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心に響く聖書の言葉


マタイによる福音書8章18-34節 「嵐を静める主イエス」


 マタイはイエス様のご生涯を丁寧にまとめ、大切な真理を伝えています。出来事の時間的順序よりも内容に重点を置いて真理をくみ取りやすくまとめています。神様はマタイを用いて聖書のことばを書かせました。それはマタイをロボットのように操ったのではなく、マタイの性格や知識、能力、賜物、彼の意志や熱意をも用いつつ、霊感を与えて書かせたのです。一字一句、彼は神様の霊感の中で守られて間違いなく書き記しました。ですからこの福音書はマタイが書いたのですが、神のことばとしての権威を持っているのです。

1.主に仕えようとする二人 (参照ルカ9 : 57〜62)

8:18 さて、イエスは群衆が自分の周りにいるのを見て、弟子たちに向こう岸に渡るように命じられた。
8:19 そこに一人の律法学者が来て言った。「先生。あなたがどこに行かれても、私はついて行きます。」
8:20 イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」
8:21 また、別の一人の弟子がイエスに言った。「主よ。まず行って父を葬ることをお許しください。」
8:22 ところが、イエスは彼に言われた。「わたしに従って来なさい。死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。」

 夕方になり辺りが暗くなってきたので、イエス様は弟子たちに舟を準備させてガリラヤ湖の向こう岸へ渡ろうとされました。それは群衆を離れて休息と睡眠を取るためだったでしょう。その時、一人の律法学者がやって来て、「先生。あなたがどこに行かれても、私はついて行きます。」と言うのです。弟子志願であり、うれしい出来事です。しかしイエス様は彼をなだめられました。

 もう一人は「弟子」と書いてあるので、イエス様と一緒に舟に乗っていくはずの12弟子の一人だったかもしれませんが、自分の父親の事が気になり、「主よ。まず行って父を葬ることをお許しください。」と願いました。父親が亡くなったのか、親の老後の世話をし終えてから、という意味なのかはっきりしません。どちらにしても今すぐ伝道旅行について行くことをためらっているのです。イエス様は、「わたしに従って来なさい。」と命じられました。律法学者をなだめたことばと対照的です。矛盾を感じます。この矛盾はイエス様が二人の心の状態を知っておられたからです。

 律法学者は、「このイエスというお方は立派な律法の先生(ラビ)だ。この人に弟子入りして律法を深く学び、私もラビとしての名声を手に入れたい」という思いがあったのでしょう。それでイエス様は彼に「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」と、彼の考え違いを指摘し、厳しい生活が待っていることを告げたのです。

 もう一人はすでに主の弟子となっていましたが、「イエス様に従って行きたいが、親の葬式を終えてからでもよいのでは?」と決断を渋っていたのです。そこでイエス様は彼に決断を迫られました。「わたしに従って来なさい。死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。」――これは主の弟子となった者の優先すべき使命を教えられています。親の葬式に出る事や老後の世話をすることは大切なことです。しかし、ここではそれを理由に主イエスに従うことを止めるべきではないことを教えています。すべての物事には優先順位があります。神の御子イエス様が招いておられる時には、私たちは何を差し置いてもそれを優先するべきです。
死人たちに」とは、永遠のいのちを持たない人たち、つまり、主イエスに従わない人たちのことを指しています。

 この二つの話の共通点は一つだけです。それはイエス様の弟子となるには、確たる意志と決断が必要であるという事です。生半可な考えでは、イエス様に付いていけないという事です。なぜなら主イエスに従う人には試練と迫害が待ち受けているからです。それを象徴するのが次の大暴風の出来事です。

2.嵐を静められる (参照マルコ4 :35-41)

8:23 それからイエスが舟に乗られると、弟子たちも従った。
8:24 すると見よ。湖は大荒れとなり、舟は大波をかぶった。ところがイエスは眠っておられた。
8:25 弟子たちは近寄ってイエスを起こして、「主よ、助けてください。私たちは死んでしまいます」と言った。
8:26 イエスは言われた。「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち。」それから起き上がり、風と湖を叱りつけられた。すると、すっかり凪になった。
8:27 人々は驚いて言った。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。」

 
四つ目のしるしです。ガリラヤ湖にはその地形からよく突風が吹き降ります。湖ですが数メートルの波が立つこともよくあるそうです。この時には、気象が突然に変わり大暴風となり、漁師たちも恐れるほどでした。波をかぶり、舟の中は水でいっぱいになり今にも沈みそうでした。その船尾でただイエス様だけがぐっすりと眠っておられたのです。私はここに疲れ果てたイエス様の姿を見ます。マタイ8章17節の「
彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」というイザヤの預言通り、人々の病をいやされ、背負われ続けたイエス様は衰弱に近いほど疲れておられたに違いありません。大揺れしても水をかぶっても目を覚まさないほどの疲れでした。弟子たちはそんなことにはお構いなく、イエス様を起こして「主よ、助けてください。私たちは死んでしまいます」とすがります。
 イエス様は弟子たちに言われました。「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち。」・・・厳しい叱責です。寝起きでイエス様の機嫌が悪かった、という事ではないでしょう。
 状況を見るなら、弟子たちが怖がるのは当然でした。しかしイエス様は「信仰が薄いから怖がるのだ」と言って、信仰の問題として教えられています。弟子たちは何を信じたらよかったのでしょう?「こんな嵐は大したことない」「止まない嵐はない」「漁師たちもいるから、大丈夫さ」と信じたらよかったのでしょうか?――もちろん違います。「救い主イエス様が共におられるから大丈夫だ」と信じるべきでした。事実、イエス様は大暴風を「
黙れ、静まれ」ということばによって静められました。イエス様が自然を治める権威を持つことの証明です。それは全能の神としての証明です。

