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心に響く聖書の言葉


主の教育と訓戒で育てる エペソ人への手紙6章1-4節



1.大変な子育て


エペソ6:1 子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。
6:2 「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、
6:3 「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」という約束です。
6:4 父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。


 神様が夫婦に与えられた責任の中で、大切で、かつ大変なことは、子どもを育てることです。親となった人は、「子育てがこんなに大変だと思わなかった」という人ばかりでしょう。

◎母親はまず、妊娠した時からその苦しみが始まります。つわりの苦しみです。そして出産という激しい痛みを乗り越えなければなりません。子育てはスタートからとても苦しいことだと啓示されているかのようです。

◎子どもが赤ちゃんの時は、授乳、おむつ交換、夜泣き等のため親は睡眠不足となり、イライラが募ります。

◎ハイハイが出来るようになると、あれやこれや触り、何でも口に入れようとします。親は子どもが落ちているものを飲み込まないか常に心配です。

◎1〜2歳になると、動き回って物を壊します。テレビのリモコンは一番のターゲットです。食事を自分でとれるようになると、ごはん粒を床に落とし、ジュースをこぼし、床はべたべたになってしまいます。病気にかかるとすぐに高熱を出すので、親は心配で眠れず、仕事を休んで病院へ連れて行かなければなりません。

◎3歳すぎると、生意気なことを言いだし、「いやだ、きらいだ、にんじんは食べたくない、歯を磨きたくない・・と、すべてに反抗します。

◎小学生になると、「あれ買って!これ買って!遊びに連れて行って!教会なんて行きたくない!」とワガママが加速します。

◎中学から高校生になると、自立心?から自分の部屋に閉じこもり、「メシはまだ?――小遣いくれ!」くらいしか言わなくなります。そのうえ、学校や塾、進学にお金がかかる金食い虫となります。両親は懸命に働いて教育費を捻出します。でも子どもからは少しも感謝がありません。

 
子育ては常に心配とイライラとがっかりさせられることの連続です。



2.大切な子育て


 それでも親は子どもを育てなければなりません。聖書は「主の教育と訓戒によって育てなさい」と命じています。それは尊い働きだからです。子どもは「身から出た錆」ではなく、「神様からの賜物」だからです。

詩篇127:3 見よ。子どもたちは【主】の賜物、胎の実は報酬である。
127:4 若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ。
127:5 幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。


 子どもは「賜物」「報酬」だと書いてあることは驚きです。神様からのプレゼントであり、特別な報いなのです。実際の子育ては報酬を求めずに与える事ばかりですが、しかし、子どもがいるだけで親は報われているのです。子どもから報われることを求めて育てるのではありません。親に迷惑ばかりかけている子どもが、ある時「お父さん、ありがとう。お母さん、ありがとう。」と言ってくれる・・その一言で親は報われていると知るのです。

 では、親はどのように子どもを育てたらよいのでしょうか?−−−聖書の箴言では「懲らしめをもって子を育てなさい」と命じています。

13:24 むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。

19:18 望みのあるうちに、自分の子を懲らしめよ。しかし、殺す気を起こしてはならない。

22:15 愚かさは子どもの心につながれている。懲らしめの杖がこれを断ち切る。

23:13 子どもを懲らすことを差し控えてはならない。むちで打っても、彼は死ぬことはない。

29:17 あなたの子を懲らせ。そうすれば、彼はあなたを安らかにし、あなたの心に喜びを与える。


 体罰については賛否両論があります。しかし、聖書は体罰を与えよと教えています。本当に子どもを愛しているのなら「自分の子を懲らしめよ!」と命じます。ただし、子どもを愛さず、ただ感情的に体罰を与えることを聖書は認めていません。

 体罰の目的は、
@子どもが善と悪の判断が出来るようになるため。心と行いが悪に傾くときに、強制的に正しい方向へ向かせるのです。
A罪を犯したなら、さばきがあることを教えるためです。さばきがあることを知る時、赦しがあることも学ぶのです。
B親の権威(特に父親の権威)を畏れ敬うためです。そうすれば神の権威を畏れ敬うことが出来るようになります。

