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心に響く聖書の言葉


マタイによる福音書9章14-26節 「律法時代と教会時代」



 旧約聖書には多くのメシア預言が含まれています。「将来、ダビデの王座に就いて永遠に支配されるメシアが来られる」という預言です。苦難の歴史を通ってきたユダヤ人たちは、預言を信じて自分たちを苦しみから救ってくださる救世主・メシアを持ち望みました。しかし取税人や罪人と食事をするイエス・キリストを見て、人々はつまずきました。期待していたメシアではなかったからです。

 今回の聖書箇所で群衆はさらにキリストにつまずきました。ユダヤ人が期待していた王国時代が始まるのではなく、新しい時代が来ることをイエス様が啓示されたからです。

1.断食について

9:14 それから、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「私たちとパリサイ人はたびたび断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか」と言った。
9:15 イエスは彼らに言われた。「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、悲しむことができるでしょうか。しかし、彼らから花婿が取り去られる日が来ます。そのときには断食をします。
9:16 だれも、真新しい布切れで古い衣に継ぎを当てたりはしません。そんな継ぎ切れは衣を引き裂き、破れがもっとひどくなるからです。
9:17 また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば皮袋は裂け、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。そうすれば両方とも保てます。」

 当時、信仰に熱心なユダヤ人は週に二度断食をしました。彼らから見れば、イエス様と弟子たちが断食もせず、マタイの家で取税人や遊女らと豪勢な料理を食べている姿を見たとき、腹立たしく思えたに違いありません。神の福音を伝えていると言いながら、行ないが伴っていないと批判したのです。

 イエス・キリストは彼らに三つの例を挙げて答えられました。

@花婿を祝う友人たちは断食をしない
 イエス様はご自身を「結婚式を目前に控えた花婿」に例えています。婚礼は祝いの時ですから、花婿に付き添う友人は断食などしません。「婚礼の祝いと同じように喜ぶべき時なのに、どうして弟子たちが断食する必要があるのか?」とイエス様は反論されました。

 さらに「彼らから花婿が取り去られる日が来ます」と語られました。それは受難の予告であり、イエス様が天に戻られることを示しています。その時には弟子たちは断食するのであって、弟子達と共にいるのは一時的だと予告されました。

※新約聖書では、キリストの花嫁は教会であると教えられています。キリストが再臨されるときに地上でのメシア王国が実現し、その時、花婿であるキリストと花嫁である教会の祝宴が開かれます。

A真新しい布で古い着物の継ぎはしない
B新しい葡萄酒を古い皮袋に入れない
 AとBは同じことを教えています。共通の概念は、「新しいものと古いものを混ぜてはならない」という事です。新しい時代の到来をイエス様は啓示されています。キリストが取り去られると(復活後、昇天)教会時代に入ります。その教会時代では、新しいものと古いものを混ぜてはいけないという事です。

 古いものとは、モーセを通してイスラエルに与えられた律法の契約です。律法時代の人々は律法で命じられた割礼を施し、安息日を守り、断食をし、全焼のいけにえをささげました。

 新しいものとは、キリストによって与えられた新しい契約です。これは教会時代のクリスチャンに与えられています。キリストが全焼のいけにえとなってくださったので、罪の赦しが与えられました。イエス・キリストを信じる信仰によって義と認められるという福音です。

 この二つの契約を混ぜてはいけないとイエス様は教えられました。つまり新しい教会時代においては律法の規定に縛られる必要はないという事です。

※旧約の契約すべてが廃棄されたのではありません。ユダヤ選民に対する契約、祝福は永遠に変わりません。「そうすれば両方とも保てます。」という言葉は、そのことを暗示しています。イスラエルに対して永遠の契約、永遠のおきてとされたものは、相続地、割礼、安息日、神殿のともしびと供え物等があります。これらについては注意深い考察が必要です。

二、長血の女のいやし

9:18 イエスがこれらのことを話しておられると、見よ、一人の会堂司が来てひれ伏し、「私の娘が今、死にました。でも、おいでになって娘の上に手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります」と言った。
9:19 そこでイエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも従った。
9:20 すると見よ。十二年の間長血をわずらっている女の人が、イエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。
9:21 「この方の衣に触れさえすれば、私は救われる」と心のうちで考えたからである。



