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心に響く聖書の言葉


母の日礼拝説教「サラの子となる」 Tペテロ3章1-6節

 教会に集っておられるお母さん方に、心から感謝を申し上げます。今朝は母の日ですから、母親について語られている聖書箇所から、勧めをいたします。

Tペテロ3:1 同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。
3:2 それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。
3:3 あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、
3:4 むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。
3:5 むかし神に望みを置いた敬虔な婦人たちも、このように自分を飾って、夫に従ったのです。
3:6 たとえばサラも、アブラハムを主と呼んで彼に従いました。あなたがたも、どんなことをも恐れないで善を行えば、サラの子となるのです。

1.母親の労苦


 説教の準備のために、二年前の説教の原稿を読み返していると、次のように書いていました。
「母の日は教会で始まった素晴らしい記念日ですので、今朝は母親に対する聖書の箇所を読み、感謝を表したいと思います。母親の労苦を考えると、それは三重苦と言えるでしょう。
@でんと居間に居座る御主人に仕えなければいけません。『結婚する前は優しくて素敵な人だったのに・・』と言っても後の祭りです。どんなに理不尽で無愛想で、話をしても聞いているのか聞いていないのかわからないご主人でも仕えていかなければなりません。
A次に、ちらかしてばかりでかたずけをしない子供に仕えなければなりません。朝からなかなか起きない子供を起こすだけでひと苦労です。グズグズでイライラしっぱなしということがよくあります。けれど母親は我が子を見捨てるわけにはいきません。
BPTAや町内会の働き、ご近所付き合いもして社会に仕えなければなりません。まさに三重苦です。
 さらに、仕事をしておられるお母さん方は三重苦に加えて、会社の社長にも仕えなければなりません。四重苦です。さらにクリスチャンのお母さんは神様に仕え、教会にも仕えなければなりませんから、五重苦、六重苦です。このすべての労苦を一人のお母さんで全てをこなしていかなければならないのですから、その労苦は計り知れないものです。ですから私たちは母親の労苦をねぎらい、母親に感謝して感謝しすぎることはないでしょう。」


 読み返していて、確かに母親とは大変な仕事だと思います。今日の聖書箇所では、「自分の夫に服従しなさい」と、あたかも奴隷であるかのような書き方をしています。本当に聖書の教えなの?と疑いたくなるかもしれませんが、そうなのです。「御言葉に従わない夫」と言うのはクリスチャンでない夫であり、聖書が教える「あなたの妻を愛しなさい」という御言葉に従わない夫です。つまり奥さんのことを愛してくれない夫です。「そんな夫であっても服従しなさい」と教えているのです。

二、不公平

@不公平の理由
「不公平だ!なぜそこまでして服従しなければいけないの?」と思われるでしょう。・・・しかし聖書の教えには常に理由があります。まず聖書の普遍的理由は、男が最初に造られ、女は助け手として後に造られたからです。それゆえ「妻たちよ。夫に従いなさい」と命じられているのです。けれど依然として不公平だと思われる方々が多いでしょう。実はこの不公平こそ、ペテロの手紙の主題となっているのです。この書簡を最初から読んでいくと、「試練を耐えなさい」というメッセージが続きます。ペテロがこの手紙を書いたときは、クリスチャンに対するユダヤ人の迫害に加え、ローマ皇帝による迫害が始まった時代でした。神の福音を伝えているだけなのに、憎まれ殺される全く不公平な時代です。ペテロはその時、クリスチャンがどのような心構えを持つべきかを教え、励ましています。
2:19 人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。
2:20 罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。

 不公平を耐え忍ぶことは、神に喜ばれる事だと教えています。

A不公平を忍耐する模範 
 不公平を忍耐するーーその模範はキリストです、とペテロは続けています。
2:21 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。
2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

 不公平を考えるなら、イエス・キリストこそ最大の不公平によって十字架に架けられ殺されたおかたです。キリストは罪を犯したことがないのに、罪人の身代わりとなって死なれたのです。しかし、この不公平によって私たちに罪の赦しが与えられ、永遠のさばきから救われるのです。ですから、3章1節で「同じように、妻たちよ」と言って、イエス・キリストがしてくださったように、夫が救われるために不公平を耐え忍びなさい、とペテロは教えているのです。

B不公平の是正
 しかし、神様は決して偏ったことをされるお方ではありません。
使徒10:34-35 そこでペテロは、口を開いてこう言った。「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです
ローマ 2:11 神にはえこひいきなどはないからです。(使徒パウロ)

