マタイによる福音書22章1-14節 「三つのたとえ話;後半」 参照箇所;ルカ14:15-24

 ユダヤ人の王としてエルサレム入りしたイエス・キリストがそこで見たものは、エルサレム神殿が商売の場所となり、指導者たちは堕落し、形骸化したユダヤ教の姿でした。イエス様は三つのたとえを用いて、不信仰を繰り返すイスラエルの過去と現在、そして未来を示されます。

22:1 イエスはもう一度たとえをもって彼らに話された。
22:2 「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。
22:3 王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。
22:4 それで、もう一度、次のように言いつけて、別のしもべたちを遣わした。『お客に招いておいた人たちにこう言いなさい。「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。」』
22:5 ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、
22:6 そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。
22:7 王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。


一、二つの解釈

 三番目のたとえは王子の結婚披露宴のたとえです。二つの解釈があります。
A. 一般的な解釈は、二つ目のたとえ(ぶどう園の主人と農夫のたとえ)と同様のことを教えているという解釈です。神様が遣わされた預言者たちのメッセージを受け入れないため、神様はイスラエルに裁きをくだし、その祝福を取り上げ、別のグループである教会に与えられたという解釈です。
B. イスラエルの将来(終末)を預言しているという解釈です。この解釈を支持する理由は次の点です。
 @ 二つ目のたとえと全く同じ内容で語られるのは腑に落ちない。
 A 王子の結婚披露宴がこのたとえの設定です。王子としてたとえられるのは、聖書中、常にイエス・キリストであり、その花嫁は教会です。結婚披露宴の準備が整ったという事は、これは教会が完成した後、あるいは完成間近のことを啓示していると考えられます。
 B これら三つのたとえ話の目的は、一貫してイスラエルの過去と現在と未来を示そうとしているので、未来のイスラエルについての啓示だと考えられます。
 C マタイだけがこのたとえを記しています。マタイはイスラエルを読者として記事を連ねています。Aの解釈では話の中心が教会に移ることになります。
 D 10節に登場する人々は異邦人とは書かれていません。王様が集める人々は自国の国民でしょう。従ってこのたとえではイスラエル人を指していると考えられます。教会はキリストの花嫁という立場であり、聖書解釈上、混同されるべきではありません。
 E 患難期の事と考えるなら、黙示録が示す啓示と多くの点でつじつまが合います。
以上の理由から、このたとえを「世の終わりの時代におけるイスラエルに起こる出来事」と解釈して学んでいきましょう。

@ 招待客
 3節、5節に出てくる招待客の描写は、現在のユダヤ人たちの姿を見るようです。彼らは今に至るまで、王子であるキリストのことをまったく気にもかけず、自分たちの世の仕事、商売(神殿での商売も含め)に夢中です。「王子であるキリストの結婚披露宴が始まりますよ!」つまり「世の終わりが近いですよ!」という呼びかけを全く無視しているのです。
 「何もかも整いました」とは、花嫁である教会が完成し、天に引き上げられた時を指しているでしょう。つまりそれは患難期の始まりです。それでも彼らは王子の結婚披露宴に来たがろうとせず、かえって遣わされた神のしもべたちを迫害して殺してしまいます。その時、神のさばきとして今までになかったほどのイスラエル人迫害が始まります。それは彼らに対する世界の人々の憎しみがそうさせるのですが、実は神の御子を無視するイスラエルに対する神の裁きなのです。

A 遣わされたしもべたち
 黙示録には、患難期に起こる様々な災害や反キリストの預言があります。7年間の患難期は旧約聖書エレミヤ30章で「ヤコブの悩みの時」と預言されており、ダニエルの「70週の預言」の最後の1週間に当たります。
エレミヤ30:7 ああ。その日は大いなる日、比べるものもない日だ。それはヤコブにも苦難の時だ。しかし彼はそれから救われる。
ダニエル 9:24 あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。

 患難期の真の目的はイスラエルを神に立ち返らせるための試練です。黙示録7章には、この患難期においてイスラエル12部族の中から144000人が選び集められることが預言されています。彼らはキリストの福音を受け入れ、宣教する人たちだと考えられます。彼らが「遣わされたしもべたち」であり、一部が招待客に殺される人たちだと思われます。
黙示録7:4 それから私が、印を押された人々の数を聞くと、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、十四万四千人であった。

B 善い人も悪い人も
22:8 そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。
22:9 だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』
22:10 それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。

