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心に響く聖書の言葉


マタイによる福音書22章34-40節 「最も大切な戒め」



 エルサレム入城されたイエス・キリストは神殿で教えられました。そこへ宗教指導者たちがやってきて言葉の罠にかけようとしました。最初に祭司長と長老たち、次にパリサイ人、サドカイ人、そして最後に律法学者です。彼は「律法の専門家」でした。彼らの最後の切り札として質問に立ったのです。

一、 最も大切な戒め

22:34 しかし、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、いっしょに集まった。
22:35 そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。
22:36 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」

 ユダヤ教のラビたちは、モーセの律法を分類して、「~しなければならない」と命じられている律法を248、「~してはならない」と禁止されている律法を365、合計613の戒めがあるとし、それぞれの戒めに細かい規定を加えていきました。そして、613ある戒めの中で一番大切な戒めとされていたのは「シェマ・イスラエル」と呼ばれる申命記6:4-9の戒めでした。

申命記6:4 聞きなさい。イスラエル。【主】は私たちの神。【主】はただひとりである。
6:5 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、【主】を愛しなさい。
6:6 私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。
6:7 これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。
6:8 これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。
6:9 これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。


 この聖句は「聞きなさい;ヘブル語でシェマ」で始まっているので、この戒めを「シェマ」または「シェマ・イスラエル」と呼び、厳格なユダヤ教徒は今日でも命じられたとおり、この聖句を書いた羊皮紙を革の小箱(テフィリン) に収め、一つは左上腕に、もう一つは額に巻きつけて朝夕の祈りをします。
 シェマは三つの部分から構成されています。(一部 : 申命記 6:4~9、二部 : 申命記 11:13~21、三部 : 民数記 15:37~41)


※ユダヤ教徒が身に着ける丸い帽子はキッパ、ふさが四隅についた長四角い上着はタリートと呼ばれます。また、メズーザー(門柱の意)と呼ばれるものを家の門柱、シナゴグ(礼拝堂)の入り口に斜めに取り付け、部屋に入るたびに手を当てて祈ります。メズーザーにもテフィリンと同様、「シェマ」を記した羊皮紙が入れてあります。


 律法の専門家が「律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」と質問したのは、異端視していたイエスが「シェマ」ではなく違う答えをしたなら、「あなたは律法を学んでいない!」と非難することが目的だったと思われます。

二、主イエスの解答

 イエス・キリストの答えは、律法学者の思惑から外れました。
22:37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
22:38 これがたいせつな第一の戒めです。


 イエス様も「シェマ・イスラエル」の戒めが最も大切な戒めだと認められました。ただし、イエス様の答えは続きました。

22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
22:40 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」


 レビ記19章の戒めです。「律法全体と預言者」つまり聖書の教えはこの二つの戒めにかかっている、と答えられました。
 マルコ福音書にはこの話の続きがあります。

マルコ 12:32 そこで、この律法学者は、イエスに言った。「先生。そのとおりです。『主は唯一であって、そのほかに、主はない』と言われたのは、まさにそのとおりです。
12:33 また『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」
12:34 イエスは、彼が賢い返事をしたのを見て、言われた。「あなたは神の国から遠くない。」それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者がなかった。

 律法学者からすると、「敵ながらあっぱれ」という気持ちだったのでしょう。真理を探究する人は常にこの律法学者のようであるべきだと思います。自分と違う主義、違う立場の人であっても、真理の言葉に耳を傾ける態度は大切なことです。


三、主イエスが示された真理


 主イエスが示された真理は、「シェマの戒めを守って神を愛すると言うなら、その人は隣人をも愛すべきです!」という事です。この二つの戒めを守り行なってこそ、神の律法を守ったことになるのです。

 確かにモーセの十戒を考えると、第一戒から第四戒までは神に対する戒めであり、第五戒から第十戒までは隣人に対しての戒めです。つまりイエス様の答えは十戒のまとめであり、それは律法全体のまとめになっているのです。

 パリサイ人たちはシェマの戒めを大切にし、神を礼拝することを重要視しました。613ある戒めを厳格に守ろうとしました。その熱心さから、戒めを破った人や戒めを守らない人々を裁き、見下しました。サマリヤ人や取税人、遊女たちを罪人と定め、聖書知識のない人たちを神に呪われているとまで言いました。(参照:ヨハネ 7:49 )
 彼らは神様を愛すると言いながら、隣人を常にさばいてきたのです。これこそ信仰者が陥りやすい罪なのです。

 主イエスが二つ目の戒めを「同じように大切だ」と語られたのは、信仰者が陥ってしまう高慢な思いと、憐れみの無い心を戒めるためです。歴史は人間のその罪を証明してきたのではないでしょうか。神を愛するという人たちが、人々を迫害し、戦争を起こし、人々を殺害してきた歴史があります。

 また、私たちの毎日の生活でも同じことが言えるでしょう。神様を愛すると言いながら、隣人を愛することが出来ない。兄弟姉妹を愛さないどころか、憎しみさえ持ってしまう。だから『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という戒めが必要なのです。

四、教会に対する戒め

 教会時代において、クリスチャンに律法の戒めは命じられていません。ですから、クリスチャンはテフィリンの箱を身につけて祈る必要はありません。家の門柱にメズーザーを取り付ける必要はありません。しかし、語られている神の御心は同じです。神の御心は、私たちが心を尽くして神を愛すること、そして隣人を愛することです。

Ⅰヨハネ4:20-21 神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。

 
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』と言われた神様の御心に従いたいと思う時、誰もが問題にぶち当たります。「自分には愛が足りない」と感じます。その時にどうすればよいでしょうか?・・・その答えは難しいのですが、イエス様の次の言葉にヒントがあると思います。

ヨハネ 13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

 レビ記19章の戒めとどこが違うのでしょう?何をもって
新しい戒めと言われたのでしょう?・・・それは、「わたしがあなたがたを愛したように」が加えられいる点です。
 イエス様があなたを愛してくださったように、その模範にならって隣人を愛しなさいと命じられているのです。

 律法には模範がありませんでした。律法はただ「愛しなさい」と命じました。しかし、愛せと命じられても、心に愛がなければ愛することが出来ません。心が優しくないのに、優しい人になりなさいと言われても無理です。愛されなければ愛することが出来ません。赦されなければ人を赦すことが出来ません。だから、主イエスは私たちを愛してくださり、罪の赦しを与えてくださいました。

 イエス様がこの「新しい戒め」を話されたのは最後の晩餐の席だったことを考えると、よく理解できるでしょう。イエス様はイスカリオテ・ユダが裏切ることを知っていながら、彼の汚れた足を洗い、手拭いで拭かれました。ペテロがイエス様を三度否むことを知っていながらペテロの足を洗われました。他の弟子たちも同様です。イエス様は彼らの裏切りを知っていながら、彼らを愛されたのです。

 主イエスはあなたにも同じように愛を示してくださいました。私たちが「神なんて信じない、神なんか要らない」と背を向けていた時に、キリストはあなたの罪の赦しのために十字架に架かり、身代わりとなって死んでくださいました。主イエスは次のように言われました。
ヨハネ 15:13 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

 その言葉の通りの事を主イエスはしてくださいました。この主イエスの愛を知るところからクリスチャン生活が始まります。キリストが示された愛の模範に倣って、私たちも神様と人を愛することが出来るのです。キリストの十字架の愛によって造り変えていただきましょう。