マタイによる福音書12章9-21節 「くすぶる灯心」  平行箇所;マルコ3:1-12   ルカ6:6-11

 マタイによる福音書では、この12章で安息日規定に関する問題を取り上げ、パリサイ人等とイエス・キリストとの衝突をまとめています。1節からの記事では、弟子たちが安息日に麦の穂を摘んで食べたことが規定違反だと責められました。それに対する主イエスの答えは、五つありました。その最後の答えは、ご自身が「安息日の主」であり、安息日を定められたお方ゆえ、安息日に弟子たちが彼のために働くことは決して罪ではないと宣言されました。

一、安息日問題

@パリサイ人の策略 9-10節
12:9 イエスはそこを去って、会堂に入られた。
12:10 そこに片手のなえた人がいた。そこで彼らはイエスに質問して「安息日にいやすのは正しいことでしょうか」と言った。イエスを訴えるためであった。
 ユダヤ人の会堂に入ると、一人の片手のなえた人がいました。医者であるルカは「右手がなえた人」と記しています。パリサイ人らはイエス様に質問します。「安息日にいやすのは正しい事でしょうか?」彼らの質問の目的は、安息日に治療を行わせて、イエスを安息日の規定を破ったという罪で訴えるためでした。当時のユダヤ人の律法では、命に関わるときには救助してもよいとされていましたが、命に関わらないなら、安息日に治療をしてはいけないと定められていました。この男性は片手がなえていましたが、命に関わることではありませんでした。彼らは、安息日であってもイエスが必ず癒しの奇跡を行うだろうと考えたのです。つまり訴える証拠を得るための誘導尋問でした。
A主イエスの答え 11-12節
12:11 イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。
 安息日であっても穴に落ちた羊を助けることは、ユダヤ人にとって当然のことでした。イスラエル人はもともと放牧民であり、羊を飼う民族でした。アブラハムもモーセもダビデも羊飼いでした。羊飼いは安息日だからと言って羊の世話を休むことはできません。ですから、羊を連れて出かけて羊が穴に落ちたら助けるのは当たり前でした。ユダヤ人の口伝律法でもそれは許される事でした。まして、ここでは「一匹の羊を持っていて」と言われています。普通は羊飼いが所有する羊は何十匹、何百匹単位です。一匹というのは、ペットのように飼っているか、とても貧しい家庭かのどちらかでしょう。その家庭にとって一匹の羊は家族も同然です。その羊が穴に落ちたなら安息日であっても引き上げるのは当然です。イエス様は羊でも安息日に助けるのだから、まして人間を助けることは当然ではないかと言われます。
12:12 人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」
 イエス様は彼らの安息日規定の考え方を訂正されています。山上の垂訓と同じで、律法の正しい解釈を教えられました。
B片手のなえた人の癒し 13節
12:13 それから、イエスはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。
 ただ手が動くようになったというのではなく、完全な回復です。リハビリがいらない完全な状態になっています。神様の御わざは常に完全であることを教えられます。
Cパリサイ人の怒り 14節
12:14 パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。
 パリサイ人たちはイエスを殺そうと相談します。マルコ福音書では、「ヘロデ党の人たちと一緒に相談した」と書いてあります。ヘロデ党と言うのは与党にあたるグループです。パリサイ派は野党に当たり、政策において両党は常に対立していました。しかし、イエス・キリストの事に関しては両党が結束して、イエスを殺そうと相談したことになります。彼らがイエスを殺そうとした理由は何でしょうか?次の四つが考えられます。
 a.民衆がイエス・キリストに従っていくことをねたんだ。
 b.イエス・キリストのしるしを恐れた。自分たちに被害がもたらされないかと心配した。
 c.イエスが自分を神と等しい者とし、神を冒涜したと思った。「宮より大きいもの」「安息日の主」とイエス様がご自分のことを宣言されたため。
 d.自分たちがかたくなに守ってきた安息日の規定を真正面から否定され、それを正論で破られた。彼らのプライドが傷つけられたため、怒りと憎しみを持った。

 パリサイ人等は目の前で大いなるしるしを見ても信じませんでした。聖書を解き明かされてもイエスのことをキリストと認めることが出来ませんでした。自分たちが思い描いてきたメシア像とイエスがかけ離れていたためです。期待したメシアでなかったからです。

 ※同じような理由で、日本人がキリストを信じ、受け入れる事は難しいことだと感じます。
・宗教は嫌だ、宗教は怖いというイメージがあります・・・多くの宗教の問題、争い、サリン事件、イスラム過激派のテロ・・・
・日本古来の神概念とイエス・キリストはかけ離れています。神道は汎神論的です。
・自分が罪人だという事を認めることが難しい。「私は頑張って働いている。いままで十分苦しんできた。どうして私が悪いのか?」という思いがあります。
 英語で一番難しい発音は何かご存知でしょうか?それは「I’m wrong」という言葉です。「私が間違っていた」と認め、それを人に話す事はとても難しいことです。「今まで、神はいない、神なんか信じない、と思っていた・・それは間違いだった!」と認めるのは難しいことです。心が受け入れたくないからです。しかし誰でもへりくだって自分の間違いを認めるなら、神様の恵みを見いだすことが出来ます。真理を知ることが出来ます。