 体罰は何歳まで有効でしょうか?・・・何歳までと決めることは難しいでしょう。人それぞれ人格が違うように、心の成長は違います。箴言は「望みのあるうちに」と教えています。子どもの心を判断しながら、体罰を与えて悔い改める可能性があるうちです。
 体罰を与えても、子どもが怒ったり反抗心や恨みしか残らないようなら、体罰を与えるのは逆効果になります。もう遅いのです。また、子どもを愛する心を持たず、子どもを正しく導く目的でないなら、体罰は暴力になってしまうことを肝に銘じておかなければなりません。

 体罰を含むしつけは、成長過程にある子どもに対して善と悪の判断を教える等、正しい道を歩ませるために行うものであって、暴力ではありません。この違いを理解してください。

 教育現場での体罰が問題視されますが、その体罰は教師の感情によって行われたり、教師のやり方に従わせるため行われている場合がほとんどですから、動機からまず間違っています。聖書の教えは「
自分の子を懲らしめよ」です。ですから教師と言えども他人の子どもを懲らしめることは暴力と言うしかありません。



3.親も育つ


 親が親としてすべきことは次の三つです。
@子どもを愛すること
A子どもを教えながら育てること
B子どもが罪を犯す時には懲らしめて、正しい道に連れ戻すこと。

 そのためには・・
@親自身が愛と忍耐の人でなければなりません。
A真理を学んでいなければ教えることが出来ません。
B正しい歩みをしていなければ、子どもを正しい道に連れ戻すことが出来ません。

 ですから親は親であるために、愛と真理と義を主イエス・キリストから学ばなければならないのです。イエス様の深い愛を知り、真理を学び、正しい道を歩むのです。親もまた神様の子どもだからです。

エペソ5:1 ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。
5:2 また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。


 親が神様にならうなら、子どもにとって良き模範となり、主の教育と訓戒を与えることが出来るようになるのです。

 2013年の三月に大寒波が襲い、北海道で9名が亡くなりました。その時に猛吹雪の中、9歳の娘を守り、凍死した父親のニュースがありました。北海道・湧別町(ゆうべつちょう)に住む漁師のお父さんが、学童保育に通うひとり娘(9才)を車で迎え、帰宅途中、猛吹雪のため道路脇にあった雪の吹きだまりに突っ込み動けなくなりました。お父さんは、車の燃料がなくなり、友人の家まで歩いて行くと知人に電話をして、娘を連れて歩き出しました。二人がやっとたどり着いたのは、車から300m先の牧場倉庫。しかし、倉庫の入り口の扉には鍵がかかっていました。父親はそこで力尽き、自分が着ていたジャンパーを脱ぎ、夏音ちゃんに着せ、娘を包み込んだ状態で約10時間後の午前7時に発見されました。娘さんは、奇跡的に凍傷だけで済み、いのちを助けられました。

 私は親として、この父親がした行動を心から尊敬します。そして、この話を聞いたときに、イエス・キリストが私たちのためにしてくださった身代わりの死を思いました。私たちのいのちを救うためにイエス・キリストが十字架に架かり、壮絶な苦しみを受けてくださいました。彼の身代わりの死により、私たちは罪を赦され、永遠のいのちに生かされているのです。イエス・キリストの犠牲によって助けられたことを常に感謝して歩みたいと思います。

4.子どもたちをイエス様のもとへ

 福音書の中で、親たちが子どもたちを祝福してもらうため、イエス様のもとに連れてきました。弟子たちは邪魔をしましたが、イエス様は弟子たちに対して憤られ、

「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。」ルカ 18:16


と言われました。
 ここから学ぶのは、まず、親は子どもをイエス様のもとへ連れて行くことが大切だということです。子どもを本当に祝福できる神様のもとへ連れて行くのです。

 そして次に、教会は子どもたちを受け入れ、子どもたちの成長のために祈るべきだと言う事です。「私はこの子の親でないから・・」と言って、教会に来る子どもたちを無視しないでください。神の家族なのですから、自分の子どもだと思って優しい声をかけ、その子どもが悪いときには注意を与えてください。

 子どもたちは教会に集う大人にとって神様からの贈り物です。報酬です。子どもたちの将来を考えるときに、もしかすると医者になってあなたの病気を治してくれるかもしれません。あなたが歳を取った時に介護をしてくれるかもしれません。牧師になって、あなたの人生を導く人になるかもしれません。無限の可能性を持った子どもたちです。そして何よりも主に愛されている人なのです。
 主の教育と訓戒によって育てていきましょう。