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心に響く聖書の言葉


「賛美する理由」 コロサイ人への手紙3章12-17節



 賛美について記してある聖書箇所を検索すると、数多くの御言葉が見つかります。

詩篇147:1 ハレルヤ。まことに、われらの神にほめ歌を歌うのは良い。まことに楽しく、賛美は麗しい
――賛美するのは本当に楽しいことだと言うのです。賛美は喜びの歌、感謝の歌なのです。

ルカ2:13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。
2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

 キリストの誕生の時には天を埋め尽くさんばかりの多くの御使いたちが現れ、「グローリヤ、インエクシェルシスデー」(いと高き所に栄光が)と神を賛美しました。その光景を想像しただけで心が震えます。

コロサイ 3:16 キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。

 この御言葉では、感謝にあふれて心から神に向かって歌うことが賛美だと教えています。

 教会の集会、礼拝では必ずと言ってよいほど賛美が歌われます。ではなぜクリスチャンは賛美するのでしょうか?賛美する理由は何でしょうか?聖書で命じられているから賛美するのでしょうか?歌が好きだから賛美するのでしょうか?――私達は時々、何のために賛美するのかという事を確認する必要があります。

1.キリストと共に死んだから

コロサイ2:20 もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、
2:21 「すがるな。味わうな。さわるな」というような定めに縛られるのですか。

2:22 そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。
2:23 そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。


 新約聖書の中心の教えは、「キリストがあなたの罪のために身代わりとなって十字架で死んでくださった」という福音です。このキリストを信じるなら、罪赦され、永遠のいのちが与えられる、と聖書は約束しています。

 そして「あなたがたもキリストと共に死んだ」は、とても霊的なメッセージです。私たちは二千年ほど前の十字架の場所にいませんでしたが、キリストと共に死んだと教えられています。それは、キリストが十字架に架けられたとき、私の罪も十字架に架けられ、さばかれたからです。死んだ人はどれだけ罪を犯していても、もう法律で裁かれることはありません。だから自由だと教えています。そこには私達がこれから犯す罪も含まれています。

 悪魔が私の事を、「あいつはクリスチャンになってもまだ悪いことをしているではないか?」と父なる神様に訴えても、神様はこう答えられるでしょう。「いえいえ、もう彼は自分の罪のためにキリストと共に死にましたから、何の問題もありません。彼の罪は赦されています。」と。

 パウロが20-23節で教えているのは、かつてはこの世の教え(ここでは禁欲主義)に縛られて生きてきたが、キリストと共に死んだので、キリスト者は自由だという真理です。その上で、あなたは死んだのだから、かつてあなたを縛っていた禁欲主義や言い伝え、空しい教えに縛られて生きるなと命じています。

 これらのことを賛美に適用するなら、「かつてはむなしい歌(この世の幼稚な歌)を歌っていたが、これからはもう空しい歌を歌うな!」と受け取ることが出来ます。なぜなら私達には今、価値ある歌、喜びの賛美があるからです。

2.キリストと共によみがえったから

コロサイ3:1 こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。
3:2 あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。
3:3 あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。
3:4 私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。

 キリストがよみがえった時に、あなたもよみがえりました。――これも霊的な教えです。

 キリスト者は新しく生まれました。それは、古いあなたは死に、新しい立場(神の子という身分)を与えられ、新しい目的を持って生きるようになったという事です。新しい目的とは「上にあるものを求めなさい」「天にあるものを思いなさい」です。

 またTコリント 10:31では
「 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」と命じられています。私達はイエス・キリストを信じる前は、自分のために生きていました。この地上で自分の名誉と富を築くために、欲望のままに生きていました。けれどもキリストの福音を信じたときから、すべての価値観が変わりました。神を知らない生き方と、神を知っている生き方には大きな違いがあることを誰もが経験するはずです。新しい目的を持って生きるためによみがえったのだから、かつての罪の生活を捨てなさいとパウロは教えています。

