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心に響く聖書の言葉


霊とまことによって ヨハネによる福音書4章7-26節



 新年おめでとうございます。昨年の主の恵みに感謝しつつ、新しい年の希望を持って礼拝を共にささげましょう。今年最初の説教でありますので、今年一年の目標、指針、目指していきたいことを考えました。その時に次の聖書のことばが頭から離れませんでした。それは「霊とまことによって神を礼拝する」という事です。

4:7 ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。
4:8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。
4:9 そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」──ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである──
4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
4:11 彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。
4:12 あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」
4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
4:15 女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
4:16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
4:17 女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。
4:18 あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」
4:19 女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。
4:20 私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」
4:21 イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。
4:22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
4:25 女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」
4:26 イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」


1.サマリヤの女

 この聖書箇所にはイエス様と一人のサマリヤの女性が登場します。話を理解するうえで背景となる歴史について説明しておかなければなりません。

 イスラエル王国はソロモン王の時代以降、北イスラエルと南ユダに分裂しました。後に北イスラエルの多くの人々はアッシリア帝国により捕え移されました。北イスラエルの首都サマリヤには貧しい人や弱い人が残されました。そこへ多くの異邦人が移住してきました。それ以降、サマリヤの人たちは律法で禁じられているにもかかわらず、移住してきた異邦人と雑婚するようになりました。それゆえ南ユダ(ユダヤ人)からは汚れた民として見られ、さげすまれました。

 それでサマリヤ人とユダヤ人は全く交際しませんでした。さらに、サマリヤ人は礼拝のためにエルサレムではなくサマリヤにあるゲリジム山(881m写真参照)を礼拝場所と定め、彼ら独自の礼拝を捧げました。このことも対立の要因となりました。

 この聖書箇所で、ユダヤ人であるイエス様から話しかけられた時にサマリヤの女がとても驚いたのにはそういう理由がありました。



 サマリヤの女は次第にイエスという方が特別な人であることに気づきます。

4:19 女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。
4:20 私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」


 彼女の最初の質問は、礼拝する場所はどこが正しいのか?と言う疑問でした。その質問に対するイエス様の答えを注意深く見ましょう。

「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。


 ゲリジム山での礼拝もエルサレムでの礼拝も否定をされてはいません。いや、むしろそれが問題ではなく、新しい時代が来る事に焦点が向けられています。

4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

 イエス・キリストが来られたことを境に、新しい時代、新しい礼拝方法が始まることを明らかにしておられます。そして「霊とまことを持って礼拝する人々を父なる神は求めておられる」と告げられました。

2.霊とまことによって

 ここで主イエスは礼拝についての真理を、ユダヤ人の礼拝サマリヤ人の礼拝を対比させながら教えられました。サマリヤ人の礼拝は、旧約聖書のことばを無視した礼拝でした。ゲリジム山を選び、自分勝手な礼拝、御言葉に基づかない礼拝でした。つまり「まこと」がない礼拝でした。しかし、彼らの礼拝は熱心な礼拝だったと言われています。さげすまれた民族として罪の意識、悔い改めを持って礼拝したのだと思います。言うなれば霊的な礼拝でした。

 ユダヤ人の礼拝はその反対でした。彼らは神が命じられた律法に熱心でした。安息日を守り、戒めを破らないようにと懸命でした。彼らは真理の御言葉を持っていました。しかし、霊的ではありませんでした。律法を守ることに熱心になるあまり憐みの心を忘れ、形式的な宗教になっていきました。選民意識のゆえ、罪に対する意識がありませんでした。そのため霊的な礼拝をささげることが出来ませんでした。

 イエス・キリストは霊とまことによって礼拝することが、父なる神が求められている礼拝だと教えられました。どちらが欠けてもだめなのです。霊とまことの両方によって礼拝することが大切なことです。次の御言葉は霊とまことによる礼拝を見事に示しています。

コロサイ 3:16 キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。


 私たちの教会では昨年一年間、本当に多くの賛美をささげることが出来ました。賛美することの楽しさを共に味わった一年でした。しかし、イエス様のこのことばを聞くとき、もし私たちの賛美が御言葉の上に成り立っていないなら、それは神様が喜ばれない賛美になってしまいます。音楽が好きだから賛美するというなら、それはプロのミュージシャンに任せた方がよいでしょう。素人の賛美よりはるかに音楽的には優れています。

 しかし、なぜ私たちが賛美するのかと言うなら、神様が賛美しなさいと命じられたからです。「新しい歌を主に歌え、ほめ歌を歌え」と命じられているからです。「タンバリンや笛、弦楽器を用いて、賛美しなさい。踊りなさい。」とも命じられています。ギターを用いたり、最近ではゴスペルフラーをする人たちも増えてきましたが、それらは聖書的なことです。聖書の教えに基づいて私たちは賛美するのです。

 そして賛美するもう一つの理由は純粋に賛美したいからです。イエス・キリストが私の罪のために身代わりとなり十字架に架かってくださったからです。その血の贖いにより私の罪が赦されて永遠のいのちをいただいているからです。神の子供とされ、愛すべき兄弟姉妹を与えられ、神様の平安をいただいたからです。それゆえ神様に心を尽くして感謝し、賛美したいのです。私の霊と魂が賛美したくて、むずむずするからです。

3.真の礼拝者たち

 イエス様はこの真理をあえてサマリヤの女を選んで話されました。サマリヤ人というだけで律法の規定から言えば罪人であり、祝福にほど遠い人です。女性と言うだけで低く見られます。さらにこの女性はサマリヤ人の中でも五度も結婚離婚を繰り返し、今また同棲を続けている女性で、ふしだらな生活を続けている女性でした。彼女は社会で必要とされない人、嫌われ者、つまはじきだったでしょう。また、イエス様との会話でも霊的なことに全く関心がなく、霊的に全く鈍感な人であることも分かります。つまり彼女は、

・律法において罪人であり最低の人
・社会において罪人であり最低の人
・霊において罪人であり最低の人
――なのです。

 このサマリヤの女にあえてイエス様が礼拝について教えられたのは不思議です。ユダヤ人こそ礼拝について教えてもらうべき人たちのはずです。なぜイエス様はサマリヤの女を選ばれ、礼拝について話されたのでしょうか?・・それは彼女のように最低の人であっても、神様の福音は届けられ、礼拝者となることを示しています。どんな罪人であっても、どんなに空しい人生を送っていても神の恵みによって救われ、まことの神の礼拝者となることが出来る!――これが福音なのです。

テトスへの手紙3:3-7
3:3 私たちも以前は、愚かな者であり、不従順で、迷った者であり、いろいろな欲情と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの中に生活し、憎まれ者であり、互いに憎み合う者でした。
3:4 しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現れたとき、
3:5 神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。
3:6 神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。
3:7 それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。 


 イエス・キリストを信じる人は聖霊による新生と更新との洗いを持って救われています。新しい年に、心機一転して新しい目標を持ち、仕事に頑張ろう、教会の奉仕に頑張ろう、勉強をしよう、と取り組むことも良い事だと思います。しかしその前に、あなたがキリストの福音によって救われ、聖霊を与えられて、新しく生まれた者であることを御言葉から確信を与えていただきましょう。そして今年一年も真の礼拝者として教会に集い、霊とまことによって礼拝を続けていくことを決意し、主に願いましょう。