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心に響く聖書の言葉


マタイによる福音書6章22-34節「心配するのはやめなさい」



6:22 からだの明かりは目です。ですから、あなたの目が健やかなら全身が明るくなりますが、
6:23 目が悪ければ全身が暗くなります。ですから、もしあなたのうちにある光が闇なら、その闇はどれほどでしょうか。

 前回は善行について学びました。善行は神様の御心ですが、あなたの心次第で偽善となってしまいます。目が悪いなら全身が暗くなるように、心が闇に覆われているなら、あなたの行いすべてが闇のわざとなってしまいます。神様の願いは、あなたの心を光が来る天に向け、明るい昼の間に働くことです。

1.神か、富か

6:24 だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。

 私達は二人の人と同時に結婚することはできません。また、奴隷は二人の主人に仕えることができません(それは当時の常識だったのでしょう)――同じように人は神と富の両方に仕えることはできないと主イエスは教えられました。

 イエス様に「あなたは神に仕えるのか、富に仕えるのか?」と返事を迫られたなら、あなたはどう答えるでしょうか?――「はい、喜んで神様に仕えます」と宣言できるでしょうか?

 ペテロのように単純明快な人、悪く言えば、後先考えない人は「はい、神様に仕えます」とすぐに答えることが出来るでしょう。しかし、思慮深い人、悪く言えば優柔不断な人は、「どうしよう?」と悩むはずです。心配がわき起こるからです。「神様に仕えて歩みたいが、自分の生活は大丈夫だろうか?家族を養っていけるだろうか?…」と悩んでしまいます。

 イエス様の話を山上で聞いていた群衆も同じだったでしょう。彼らの多くは貧しい人たちでした。「富に仕えるな。宝を天に蓄えよ」と言われても、生活の心配は残ります。――イエス様は私たちが抱く心配を知っておられ、25節〜34節まで「心配するのはやめなさい」と教えられました。

2. 心配するのはやめなさい



@食ベ物、飲み物、着る服

6:25 ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。

 日本に住む私たちも何を着ようか、何を食べようかと悩みます。しかし、それはたくさんある物の中からどれにしようかという悩みです。「この服は先週着たから今日は着ていけないな。どれにしよう・・」「今日の献立は何にしようかしら?」という悩みです。それは贅沢な悩みであって、心配ではありません。

 選べるという事は幸せなことです。食事や服や車、仕事も選べることは幸せなことです。しかし、多すぎると選ぶのに時間がかかります。ファミレスが良い例かもしれません。メニューを見て決断力がない人は悩んでしまいます。選んだあとになって「こっちがよかった、あっちがよかった」と後悔します。贅沢な悩みです。

 イエス様が語られたのは、「明日、食べるものがない、着る服がない」という人たちの切実な心配です。そんな貧しかったつらい経験がある人は幸いです。イエス様のことばが心に響くからです。「いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。」――このことばに心から同意できるでしょう。貧しくてもいのちがあるだけで感謝です。新しい服がなくても大丈夫です。神様が生かしてくださるからです。だから
心配する必要はありません。

A空の鳥を見なさい
6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。



 鳥が食糧を蓄えているのを見たことがないでしょう。明日の食事の心配をしないので蓄えないのです。毎日空を飛んで行って食べ物を見つけて生活します。彼らに服は必要ありません。神様が羽を備えてくださっています。知能は人間よりはるかに劣る鳥ですが、神様の恵みによって生かされています。人間は鳥よりはるかに優れていますし、神様に愛されています。だから
心配する必要はありません。

Bいのちを延ばせない
6:27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。

 明日のこと、来週のこと、来年のことをどれだけ心配しても、自分のいのちを延ばす事は出来ません。明日のことを心配して暗い一日になるより、与えられた今日を感謝して生きる方がどれだけ素晴らしいでしょう。だから
心配する必要はありません。

C野の花を見なさい
6:28 なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
6:29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。
6:30 今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。

 野の花でさえ、神様の恵みによって咲き誇ります。その美しさは人の手の業を超越しています。野に咲く花にさえ神様はこれほど目をかけられるのですから、神様はあなたにどれほど多くの恵みを備えてくださるでしょう。だから
心配する必要はありません。



D異邦人が求めているもの

6:31 ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。
6:32 これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。

 心配しなくてよいことを教えるために、異邦人を取り上げられました。「異邦人」とは、「外国人」という意味だけでなく、「神を知らない民族、偶像礼拝の民、祝福のない人々」という意味が込められています。

「食べ物、飲み物、衣服を切に求めるのは異邦人であって、あなたがたは神の選びの民イスラエルではないですか?あなたがたには神様の祝福と守りがあるはずではないですか?」と諭されています。天の父は食べ物等が信仰者に必要なことを知っておられるのですから
心配する必要はありません。

 あなたの子供が「お母さん、今日の晩御飯は大丈夫?――お米あるの?――本当に晩御飯を食べれるよね?」と心配したら、お母さんは子供に「何を言っているの。心配しなくてもいいのよ!」と言うでしょう。それは必ず夕食があることをお母さんは知っているからです。
 イエス様も私たちに同じように言われます。「信仰の薄い人たちよ。心配しなくてよいのです。」と。必ず天の父が備えてくださるという根拠があるからです。

3.求めなさい

6:33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。
6:34 ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。


 衣食を心配しない代わりに、私たちが求め願うべきものがあります。それは「神の国とその義」です。

 ユダヤ人に向けて語られた「神の国とその義」とは、メシアが支配される王国であり、そこでは正義が支配し、悪はさばかれます。地は呪いから解放され、地上は楽園となります。その「神の国とその義」を求めるということは、どういうことでしょう――神の国が到来することを待ち望み、その国へ入るために準備することです。悔い改め、神の義が記された聖書を学び、神の御心を知り、善行をすることです。

 「神の国とその義」を求める人に対して、神様は祝福を惜しまれません。その人は必ず神の国へ入るのです。それに加えて、食べる物、飲む物、着る服も与えてくださいます。だから明日の心配をする必要はありません。

 明日のことは明日が心配します――深いことばだと思います。私たちの心配の多くは明日のこと、将来のことです。しかし明日の事を心配するより、今、自分にできることを行い、祈りつつ将来のために準備していくなら、道は開かれていくはずです。今日の心配はあっても明日のことまで心配しなくてよいのです。苦労はその日その日に十分あります。

 イエス様は「心配しなくてよいのです」と繰り返し語られました。それはあなたに決断をさせるためです。「あなたは神に仕えますか、富に仕えますか?」――どうか全能の神様の御手の力を信じ、「神様に仕える決断」をしてください。