二、異邦人への宣教

@会堂から野外へ 15節-16節
12:15 イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。すると多くの人がついて来たので、彼らをみないやし、
12:16 そして、ご自分のことを人々に知らせないようにと、彼らを戒められた。
 イエス様はパリサイ人等の陰謀を知って、会堂から退かれます。マルコ福音書では会堂を出て、湖のほうへ行ったと記しています。
参照;マルコ3:7-10 それから、イエスは弟子たちとともに湖のほうに退かれた。すると、ガリラヤから出て来た大ぜいの人々がついて行った。また、ユダヤから、エルサレムから、イドマヤから、ヨルダンの川向こうやツロ、シドンあたりから、大ぜいの人々が、イエスの行っておられることを聞いて、みもとにやって来た。イエスは、大ぜいの人なので、押し寄せて来ないよう、ご自分のために小舟を用意しておくように弟子たちに言いつけられた。それは、多くの人をいやされたので、病気に悩む人たちがみな、イエスにさわろうとして、みもとに押しかけて来たからである。
◎多くの群衆が再び押し寄せてきました。その人たちの中には異邦人が多く含まれています。メシアが現れたとのうわさが広範囲に広がっていったことが分かります。
◎イエス様の宣教の当初はユダヤ人の会堂中心でしたが、次第に、会堂から出て、湖畔や、山の広場などに移っていきました。
マタイ 4:23 イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。
マタイ 9:35 それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた。

◎説教の場所を変えられた理由は、物理的に会堂ではもう入りきれなくなったこともあるでしょう。数千人が入る会堂はありませんでした。そして霊的な理由として、ユダヤ人のかたくなな心を知られ、伝道の向きを変えられていかれたという事です。ユダヤ人にまず福音を語られていたのですが、その対象がユダヤ人だけに限らず、異邦人を含め、救いを求めてくる人すべてに対してみことばを語られ、しるしを行われています。異邦人はユダヤ人の会堂に入ることができませんでしたから、イエス様の福音を聞くためには野外で聞くしかなかったのです。著者マタイは、異邦人が集まって来たとは書いていません。ユダヤ人対象に書かれた福音書だからです。しかしマタイはイザヤの預言を用いて、イエス・キリストの伝道が異邦人にも広がっていったことを示しています。(17節以降)
注;ルカ福音書6:17〜は「平地での説教」と呼ばれていますが、内容としてはマタイ5-7章の山上の垂訓と同じものです。もし同一の説教であり、ルカが記した順序が正しいとするなら、山上の垂訓は片手のなえた人の癒しの後に行われたことになります。別の時に語られたとするなら、イエス様は行く先々で同じ内容の説教(御国の福音)をされたと考えられます。

Aユダヤ人から異邦人へ 17-21節(イザヤ42:1-4)
17節  これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。
 このイザヤの預言は明らかにイエス・キリストの宣教を預言していました。
18節  「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。
 イエス・キリストの宣教の理由を預言しています。父なる神が御子を選び、この地上に遣わされました。そして御子の上に聖霊をバプテスマによって注がれました。この福音の働きは三位一体の神の働きです。神のご計画は創世記のはじめから、三位一体の神の御わざとして示されています。
19節 争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。
 イエス・キリストの宣教の方法を預言しています。争わず、叫ばず、エルサレムの真ん中で説教することもありませんでした。人々に宣伝を頼まれませんでした。それは真理と救いを求める人だけに与えられるようになるためでした。
20節 彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、
 イエス・キリストの宣教の対象を預言しています。葦は湿地にたくさん生えていて、その茎の部分をつないですだれや葦簀(よしず)を作ります。傷んだ葦は何の役にも立たないので、折られても誰も気にかけません。くすぶる灯心とは、油が無くなり、もう消えてしまいそうな状態のともしびです。その状態になると炎は安定せず、暗くなり、煙を出すようになるので普通は吹き消されます。いたんだ葦、くすぶる灯心のような人にキリストは福音を語り、神の救いと永遠の命を与えようとされました。イエス様の宣教の対象は常に心の貧しい者であり、心の渇いた人たちでした。
ヨハネ 7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」
20節 公義を勝利に導くまでは。
 イエス・キリストの宣教の期間を預言しています。十字架と復活によって救いを完成されるまで、イエス・キリストは語り続けられました。
21節  異邦人は彼の名に望みをかける。」 
 イエス・キリストの宣教の結果を預言しています。異邦人がイエス・キリストを信じ、イエスの御名に望みをかけるようになる・・その通りになりました。イスラエルはキリストを退け、異邦人は福音を受け入れていきました。

招き;私たちが自分の現状をしっかり把握できるなら、誰もが「いたんだ葦」であり、「くすぶる灯心」です。自分の創造者を知らず、サタンの支配の中に惑わされ、罪と汚れの中を生きています。その人には永遠の地獄での裁きが待ち構えていることを理解するなら、藁をもすがる思いで私たちは救いを求めるでしょう。その救いを神様は御子キリストによって備えてくださっています。私たちの望みはイエス・キリストの御名にかかっています。