 レンブラント作「ガリラヤ湖の嵐の中のキリスト」はこの場面を描いたものです。あたり一面、真っ暗な海、吹き荒れる波風、恐れ惑う弟子たち、その中で一人平安な顔をしているイエス様の姿。私たちの信仰生活を象徴しているのです。※この絵にはひとつの秘密が隠されていて、イエス様と共に舟に乗っている弟子たち13人が描かれています。13人目は著者自身を描き込んだと思われます。

 この出来事は弟子たちにとって大切な教訓となったでしょう。後に彼らは福音伝道のために激しい迫害を受けながら働くからです。まさに周りは真っ暗な世界、その中で激しい迫害という波風を受けながら伝道した時に、このガリラヤ湖の出来事は弟子たちに大きな励ましとなったことでしょう。「イエス様が共におられるなら大丈夫。」この確信をもって彼らは福音伝道をしていったに違いありません。

3.悪霊を追い出される

8:28 さて、イエスが向こう岸のガダラ人の地にお着きになると、悪霊につかれた人が二人、墓場から出て来てイエスを迎えた。彼らはひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどであった。
8:29 すると見よ、彼らが叫んだ。「神の子よ、私たちと何の関係があるのですか。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来たのですか。」
8:30 そこから離れたところに、多くの豚の群れが飼われていた。
8:31 悪霊どもはイエスに懇願して、「私たちを追い出そうとされるのでしたら、豚の群れの中に送ってください」と言った。
8:32 イエスは彼らに「行け」と言われた。それで、悪霊どもは出て行って豚に入った。すると見よ。その群れ全体が崖を下って湖になだれ込み、水におぼれて死んだ。
8:33 飼っていた人たちは逃げ出して町に行き、悪霊につかれていた人たちのことなどを残らず知らせた。
8:34 すると見よ、町中の人がイエスに会いに出て来た。そして、イエスを見ると、その地方から立ち去ってほしいと懇願した。
 ガダラ人の地とは、ガリラヤ湖の南東に位置する町で、当時は異邦人が住んでいました。悪霊憑きの男がやってきて、その悪霊とイエス様の会話が記されています。悪霊は豚の群れに乗り移ることを許され、豚の群れは崖から湖へ駆け降りて死んだという出来事です。私は悪霊退治の専門家ではありませんので、この記事のすべてを理解できません。なぜ悪霊は豚に乗り移ることを望んだのか?なぜ豚は湖へ駆け降りて死んだのか?その後、悪霊はどうなったのか?――聖書が記していないので分かりません。ここに登場する男は悪霊憑きだとわかるのですが、現在の日本では悪霊の働き方は変わってきていると思います。さらに狡猾に分からないように働いていると思います。

 この記事で理解できることは、イエス様は悪霊でさえ恐れるかたであること、悪霊を裁く権威を持っているかたであること、そして人々はこのしるしを見てもイエス様を受け入れなかったことです。理由は恐れからですが、もっと大きな理由は豚が死んで、被害を受けたからだと思います。彼らは救い主を見たのに、自分たちが被害を受けると彼を追い出したのです。それは現在でも同じだと思います。多くの方々が教会に来られますが、気に入らないことがあるとそっぽを向いてしまわれます。牧師の気配りのない言葉であったり、教会員の冷たい態度や言葉であったりします。以前、教会に来られた方が「他の教会に何度も集ったが、牧師さん以外誰も自分に声をかけてくれなかった。あれが本当に神様を信じている人たちなのか?」と腹を立てた様子で話されました。私たちも態度や言葉に気を付けるべきですが、多くの人の心の中に、「嫌な思いをするくらいなら神を信じないほうがよい」という考えがあることは間違いありません。その延長線上に、「自分の益とならないなら――、周りの人から迫害を受けるくらいなら――、家族を犠牲にするくらいなら――、神なんて信じないほうがいい」と考えてしまうのです。

 イエス・キリストは、「人の子には枕するところもありません。」と言われました。それはイエス様に従う人々にも試練があり、迫害があり、時にそれは真っ暗闇の中の大暴風のように襲い掛かってくる事を示しているのです。いい加減な決心では弟子となることはできません。イエス様はそれを知った上で「わたしに従って来なさい。」と言われるのです。

 それでもあなたはイエス・キリストを信じて従って行きますか?イエス様について行く生活は決して楽ではありません。クリスチャンをやめるなら今日です。教会を去るなら今です。――イエス様が律法学者に言われたことばはそういう意味です。誰もあなたの決断を止めません。ガダラ人のようにイエス様に「ここから立ち去ってください。もう来ないでください」と言うことも出来るのです。

 私はそれでもイエス様について行こうと思います。イエス・キリストが私の罪を背負って十字架で死んでくださったからです。そして墓よりよみがえられた勝利の主だからです。私はイエス様によって罪の赦しと永遠のいのちを与えられているからです。大暴風はイエス様のたった一つのことばで静められることを知っているからです。嵐のただ中にあっても、信仰に立つなら平安となるからです。もしも大暴風の中で弟子たちが信仰を持っていたなら、疲れ果てているイエス様を叩き起こす必要はなかったでしょう。嵐の中でさえ、「主イエスが共に居てくださるから大丈夫」と信じたなら、平安を保ち続けることが出来たのです。私たちの主は、「
恐れることはない」と命じられます。それは恐れる必要がないからです。暗闇と嵐を恐れず信仰によって歩んで行きましょう。