3:5 ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。
3:6 このようなことのために、神の怒りが下るのです。
3:7 あなたがたも、以前、そのようなものの中に生きていたときは、そのような歩み方をしていました。
3:8 しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。
3:9 互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、
3:10 新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。
3:11 そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。

 神様を知らないときには、「人間だから仕方がない」「だって人間だもの!」と自己弁護して生きていました。私達はそういう生き方しかできなかったのですが、キリストと共によみがえったことで、古い自分を脱ぎ捨てて新しい人になったのです。

 古い私が好きだった歌は「人生が二度あれば!」という歌でした。老いてしまった父や母のさびしい姿を憂い、この人生が二度あれば、と願う歌詞です。「顔のしわは増えていくばかり。誰のための人生だかわからない・・」と歌います。でもキリストを知ってから、そんな歌を歌う必要は無くなりました。新しい人生が与えられたからです。新しい人生は、日々新たにされる恵みをいただきます。ですから歳をとることはうれしいことです。しわは恵みの年輪です。白髪は栄光の冠です。そして、新しい人生には新しい歌が与えられているのです。



3.神に選ばれ愛されているから


3:12 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
3:13 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
3:14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。
3:15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。

 クリスチャンは皆、選ばれて礼拝者となった人たちです。礼拝者とは、神様にささげる人です。何をささげるのかというと、まず自分自身をささげ、祈りをささげ、感謝をささげ、献金をささげ、そして賛美をささげるのです。

 しかし、なんでもささげれば良いのではありません。聖書で最初のささげものをしたのはカインとアベルでした。カインのささげものは採れたての見事な野菜や果物でした。しかし、彼のささげものは受け入れられませんでした。カインが正しい心でささげなかったからです。

 新約聖書でも同じような出来事があります。アナニヤとサッピラという夫婦は、自分たちの土地を売って教会に多額の献金をささげました。でも彼らのささげものは受け入れられませんでした。彼らが嘘をついて献金額をごまかしていたからです。

 ですから、受け入れられるささげものと、受け入れられないささげものがあることを知ることは大切なことです。

 同じように、受け入れられない礼拝、受け入れられない祈り、受け入れられない献金、受け入れられない賛美があります。クリスチャンでない人が教会に献金しても意味がありません。クリスチャンの人がギャンブルをして儲けたお金をささげても神様は受け入れられません。クリスチャンでない人がゴスペルを歌うのを聞いて天の父なる神様は喜ばれているでしょうか?いいえ、嘆いておられるはずです。クリスチャンが世の歌を教会で歌うのは賛美と言えるでしょうか?――もはや教会ではなくコンサート会場になっているのです。

 パウロはこの箇所でクリスチャンに、
「神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されていることをよく理解し、同情心、自愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい。そして赦し合い、愛し合い、感謝の心を持ちなさい」と教えています。神様はそういう人の献げる礼拝、祈り、献金、賛美を喜ばれます。そしてその人に天の窓を開いて恵みを惜しまれません。

4.感謝したいから

3:16 キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。

 賛美と世の歌の違う点は、賛美は神様への感謝をこめて歌うことです。イエス・キリストの福音によって救われていることを感謝し、罪赦されていることに感謝し、永遠のいのちが与えられている事を感謝し、日々の糧を与えてくださる神に感謝するために賛美するのです。

 この御言葉の中心の教えは「キリストのことばをあなたがたの内に豊かに住まわせなさい」という事です。つまり、キリストのことばをよく学び、それを理解し、心の中にしっかり受け止める時に、感謝と賛美があふれてくると教えているのです。

 礼拝ではプログラムに賛美が組み込まれていて、願わずとも賛美の演奏が流れてきて賛美することが求められます。しかし、賛美に心がついて行かないとき、賛美することが億劫になってしまうときがあります。その理由はキリストのことばが内側に留まっていないからです。心の中の泉があふれて来ないのです。

 けれど、キリストのことばを心にたくわえ、住まわせるなら、ふたたび泉があふれだすようになります。感謝があふれ、賛美があふれるのです。キリストのことばが私たちを賛美に導くのです。クリスチャンの皆さん!その様な賛美をささげ続けていきましょう。