなものです。周りまで悪の道に引きずり込んでしまうからです。神様に背を向けて歩んでいた私たちは全く望みなく、神様の前に堕落し、汚れた者でした。平和や柔和な心を持ち合わせてはいません。罪は私たちに怒りや憎しみ、悲しみ、争い、恐れをもたらします。罪人であるから私たちは苦しむのであり、誰もそこから逃れることはできないのです。

3.空を満たすキリスト

 しかし、それでもなお神様は私たちを憐れみ、恵みを注ごうとされています。

エペソ2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──
2:6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。


 父なる神はそのひとり子イエスを私たちの罪の身代わりとされました。神様は私たちの今まで犯してきた罪もこれから犯す罪も、キリストにあってすべて赦すと約束しておられます。私たちは罪の中に死んでいたので、自分を救うことはできません。だから神様のほうからその救いを備えてくださったのです。ですから福音は神様からの一方的な恵みなのです。

 キリストの十字架によって罪の中に死んでいた私たちを赦してくださるだけでなく、「キリストと共によみがえらせ、天のところに座らせてくださった」とあるように、天国での身分を与えられ、天国へ行く者と変えられました。神様の子どもにしてくださったのです。神様の子どもであるなら、神様に捨てられることはありません。「救われる」とは、一時的ではなく、永遠のことなのです。

 「野の花」という機関誌を発行しておられるバプテスト障害者伝道協会の内藤俊宏先生がおられます。その「野の花」の中で、内藤先生ご自身の生い立ちからこれまでの証しを載せておられました。脳性麻痺の重度障害者として内藤先生は生まれました。心ない人たちの中傷により肩身の狭い生活を送り、自殺も試みたことが記されていました。救助により一命は取り留めたものの、「なぜ助けたのか」と、それさえ反発したそうです。「まさしく生きた屍の毎日だった」と回顧されています。

 絶望の淵で、訪問に来られた宣教師の語る福音によって救われ、すべてが変えられました。伝道者になりたいと決心して神学校の門をたたきました。しかし、あまりの障害のひどさに、どの神学校からも入学拒否されたそうです。たった一つだけ神学校が受け入れてくださり、苦労の末、学びを終えられました。卒業後、伝道の働きを続け、75歳になられましたが、現役で美浜教会の牧師として働き、さらに障害者伝道を担っておられます。「値しない者に過分なものを賜り、75年間、神様は私に一貫して誠実を尽くしてくださった」と証しされています。

 神様を離れては「生きた屍」としか思えなかった人が、創造者を知ることにより「生きることの尊さ」と「神様の恵み」を知り、感謝の心をもって歩めるようになったのです。

エペソ2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
2:9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
2:10 私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。


 聖書は「あなたがたは神の作品」ですと教えています。人はもともと神様に造られた者ですが、「良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られた」とあります。それはリフォーム、リフレッシュ、いえ、リニューと言った方がよいでしょう。新しく造り直されたのです。その方法は神の霊である聖霊を与えられることにより、霊において新しく生まれさせてくださったのです。神様は私たちの空(から)の器を聖霊で満たし、イエス様の恵みの中を歩ませてくださるのです。

 あなたがもし、「自分はむなしい、自分は価値がない」と感じておられるなら、今日、イエス・キリストの福音を信じ、神様の救いを受け取ってください。