 父なる神は不公平に殺されたキリストを墓からよみがえらせ、彼に勝利を与え、支配者として権威を与えられました。
ヨハネ17:2 それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。
 あなたも同じように、不公平と知りながら忍耐していくなら、神様が必ず報いてくださると信じてください。
3:9 悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。
3:10 「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、
3:11 悪から遠ざかって善を行い、平和を求めてこれを追い求めよ。
3:12 主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行う者に立ち向かう。」

「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい」・・・これこそ主イエスが私たちに教えてくださった偉大な教えです。

C不公平から自由へ
 ペテロは不公平を、ただ耐え続けなさいと教えているのではありません。「自由人として行動しなさい」とも教えています。
2:16 あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。
 人に仕えるのではなく、神に対する奉仕として仕えるという自由です。それは愛から生じる奉仕です。神様が与えてくださる愛によって仕えるのです。愛によって行う奉仕なら、義務や強制ではありません。愛はすべてを忍耐し、期待することが出来る最も素晴らしい奉仕の源泉です。神様から愛をいただいて、御主人を愛するのです。御主人を愛するなら、仕えることは難しくはありません。神様から愛をいただいて子供を愛するのです。子供を愛するなら、ワガママもグズグズも忍耐できます。赤ちゃんを愛しているから、汚いおむつ交換もできるのです。

3.サラの子となる

3:5 むかし神に望みを置いた敬虔な婦人たちも、このように自分を飾って、夫に従ったのです。
3:6 たとえばサラも、アブラハムを主と呼んで彼に従いました。あなたがたも、どんなことをも恐れないで善を行えば、サラの子となるのです。

 ペテロは婦人たちに対して、「サラの子となりなさい」と教えています。サラは信仰の父となったアブラハムの奥さんです。彼女はアブラハムに仕えることによって、イスラエルを含む多くの国々の母となりました。信仰の母と呼ぶこともできるでしょう。
※参考 サライは「王女」という意味だそうです。「サラ」も「王女」を意味しますが、「国々の王女」という強調と広がりを持っているようです。ちょうどアブラム(高貴なる父)からアブラハム(多くの国民の父)と変更されたのに似ています。
創17:15 また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。

17:16 わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」

 神様はサラの信仰と、夫アブラハムに対する従順を知っておられました。彼女の大きな悲しみは子供が与えられなかったことでした。それは彼女の負い目でした。不公平でした。しかし、神様は彼女を引き上げて奇跡を起こし、90歳の時に子供を与えられました。同じように、あなたが不公平を忍耐し、善い行いを続けていくなら、「サラの子」となります。サラの子になるという事は、神様の豊かな祝福が約束されているという事です。なぜならサラの子はイサクであり、彼は「約束の子」と呼ばれ、祝福を受け継ぐ子でした。つまり、あなたがサラの信仰と従順に倣って愚痴をこぼさず忍耐し続けるなら、あなたも「サラの子」となり、祝福を受けることが約束されているのです。
 その祝福のされかたは人によってさまざまでしょう。霊的に祝福される人もいれば、物質的に祝福される人もいるでしょう。賜物が与えられる人、品性が与えられる人など、神様の祝福によって周りの人から誉め称えられるでしょう。ある人はサラのように子が与えられ、子ども達によって誉め称えられるでしょう。

 しかし、子供が与えられない婦人もいます。また、生涯独身でいる女性もいます。その人はサラの子になることが出来ないのでしょうか?祝福されないのでしょうか?不公平のままでしょうか?・・・この質問に対して、イエス様が素晴らしい答えを教えてくださいました。
マルコ3:35 「神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」と。子供がいない女性は、子育てに時間をとられない分、主イエス様に仕えることができます。教会に集う人たちのために奉仕をし仕えていくことが出来ると思います。その時、その人は教会に集う子供たち、青年たち、男性たち、女性たちにとって、かけがえのない母親となり、誉め称えられるのです。

女性の皆さん、「サラの子」となってください。

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 創世記の中で、サラと同じ時代を生きた女性の中に、ロトの妻がいました。ロトはアブラハムの甥でした。この夫婦は不品行の町ソドムに住んでいました。神様はソドムの町を滅ぼすことを決められた時に、御使いを遣わし、彼らをソドムの町から救い出そうとされました。
創19:15 夜が明けるころ、御使いたちはロトを促して言った。「さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまおう。」
19:16 しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。──【主】の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。
19:17 彼らを外のほうに連れ出したとき、そのひとりは言った。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」

 しかし、ロトの妻は後ろを振り返ったので、塩の柱となってしまいました。彼女は神様の救いの言葉を軽く考え、自分が残してきたものを惜しみ、振り返ってしまったのです。サラとロトの妻は対照的です。この妻たちの違いこそ、アブラハムとロトの違いを生み出したと言えるでしょう。