 患難期においてイスラエルが裁かれて多くの人々が死にますが、福音宣教が続けられることによりイスラエルに霊的リバイバルが起こります。この時、「イスラエルはみな救われる」という預言が成就します。イスラエル民族が主イエスを信じて罪の赦しをいただきます。律法を守る守らないは全く関係なく、この患難期においてイスラエル人は救われるのです。善い人にも悪い人にも福音が宣べ伝えられ、誰もがキリストの福音を信じるからです。

C 礼服を着ていない人
 しかし、その中に婚礼の礼服を着ていない人が一人だけいます。霊的リバイバルの中にあっても頑としてキリストの福音を受け入れない人です。
22:11 ところで、王が客を見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。
22:12 そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。
22:13 そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ』と言った。

 婚礼の服は、当時の習慣によると、王室や貴族の婚礼式では、招待する側が招待した人たちの婚礼の服を用意することが常であったようです。従って、礼服を着ていない人は貧しくて礼服を買うことが出来なかったのではなく、この人は与えられた礼服を拒否して入ってきたことになります。礼服とは「義の衣」(イザヤ61:10)であり、「小羊の血で洗われた白い衣」(黙示7:14)です。その礼服を拒否するという事は、あくまでキリストを受け入れないという人です。差し出された救いの御手を拒む人に福音は残されていません。その人にくだる神のさばきは格別厳しいさばきです。手足を縛られ、外の暗闇に放り出されます。そこは恐ろしい災害が襲っている場所です。つまり死と滅びのさばきがくだされるのです。
イザヤ61:10 わたしは【主】によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。
黙示録7:14 そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。


22:14 招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」
 この言葉は三つのたとえ話のまとめとなっていると思われます。神様はすべての時代を通してイスラエル人を選民として導かれているのに、その御心に従う人が少ないことを示しています。

二、霊的教訓

 このたとえを通して、人間の二つの不信仰をイエス様は非難されています。
@ ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き
 王子の結婚披露宴という重要な招待に対して、関心を払わず、無視してしまうのは何を優先すべきかを全くわかっていない人です。もし、あなたが天皇陛下から招かれたなら、それは光栄なことです。招待を無視して行かないなら非難されて当然です。クリスチャンは天皇を崇拝することはしませんが、国王として尊敬と敬意を払うべきです。その招きに応じないなら、その人の人生における大失態です。それ以上に、父なる神と御子イエスからの招きに応じるのは人として当然のことです。仕事熱心になることはよいことです。社会の中では、立派な人と言われるでしょう。栄誉や賞賛をいただくでしょう。しかし、仕事以上に大切なものがあるのです。それは神を信じる事、そして神を礼拝することです。その優先順位を間違えてしまうなら、人生を棒に振ってしまいます

A そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。
 与えられた礼服を着ず、自分のスタイルで披露宴に入ろうとする人です。それは、神が与えてくださる一方的な恵みを知りながらも、それを拒否し、自分の主張を通して生きる人です。型破りな人。悪く言えば、わがままな人。自己流の生き方を通すのはかっこいい生き方と思うかもしれません。「俺には俺の生き方がある!俺は俺を信じて生きていく!」・・いくらキザに決めても、俺俺詐欺と同様、嫌われる生き方です。神のさばきの日に、何の言い訳もできない愚かな生き方なのです。

 私たちは自分一人で生きているのではありません。あなたが生まれる前からあなたを設計し、母親の胎内で組み立てられ、いのちを与え、支え導いておられる創造主がおられるのです。目に見えない神を信じることが出来ないあなたのために、神様はひとり子キリストを遣わされました。御子キリストはさまざまなしるしをもって、神の力と父の御心を示されました。そして、実に十字架の死をもって、私たちに罪の赦しを与えてくださいました。それは神様が一方的に与えられた恵みです。すべての人にこの恵みが与えられているのですから、私たちがすべきことは感謝してそれを受け取ることだけなのです。
 与えられた救いの恵みを受け取り、神様の御心に従う時、私たちは祝宴にあずかります。クリスチャンの立場はキリストの花嫁です。結婚披露宴の主役です。その祝宴は喜び祝う時です。キリストを信じる者には永遠の大いなる祝福と喜びが約束されているのです。
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※結婚披露宴のたとえには二つの解釈があると書きましたが、イエス・キリストがこのたとえを語られたとき、二重預言としてイスラエルに起こる出来事を示されたという可能性もあるでしょう。つまり、両方の解釈とも正しいという事です。ただし、預言の完全な成就は患難期においてです。また、このたとえは24章から始まる終末預言の伏線となっていると言えるでしょう。