 会堂管理者の家へ行く途中の出来事として、長血の女のいやしが記されています。長血とは婦人病の一つで、子宮から出血が続く病気だと考えられます。出血が止まらない女性は、律法の規定で汚れた者とされました。らい病患者と同様、この人に直接触れたり、寝床や衣服にさわるなら汚れるとされました。

参照;レビ15:25 女に、月のさわりの期間ではないのに、長い日数にわたって血の漏出があるか、あるいは月のさわりの期間が過ぎても漏出があるなら、その汚れた漏出がある間中、彼女は月のさわりの期間と同じように汚れる。
15:26 その漏出の間は、彼女の寝た床はすべて、月のさわりの時の床と同じようになる。彼女が座った物はすべて、月のさわりの間の汚れのように汚れる。
15:27 だれでも、これらの物に触れた人は汚れる。その人は衣服を洗い、水を浴びる。その人は夕方まで汚れる。


 ですから、この女性が密かにイエス様に近づき、直接イエス様に触らず、衣の房だけ触ったのにはそういう理由がありました。他の福音書を読むと、この女性は医者に騙されてすべての財産を巻き上げられたという悲しい過去を持つ女性でした。

9:22 イエスは振り向いて、彼女を見て言われた。「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、その時から彼女は癒やされた。

 イエス様の言葉によれば、この女性がいやされたのは、彼女の信仰によってでした。キリストに対する信仰です。「お着物に触ることさえ出来れば、きっと治していただける」という信仰です。善い行いや、全焼のいけにえをささげた結果でもありません。ただ純粋にキリストに対する信仰によっていやされました。

三、会堂管理者の娘の生き返り

9:23 イエスは会堂司の家に着き、笛吹く者たちや騒いでいる群衆を見て、
9:24 「出て行きなさい。その少女は死んだのではなく、眠っているのです」と言われた。人々はイエスをあざ笑った。
9:25 群衆が外に出されると、イエスは中に入り、少女の手を取られた。すると少女は起き上がった。
9:26 この話はその地方全体に広まった。



 他の福音書を読むと、会堂管理者の名前はヤイロであり、彼の娘の年齢は12歳になったばかりだったことが分かります。また、娘は死んではいませんでしたが、時間が経過し、死去が伝えられました。

 死は私達の人生の中でもっとも暗い部分であり、築きあげたすべてを失う時です。我が子の死は親にとって最大の悲しみです。しかし、注目すべきはヤイロの言葉です。

「私の娘が今、死にました。でも、おいでになって娘の上に手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります」

 ヤイロは娘が生き返ると信じました。イエス様こそメシアであり、娘を生き返らせることが出来るお方だと信じたのです。彼も純粋にイエス・キリストを信じました。その結果は言うまでもありません。イエス様は彼の娘を生き返らせました。ヤイロが涙を流して喜ぶ姿が目に浮かびます。

 このしるしによって示されたのは、キリストは私たちが最も恐れる死の問題を解決できるお方だという事です。

四、共通すること

 長血の女のいやしと、ヤイロの娘の生き返りのしるしに共通することは、キリストを信じる信仰です。そこには善行や犠牲も必要ありません。信仰によって彼らの願いはかなえられました。イエス様は新しい時代を啓示し、その時代には信仰だけが求められることを教えられています。

 教会時代のことを、別の言葉では恵みの時代と呼びます。価値のない者に、神様が一方的に救いと祝福を与えられるからです。この恵みの時代においては、古い律法の規定に縛られる必要はありません。現在、キリスト者は割礼を受ける必要はありません。全焼のいけにえをささげる必要はありません。土曜日を安息日とする必要はありません。すべての律法からクリスチャンは解放され、ただ一つだけ、新しい命令をいただいています。

ヨハネ 13:34 わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

 愛することには刑罰がありません。少ししか愛さなかったからと言って、さばかれることはありません。ですから福音を信じるすべての人は律法の呪いから解放され、さばきを受ける事がありません。新しい戒めは、私たちの生きる目標であり、生き方そのものなのです。まずキリストを信じ、そして主にある兄弟姉妹を愛しましょう。そして滅びに向かっている人々を愛し、彼らの救いのために祈り、福音を伝えましょう。